羽柴秀吉が、別所長治の籠もる三木城を包囲していた約2年間――。
天正六年(1578年)2月から天正八年(1580年)正月まで、秀吉だけが三木城の前で足止めされ、時間が止まっていたかのように見えるかもしれません。
しかし全国を見渡せば、各地で軍事的衝突が勃発。
勢力図をガラリと塗り替えるような大事件も東西で起きており、戦国史においても特に重要で濃密な2年間だったかもしれません。
ではその間に一体どんな出来事があったのか?
時代順に振り返ってみましょう。
謙信急死で御館の乱:天正六年3月
三木城の包囲が始まってまもなく、織田信長にとって大きすぎる訃報が届きました。
天正六年(1578年)3月13日、越後の上杉謙信が急死したのです。

上杉謙信/wikimedia commons
もちろん人の死を喜ぶ話ではありません。しかし軍事的に見れば、信長にとってこれほど大きな追い風もありませんでした。
なにせ謙信は、手取川の戦いで織田軍を撃破したばかりの強敵。
その脅威が一夜にして消えたのです。
しかも謙信は後継者をきちんと決めないうちに亡くなったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を巡って激突する「御館の乱」という御家騒動へ発展します。
上杉家が内輪揉めとなれば、北陸方面からの圧力は当然弱くなります。
秀吉が播磨で苦戦する一方、織田家は東の脅威を一つ減らしていたんですね。
上月城落城と尼子軍の壊滅:天正六年7月
三木城包囲と同じ頃、播磨の西端では上月城をめぐる攻防も続いていました。
城に籠るのは、羽柴秀吉の支援を受けた尼子勝久と山中鹿介らの尼子軍。

山中鹿介(山中幸盛)/Wikipediaより引用
しかし別所長治の離反によって三木城に羽柴軍が釘付けになると、上月城の救援に十分な力を割けなくなります。
結果、天正六年(1578年)7月に上月城は攻め落とされ、尼子勝久は自害、山中鹿介もその後、毛利に殺害されました。
三木城の包囲戦は、播磨から中国地方へ向かう非常に重要な一戦となるのでした。
武田と上杉の甲越同盟:天正六年9月
上杉家の御家騒動「御館の乱」は、思わぬ余波を生みます。
後に武田勝頼へ重くのしかかる外交判断です。
当初の勝頼は北条氏の要請を受け、上杉景虎(北条氏康の実子で謙信の養子)を助けるべく動いていました。
しかし、敵対していたはずの上杉景勝から和睦と領土割譲を持ちかけられると、そちらを受諾。
武田と上杉が手を結ぶ「甲越同盟」が成立しました。

上杉景勝(左)と武田勝頼/wikipediaより引用
しかし、この乗り換えが後に致命傷となります。
景虎を見捨てられた北条氏政が激怒し、武田と北条間の「甲相同盟」が崩壊。
勝頼は、織田・徳川・北条という三方を敵に回す羽目に陥るのです。
長篠の敗戦からどうにか立て直していた武田家にとって、この外交判断は後に重くのしかかるのでした。
第二次木津川口の戦い:天正六年11月
石山本願寺との戦いが続く織田家にとって、頭痛の種だったのが毛利水軍。
天正四年の「第一次木津川口の戦い」では、毛利・村上水軍の焙烙火矢などに苦しめられ、織田水軍は惨敗していました。
その雪辱を期すため信長が用意したとされるのが、いわゆる「鉄甲船」です。
詳細は不明ながら、防衛力・攻撃力の高い6隻の巨大軍船が九鬼嘉隆に預けられました。

九鬼嘉隆/wikimedia commons
そして天正六年(1578年)11月に毛利と再戦!
約600艘ともいわれる毛利水軍の前に鉄甲船が立ちはだかり、結果は織田水軍の圧勝となりました。
結果、毛利は本願寺への海上補給ルートを断たれ、石山本願寺は兵糧や武器の補給に苦しむようになり、ジワジワと追い詰められていきます。
島津が大友を破った:天正六年11月
織田軍が毛利水軍を撃破したのと同じ頃、九州でも大事件が勃発していました。
九州制覇を狙う大友宗麟と、それを迎え撃つ島津義久が日向(宮崎県)の耳川で激突。
大友軍有利という下馬評を覆して、島津軍が劇的な勝利を収めました。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
この合戦における島津の勝因は、お家芸の“釣り野伏せ”だったとも語られます。
わざと退いて敵を誘い込み、伏兵で三方から包み込む戦法――口で語ると簡単そうに思えますが、実際のところ追われる役は危険で難しく、非常にリスキーな作戦でもあります。
しかし、大友軍はまんまとハマり、多数の有力武将を失う大敗となりました。
耳川の戦い以降、大友氏の家勢は急速に衰退し、逆に島津氏の九州制覇の道が開けます。
秀吉が播磨で粘っている裏で、九州の勢力図が塗り替わる合戦が起きていました。
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耳川の戦い1578年|島津軍が釣り野伏せで大友宗麟に完勝!九州覇者へと躍り出る
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逆に島津氏は九州南部からさらに勢力を広げる道を開いていきます。
安土城天主が完成:天正七年5月
各地で様々な戦(いくさ)が続発する一方、織田信長は一つの大きな夢を完成させます。
天正七年(1579年)5月、琵琶湖のほとりにそびえる安土城で、ついに天主(天守)が完成したのです。

安土城/wikipediaより引用
絢爛豪華な姿は天下布武の象徴。
信長はこの天主に移り住み、天下人としての威信を国内外の使者や諸勢力へ強烈に示していきます。
戦場では泥臭い兵糧攻めが続き、信長自身は新時代の城で天下を見据える――この対比こそ、この時期の織田政権を象徴しているかもしれません。
明智光秀の丹波平定:天正七年6〜8月
秀吉が播磨で苦しんでいた頃、同じく信長の重臣・明智光秀もまた、長年の難敵と格闘していました。

明智光秀/wikimedia commons
その戦場が丹波国でした。
天正七年(1579年)6月、光秀は兵糧攻めの末に八上城の波多野秀治を降伏させて処刑。
続く8月には黒井城の赤井(荻野)氏も滅ぼし、ついに丹波一国の平定を成し遂げました。
秀吉が播磨で長期戦に苦しむ一方、光秀は丹波を丸ごと平らげてみせた。
織田家の出世頭である二人が、まさに同時期、それぞれの戦場で成果を競っていたわけです。
築山殿と松平信康の死:天正七年8〜9月
鉄壁と思われていた織田・徳川の「清洲同盟」でも、事件は起きました。
家康正室の築山殿と、嫡男の松平信康に、武田勝頼への内通疑惑が浮上したのです。

松平信康(左)と築山殿/wikipediaより引用
信長から処断を命じられたとされるこの一件で、苦渋の決断を迫られた家康。
天正七年(1579年)8月に築山殿を殺害させると、9月には将来を嘱望されていた長男・松平信康に切腹を命じました。
なぜ家康は妻子を手にかけねばならなかったのか?
同盟者である織田信長の意向が、家康の家中にも大きく影を落としていたことは間違いないでしょう。
第一次天正伊賀の乱:天正七年9月
織田家では、身内の不始末もありました。
信長の次男・織田信雄が、父に無断で伊賀国(三重県西部)の平定に乗り出し、あろうことか大敗を喫したのです。

織田信雄/wikipediaより引用
地の利を活かした伊賀の国衆や忍びによる山間部での奇襲・攪乱戦に遭い、重臣を失う大敗を喫して、おまけに逃げ帰る始末。
織田軍の面目を潰した信雄に対し、信長はもちろん激怒しました。
厳しい叱責の書状を叩きつけています。
そうした数々のエピソードが重なった影響でしょう。
織田信雄は、後世には愚将として伝わり、映画『清須会議』でも妻夫木聡さんが何ともファニーな存在として描かれていました。
なお、同じ読み方の織田信勝(のぶかつ)は信長の弟であり、こちらは信長に反旗を翻し、最終的に殺害された人物です。
三木城の生命線を完全遮断した大村合戦:天正七年9月
最後に、三木城そのものに関わる激戦に注目しましょう。
飢えに苦しむ三木城の別所長治に対しては、毛利軍や雑賀衆がなんとかして兵糧を運び込もうとしていました。

別所長治/wikipediaより引用
それを阻止すべく、日夜監視していたのが秀吉率いる羽柴軍。
両軍が天正七年(1579年)9月に激突したのが「大村合戦(平田の合戦)」です。
この戦いは激しい接戦となり、秀吉方の谷大膳(谷衛好)が討死してしまいますが、最終的に秀吉は劣勢を撥ね返し、以後、毛利方による兵糧搬入はほぼ封じられます。
三木城最後の生命線が断たれた瞬間でした。
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天正六年(1578年)2月から天正八年(1580年)正月まで――秀吉が三木城を囲んでいた約2年間は、ただ待っていただけではありません。
上月城が落とされ、途中、有岡城では荒木村重の離反もありました。
秀吉が、そうした激しい動きに翻弄されていたころ、東では上杉家中が真っ二つに割れ、武田勝頼は孤立し、西では毛利水軍が破れ、九州では島津が台頭するというダイナミックな動きが起きていたのです。
では秀吉は、どうやって三木城を陥落させたのか?
その詳細は以下の記事をご覧ください。
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三木の干し殺しの恐怖|なぜ秀吉は三木合戦に2年もの月日を費やしたのか
続きを見る
参考文献
- 谷口克広『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』(2002年1月 中央公論新社)
- 日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史 一五六〇‐一五八二』(2016年7月 吉川弘文館)
- 天野忠幸『荒木村重 シリーズ・実像に迫る』(2017年5月 戎光祥出版)
- 藤井讓治『天下人の時代 日本近世の歴史1』(2011年10月 吉川弘文館)
【TOP画像】上杉謙信・武田勝頼・織田信雄・徳川家康の肖像画/wikimedia commons


