伊達政宗の肖像画

伊達政宗/wikipediaより引用

戦国諸家

伊達政宗に娘を嫁がせた田村清顕の狙いとは?家の命運を懸けた婚姻

天正十四年(1586年)10月9日は田村清顕(きよあき)の命日です。

いったい誰?と思われる方が多いでしょうか。

伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)の父、陸奥国南部の戦国大名として知られますが、清顕には男児がおらず実子は一人娘の愛姫だけでした。

そんな大事な娘をなぜ伊達家へ嫁がせたのか?

婿養子を迎えて田村家を存続させようとは考えなかったのか?

伊達家にしたところで、あまり強大とは言えない田村家の娘を嫁に入れたところでメリットは少なそうにも見えてきます。

こうなると両者には何か別の事情があったようにも思え……田村清顕の生涯と共に振り返ってみましょう。

 


田村家はどの勢力に囲まれていた?

田村家の本拠は、現在の福島県三春町にあった三春城です。

これがなかなか厄介な場所にありまして。

北は二本松の畠山氏、西には会津の蘆名氏、南に須賀川の二階堂氏、東にも相馬氏がいるだけでなく、さらに南方からは常陸の佐竹氏が迫っている。

田村氏は窮地に追いやられていました。

もちろん四方全てがずっと敵だったわけではありません。

例えば天正二年(1574年)には蘆名氏と組んで岩瀬郡を攻めたかと思えば、翌年には蘆名氏と戦ったり、周囲の敵味方は時期によってコロコロ入れ替わっています。

しかし天正五年(1577年)頃、状況が一変しました。

それまで対立していた会津の雄・蘆名氏と常陸の名門・佐竹氏が手を結び、そこに白河・石川・二階堂氏なども同調したのです。

研究者の山田将之氏は著書『戦国武将列伝1 東北編』の中で、このとき田村氏は完全に孤立して危機的な状況に陥っていたと記しています。

天正七年(1579年)には、塩松(福島県二本松市)の大内定綱までもが田村家から離れて蘆名方へ。

清顕は苦し紛れに関東の北条氏へも連絡を送りましたが、距離もあって打開策にはなり得ません。

では座して滅亡を待つしかなかったのか?

 

清顕の母は伊達氏で妻は相馬氏

田村清顕の母は伊達稙宗の娘でした。

妻は相馬顕胤の娘。

しかも妻の母も稙宗の娘であり、清顕は伊達・相馬の両家と幾重にもつながっていました。

子沢山の稙宗が、周辺領主と次々に婚姻を結んでいたため、南奥(なんおく)の領主はほとんどが親戚関係にあったのです。

伊達稙宗の肖像画

伊達稙宗/wikipediaより引用

それでも戦が無くなったわけではありません。

伊達氏と相馬氏は、天文の乱から天正年間まで約40年も争いを続けていました。

こうした状況で欠かせなかったのが、当事者同士の間に入って和睦をさせる「中人(ちゅうにん)」という仲裁役です。

田村清顕には中人を務めた例が6件確認できますが、そのうち半分の3件が伊達・相馬の争いに関するもの。

姻戚関係が色濃い奥州では、合戦による殺し合いが激化する前に和睦を結んで矛を収める外交手段が頻繁に用いられていました。

清顕もそこに活路を見出すしかない状況です。

 


伊達にも田村にもメリットのある結婚

前述の通り田村清顕には男子がおらず、本来なら一人娘に婿を迎えて家を継がせたかったでしょう。

それでも清顕は天正七年(1579年)冬、12才の愛姫を13才の伊達政宗に嫁がせることを決意。

孤立した田村家にとっては、将来的な跡継ぎの心配より、まずは眼前の敵への対抗手段を講じるほうが重要事項だったのです。

では伊達家は?

敵に囲まれた田村氏と結んで何か得はあったのか……というと、そこで重要になってくるのがこれまた前述の通り相馬氏との戦いです。

当主の伊達輝宗は相馬との戦いに執念を燃やしていました。

伊達輝宗の肖像画

伊達輝宗/wikipediaより引用

伊具郡(宮城県丸森町周辺)をめぐる争いは天正四年(1576年)から続き、いったんは収まるも5年後の天正九年(1581年)には、息子・政宗の初陣をともなって再開されます。

相馬氏と縁の深い田村家を伊達方へ引き寄せておく意味は、決して小さくなかったでしょう。

なんせ田村領は、伊達家が南へ勢力を伸ばすときの入口にあり、後に政宗が塩松や二本松へ攻め込むときには、田村家と組んで動いています。

清顕は伊達家の力を、伊達家は田村家の位置を――両家の利害は一致していたのです。

こうして政宗と愛姫は結ばれたわけですが、田村にとって伊達家との婚姻は、すぐに効果が出たわけではありませんでした。

 

婚姻によって田村家は救われたのか

天正十年(1582年)3月、蘆名・白河・佐竹の三氏に攻められた田村家は、今泉城(福島県須賀川市)などを失いました。

5月には伊達輝宗の仲介で蘆名・二階堂両氏と和睦しますが、この和睦もすぐ二階堂氏に破られています。

天正十二年(1584年)にも、蘆名氏や岩城氏が田村領へ攻め込んできました。

流れが変わったのは天正十三年(1585年)、政宗が家督を継いでから。

このころ中央では前年に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康による「小牧・長久手の戦い」の決着が付いていますから、政宗の生まれが一歩遅かったと囁かれるのがよくわかりますね。

そんな政宗がまず狙ったのは、田村家から離れた大内定綱でした。

大内の征伐を強く望んでいたのが他ならぬ清顕であり、伊達と田村の連合軍は小手森城を落とし、大内氏の本拠・小浜城を手に入れました。

その後、輝宗が二本松の畠山義継に殺されると、清顕は二本松攻めや人取橋の戦いにも政宗と共に出陣。

絵・富永商太

婿の政宗が当主となり、ようやく婚姻によるメリットが大きく花を開かせました。

しかし……。

 

愛姫の遺言によって田村家は再興

その矢先の天正十四年(1586年)10月9日、清顕は世を去ります。

伊達家の記録『貞山公治家記録』には、愛姫に男子が生まれたら政宗が育て、「田村の家嗣」とするよう清顕が命じていた、と記されています。

ただし、江戸時代に伊達家がまとめた記録であり、史実として扱うには注意が必要です。

男子のいない田村家では、家中が大きく二つに分かれました。

清顕の後室(相馬氏)を頼む親相馬派と、清顕の母(伊達氏)を頼む親伊達派です。

天正十六年(1588年)、相馬義胤が三春城への強行入城を試みた際には、親相馬派とみられていたはずの田村梅雪斎もこれを押し返し、単純な二派対立でもなかったことがわかります。

最終的に政宗が三春城へ入城。

清顕の甥・田村宗顕(むねあき)を名代に置いて、田村氏を伊達氏の支配下へ組み込みました。

問題はその後です。

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、田村氏は独立した大名としての家を失ってしまいました。

その名跡をよみがえらせたのが、他ならぬ愛姫です。

愛姫の肖像画

愛姫(陽徳院)/wikipediaより引用

愛姫の遺言によって、孫の宗良(むねよし・伊達忠宗の三男)が田村家を再興し、岩沼藩主になると、その子・田村建顕(たけあき)の代に一関へ移され、同家は幕末まで続きます。

田村清顕が生き残りを懸けて挑んだ奥州外交は最終的に実を結んだのです。

なお、愛姫や伊達政宗の生涯については以下の関連記事をご覧ください。

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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