秀吉に二度も逆らいながら、殺されるどころか1万石を与えられた武将がいる――。
いったい誰なのか?というと、越中(富山県)の戦国大名・佐々成政(さっさ なりまさ)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも秀吉や前田利家と常に衝突していた様子が描かれていましたが、その後、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いで劇中の登場はナシ。
実は成政、この二つの戦いでいずれも秀吉と対立しており、戦後は改易あるいは切腹へ追い込まれても仕方のない展開でした。
ところが助命されるだけでなく、前述の通り直後は1万石、さらにその後には肥後を与えられる破格の待遇を受けています。
なぜ成政は二度も逆らいながら許されたのか?

佐々成政/wikipediaより引用
ドラマでは描かれなかった「越中征伐」と共に振り返ってみましょう。
一度目は賤ヶ岳で勝家方についた
元々は織田信長の親衛隊・黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭だった佐々成政。
後に柴田勝家のもとに与力として預けられ、

柴田勝家/wikipediaより引用
越中で勢力を誇っていましたが、信長の死後、天正十一年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」では、柴田軍が羽柴軍に敗北。
同時に追い詰められた成政は、どう動いたのか?
その行動は、じつに大胆でした。
金沢城に入った秀吉のもとへ、自ら足を運んだのです。
同年4月28日に対面すると、成政は越中国主の立場を認められ、さらには越後の上杉家や飛騨の三木家と秀吉をつなぐ役目まで任されました。
賤ヶ岳の敗戦後に勝家は自害し、その甥の佐久間盛政が処刑されたことを考えるとその差は歴然でしょう。
にもかかわらず、成政は再び秀吉と対立します。
二度目は家康と組んだ
翌天正十二年(1584年)、秀吉と織田信雄・徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが始まると、成政は信雄・家康につき、再び秀吉と対立しました。
具体的には北陸で前田利家と構えたのです。

前田利家/wikipediaより引用
同年9月、成政は前田方の能登末森城を囲むも、救援に来た利家に急襲されて大敗。
依然として戦いは続いていましたが、同年11月には信雄が秀吉と和睦し、12月には家康も息子の於義伊(後の結城秀康)を秀吉の養子として送りました。
この一報に慌てた成政は、真冬の富山を発ち、雪深い山中を越えてはるばる浜松の家康のもとへ向かい、秀吉との継戦を懇願したといいます。
北アルプスを越えたという「さらさら越え」の伝説ですね。
本当に真冬の北アルプスを越えたのか。
その経路は定かではありませんが、成政が浜松へ赴いたことは確認できます。
ただし、この訪問の成果については研究者の見方が分かれます。
平山優氏は『小牧・長久手合戦』で、信雄・家康の協力を得られず、空しく帰国したようだとしています。
一方、萩原大輔氏は『戦国武将列伝 別巻1 織田』で、家康との連携確認という面で一定の成果を挙げたとみています。
いずれにせよ翌年2月には信雄が秀吉に臣従し、成政はさらに苦しい立場に追い込まれました。
それでも秀吉に臣従しないとなればどうなるか?
7万の大軍に頭を剃った
天正十三年(1585年)8月、秀吉は7万余りの大軍を率いて越中へ押し寄せました。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では描かれませんでしたが、同年7月から8月にかけて羽柴秀長による四国攻めが終わるのと時を同じくして攻め込まれたわけですね。
「越中征伐」あるいは「富山の役」などと呼ばれ、越後からは上杉景勝の軍勢も出陣、成政は東西から挟まれました。

上杉景勝/wikipediaより引用
もはや勝ち目はありません。
成政は戦わずに頭を剃って僧の姿となり、秀吉の本陣に出向いて、本拠の富山城を明け渡します。
二度目の対立ですから、普通なら切腹を命じられても文句は言えないでしょう。
そこで実際に下された処分は?
◆降参した成政への処分
・命は助ける
・越中の領地はすべて没収し、新川郡の知行権だけを預ける
・妻子と共に大坂へ移る
・大坂での暮らしの費用として、摂津国能勢郡(のせぐん)で1万石を与える
越中の領地はすべて取り上げられた一方、大坂での生活費として新しく1万石を与えられたのです。
萩原大輔氏は書籍『戦国武将列伝 別巻1 織田』の中で、再度の反逆だったにもかかわらず思いのほかの厚遇だった、と述べています。
なぜ秀吉はこのような恩情を見せたのでしょうか。
許され続けた男の結末
大坂での佐々成政は、罪人として閉じ込められていたわけではありません。
秀吉のそば近くに仕え、話し相手を務める「お伽衆」に加えられたともされ、翌年には羽柴の名字を名乗り、侍従にも任じられました。
そして降参からわずか2年後の天正十五年(1587年)5月、九州平定のさなかに、成政は肥後一国を任されます。
二度逆らった男が、ふたたび国持ち大名に返り咲いたのです。
なぜそこまで取り立てるのか?
前述の通り、成政は信長直属の親衛隊・黒母衣衆でも筆頭だった武将。
秀吉はのちに、信長の時代から成政は「武者のおぼえ」の高い者と評判で、自分もその力を認めたので肥後を与えた、と書き残しています。

豊臣秀吉/wikimedia commons
急激に広がる領地を任せられる人材は限られており、越中を治めた実績を持つ成政は、秀吉にとって手放すには惜しい武将だったとも考えられます。
ところが、です。
肥後に入った直後に国衆たちの大規模な一揆が起き、秀吉の怒りは収まらず、成政は天正十六年(1588年)閏5月14日、摂津尼崎で切腹を命じられてしまいました。
最期は、あっけないものでした。
秀吉は、一揆の首謀者たちを処刑しながら成政だけを助けては不公平になるので、「不便ながら(かわいそうだが)」切腹させたのだと書き残しています。
二度の敵対を許した秀吉も、肥後統治の失敗までは許さなかったのでした。
なお、成政の生涯や、さらさら越え、肥後国衆一揆については、以下の記事で詳しく扱っています。
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佐々成政の生涯|信長の側近から大名へ 最期は秀吉に敗れた反骨の戦国武将
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さらさら越え|戦国時代に厳冬の北アルプスを徒歩で越えた佐々成政
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戦国末期の肥後国人一揆|成政が切腹に追い込まれたのは秀吉の策略か
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参考文献
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)
- 平山優『小牧・長久手合戦』(2024年12月 KADOKAWA)



