何かピンチに遭遇したら家族を置いて逃げてしまう――そんな情けない男を夫にしてしまう妻はいつの時代も不幸であり、その戦国代表と言えるのが“荒木だし”かもしれません。
大河ドラマ『豊臣兄弟』をご覧になり、驚かれた方も少なくなかったでしょう。
織田信長を怖がるあまり、妻や家臣たちを見捨てて有岡城から逃亡してしまう荒木村重。
荒木だしはその妻であり、ドラマの中では六条河原で斬首される悲惨な最期を迎えていました。
あの状況はいったい何なのか?
女子供は助けられないの?
史実はどうだったの?
そんなふうに感じた方もいらっしゃるでしょう。

そこで本記事では彼らが実際にどんな最期を迎えたのか。
荒木だしの生涯と共に振り返ってみたいと思います。
本名は「ちょぼ」?
荒木だしは生年不明。
父は、本願寺に仕えていた川那部左衛門尉(川辺左衛門尉)とされ、祖父は細川晴元の側近・田井長次と伝わります。
名家ではない、されど庶民でもない家柄だったのでしょう。
不思議なのが名前です。
いったい何を根拠に「だし」と名付けられたのか?
というと、こちらは本名ではなく、彼女が有岡城の大手にある出丸に住んでいたからだったとか。
むしろ本名のほうが意外でして……。
「ちょぼ」です。
冗談かと思いきや『立入左京亮入道隆佐記』などの記録に残されています。
「おちょぼ」という言葉が江戸時代には「かわいらしい少女」という意味でしたので、そういう感覚かもしれませんね。
だしは『信長公記』にも「有名な美人」と記されるほどですので、本当に可愛らしい少女だった可能性は否めないでしょう。
彼女が荒木村重と結婚した時期や経緯などは不明です。

荒木村重/wikimedia commons
村重自体が国衆からのし上がって信長に気に入られ、摂津を任せられるまで一気に出世していますので、結婚当時の記録が不詳なのも仕方ありませんね。
では、そんな村重が、天正六年(1578年)10月に織田家から離反した後、史実ではどんな展開を迎えたのか?
まずは「有岡城を抜け出した」運命の一日に注目してみましょう。
有岡城に残されただし
離反から約1年後の天正七年(1579年)9月2日、荒木村重は有岡城を抜け出し尼崎城へ向かいました。
以下の地図をご覧の通り、内陸にある有岡城から
海側の尼崎城までは、南へほぼ直線で約8kmの距離。
徒歩なら1時間半ぐらいですね。
『信長公記』によると、5~6人の伴を従えた村重は夜にこっそり脱出して、この記述が「妻子を捨てて逃げた」という悪評につながりました。
では実際はどうなのか?
近年の研究では、この移動を単なる逃亡ではなく、軍事的な意図を持った行動だったと見る向きもあります。
尼崎城は、毛利水軍や雑賀衆から支援を受けるための重要拠点。
大坂本願寺への補給にも関わる場所でしたので、絶対に落とされるわけにもいかず、さらには毛利の支援も要請しなければなりません。
そこで村重自ら出向いて尼崎城の指揮を取ったというのですね。
詳細は以下の記事に譲ります。
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荒木村重は本当に卑怯者だったのか?妻子を捨てて逃げた男の実像
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軍事的な事情はどうであれ、だしや家臣の妻子たちが有岡城に残されたことは事実でした。
助命の条件は尼崎城・花熊城
有岡城は、力攻めで一気に落ちたわけではありません。
村重が有岡城を出た後も織田軍は包囲を続け、持久戦に持ち込みました。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)
そして、天正七年(1579年)10月15日、滝川一益が調略に成功。
城内から寝返りが相次ぎ足軽大将たちが織田方に通じると、侍町は放火され、有岡城は天主周辺だけが残る「裸城」のような状態となりました。
残されたのは村重の妻・だしをはじめとする女性や子供、関係の深い家臣たちです。
天正七年(1579年)11月9日、有岡城にいた荒木久左衛門らは、尼崎城の村重のもとへ向かいました。
目的は、だしたちの助命です。
彼らは村重に対し、尼崎城と花熊城(花隈城)を開城するよう求め、明智光秀も、同様の条件を提示したとされます。

明智光秀/wikimedia commons
それでも村重は応じません。
その結果、『信長公記』では、村重が自身の命を惜しんで開城を拒んだと見なし、信長が見せしめとして有岡城に残った者たちの処刑を命じたと記します。
この部分だけ読むと、確かに村重が妻子を見捨てたようにしか見えない。
実際はどうなのか?
尼崎城や花熊城には、荒木方だけでなく、毛利勢や雑賀衆も入っていました。
村重や重臣たちは、毛利氏や本願寺に人質を出しています。
つまり、村重の判断だけで城を自由に開城できる状況ではなかったのです。
研究者の天野忠幸氏は著書『荒木村重』の中で、「信長がすでに助命嘆願を認めない方針を固めていた」可能性を指摘しています。
そう考えると、処刑はかなり早い段階で避けがたい状況になっていたのかもしれません。
もちろん、村重に責任がないわけではありません。
信長に背き、戦争を続け、結果として妻や家臣の家族を救えなかった。
しかし、だしの命を握っていたのは信長であり、処刑を決めて実行したのも信長でした。
いったい残された者たちは、史実においてどのように処刑されたのでしょうか。
七松で始まった大量処刑
天正七年12月13日、尼崎近くの七松で、荒木方の妻子や家臣たちは殺害されました。
『信長公記』によると、女性や子供が次々に引き出され、磔にされたうえで鉄砲で撃たれたり、槍や薙刀で刺殺されたり。
幼い子供は母親に抱かせたまま縛りつけられ、母子共に殺されたとも記されています。
さらに、別の者たちは家に押し込められ、そのまま焼き殺されるというあまりにも凄惨な方法も記されていますが、史料によって人数には幅があります。

ただし、女性や子供が含まれていたのは事実です。
なぜこれほど過酷な見せしめを行ったのか?というと、尼崎城や花熊城に籠る者たちへ圧力をかけるためでした。
信長に逆らえばこうなる――冷酷な見せしめだったのでしょう。
むろん、その悲劇は荒木だしにも及びました。
七松の大量処刑から三日後。
天正七年12月16日、村重の妻だしをはじめとする三十余名は、京都の六条河原で処刑されました。
中世から刑場として使われてきた有名な場所であり、荒木方重臣の家族たちも含まれていました。
だしは最期の時も取り乱さず、神妙な態度であったともされます。
引き回された人々の中には、和歌を残した者もいました。
夫婦の別れを嘆く歌。
子への未練を断とうとする歌。
阿弥陀の救いに望みをつなぐ歌。
その言葉が記録に残ったことは、せめてもの救いと言えるかもしれません。詳しくは『信長公記』の記事でも取り上げています。
だしの最期
だしは、車から降りると帯を締め直し、髪を結い直し、小袖の襟を後ろへ引いて首を出すと、斬られました。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも、そうした流れで描かれましたね。
あれは『信長公記』にあった記録だったのです。

処刑された荒木一族を、『信長公記』に掲載された処刑順に掲載しておきます。
①吹田某(20才ぐらい・荒木村重の弟)
②荒木村重の妹(17才・野村丹後の妻)
③荒木村重の娘(15才・隼人の妻・妊婦)
④だし(21才)
⑤荒木村重の娘・だご(13才・隼人の妻の妹)
⑥吹田某の妻(16才)
⑦渡辺四郎(21才・村重の親戚で家臣である荒木元清の甥)
⑧荒木新丞(19才・渡辺四郎の弟)
⑨伊丹源内の娘(35才)
⑩瓦林越後の娘(17才)
⑪荒木与兵衛の妻(18才)
⑫池田和泉の妻(28才)
⑬荒木越中の妻(13才・だしの妹)
⑭牧佐兵衛の妻(15才・だしの妹)
⑮泊々部某(50才ぐらい)
⑯自念(14才・荒木久左衛門の息子)
※このほか子供たちと乳母7~8名を載せた車が三台
なお、ドラマの中で逃げた村重に対し彼女が「おのれ!村重ぇ~!」と般若の顔で叫んでいたのは、あり得ないように思えます。
荒木村重が尼崎城の立て直しと毛利の援軍要請に向かい、残された有岡城では城主の妻である荒木だしが家中を引き締めておく――。
あくまで近年の研究に基づく見方ですが、だしはそのために有岡城で踏ん張っていたのではないでしょうか。
村重も、実際には数百の兵を率いて尼崎城方面へ向かったという指摘もあります。
本能寺の変後、荒木村重は茶人・道薫(どうくん)として名を残します。
もしも単に妻子を見捨てて逃げ出した人物と見なされていたなら、そのような扱いは得にくかったのではないでしょうか。
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荒木村重は本当に卑怯者だったのか?妻子を捨てて逃げた男の実像
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参考文献
- 天野忠幸『荒木村重』戎光祥出版
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』中川太古 訳/KADOKAWA
- 神田千里『顕如 仏法再興の志を励まれ候べく候』ミネルヴァ書房

