日本人の奴隷売買に怒り、キリシタンを追い出した――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、秀吉が「キリシタン追放令」を出すにあたり、南蛮人による日本人奴隷売買を批判する姿が劇中で触れられました。
ゆえに「秀吉、いい人!」と、思われた方もいらしたでしょう。
しかし当時は、日本国内いたるところで合戦が起きており、物や人が奪い奪われ、戦後は奴隷市場で売り買いされていた時代です。
他ならぬ秀吉も無関係ではなく、だからこそ不思議に思います。
なぜ秀吉は、奴隷売買をとりあげて、キリシタン宣教師の追放に踏み切ったのか?
本当に、南蛮の軍隊がやってきて、日本が支配されると思っていたのか?

豊臣秀吉/wikimedia commons
伴天連追放令(キリシタン追放令)による一連の騒動を振り返ってみましょう。
日本人を売っていたのは誰だった?
戦国時代の戦場では、敵国の村へ攻め込んだ雑兵たちが物だけでなく人を連れ去る「人取り」や「乱取り」は決して珍しくありませんでした。
むしろ雑兵らは、略奪が目的だったと言える。

では連れ去られた奴隷たちはその後どうなったか?
というと、村での働き手に使われたり、奴隷市場で売られたり。
大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも主人公の直虎がハッキリとそのことを認知したように、良い悪いとかの話ではなく、厳然たる事実として存在していたことは秀吉の記録にも見られます。
例えば天正十五年(1587年)、九州を平定したときのことです。
秀吉の前には、島津家の進軍で荒れ果てた村々がありました。

島津義弘/wikipediaより引用
しかし、その原因は島津だけではない。
研究者の藤木久志氏は著書『新版 雑兵たちの戦場』の中で、島津軍の略奪後、秀吉軍によって新しい暴力が加わり、人々の身売りや逃亡を引き起こしていた、と指摘しています。
九州の荒廃は「秀吉自身の側に多くの原因があった」とまで記している。
同書籍では、その後の小田原攻めにも着目しています。
天正十八年(1590年)4月、秀吉は関東に展開する諸大名の軍に、人の売り買いを禁じ、捕らえた人を元の村へ返すよう命じました。
ただし、その範囲は「小田原町中の外」であり――つまり敵地の小田原城下では奴隷狩りもその売買も野放しだったのです。
人の売り買いを禁じる天下人の軍が、別の場所では人取りを事実上認めていた。
では、その秀吉が九州で出した禁令には、何が書かれていたのでしょうか。
秀吉は何を禁じたのか?
天正十五年(1587年)6月、九州を平定した豊臣秀吉は、博多に近い筑前の筥崎(はこざき・福岡市東区)で、キリスト教をめぐる法令を相次いで出しました。
6月18日付の「覚」と、翌19日付の法令です。
一般に「伴天連(ばてれん)追放令」と呼ばれるのは19日付法令で、国外退去を命じた相手は信者全員ではなく、あくまで宣教師でした。

宣教師イメージ(絵・小久ヒロ)
前日の「覚」は11か条からなり、主な中身は次のとおりです。
・領主が領民にキリスト教への改宗を強いることを禁じる
・高禄の武士がキリシタンになるには許可が要る
・大唐(中国)・南蛮・高麗(朝鮮)へ日本人を売ることを禁じる
・牛馬を売り買いして食べることを禁じる
人身売買の条文には、日本国内での人の売り買いを止める一文も付いていました。
外国への売却だけでなく、国内での売買も禁じていたのです。
たまに、ここだけを取り上げ「人身売買を禁じた秀吉は人道的だ!素晴らしい」という主張がありますが、最初からそうだったわけではありません。
天下人として、支配下の民を統制しようとしたのでしょう。
19日付の法令は、日本は「神国」でキリスト教は「邪法」だとし、キリシタンによる寺社の破壊を理由に挙げて、宣教師の国外追放を命じました。
しかし人身売買を禁じるだけなら、なぜ宣教師の追放まで必要だったのでしょうか?
なぜ宣教師まで追い出した?
背景には「強制改宗」の問題がありました。
当時のキリシタン大名のなかには、領民をまとめて改宗させる者がいて、その過程で寺社が壊されることもあったほど。
18日付の「覚」で秀吉は、キリシタンは本願寺門徒よりも危険だと記して警戒感をあらわにしていました。
なぜなら彼らは、天下人の言葉より、神の教えに従って動く。
秀吉にとって、統治の問題に直結したのです。
研究者の清水有子氏は『秀吉研究の最前線』の中で、宣教を九州に限るよう求めた秀吉に対し、イエズス会のコエリョが応じなかったことが、追放令の決断につながったという見解を示しています。
秀吉は、自らを日本の君主と呼び、コエリョに詰問。
ポルトガル人らが日本人奴隷を国外へ連れ去ることが我慢ならないと述べ、売られた人々を帰国させるよう求めたとも伝わります。

17世紀の地図
さらには彼らが牛や馬を食べることも問いただし、日本の民と牛馬が南蛮の勢力に損なわれている、という認識を示していました。
彼らを問い詰めているうちにテンションが上がってしまったのか。
秀吉は翌日「宣教師たちの狙いは諸国を占領し、領土を征服することにある」とまで語ったとされます。
清水氏はこれを、武力による侵略というより、宣教師が日本の民の心をつかむことで、間接的に統治者の地位を奪われることへの懸念と解釈しています。
外国の宗教勢力をそこまで警戒した秀吉は、果たして南蛮貿易までやめたのか?
南蛮貿易もやめたのか?
宣教師を追い出した秀吉は、ポルトガルの「黒船」による貿易は商売であり布教とは別物だとして、継続するよう命じました。
宣教は締め出す一方、貿易は取り込んでいきたい――。
しかし現実問題、それが非常に難しい。
実際の貿易は、イエズス会の宣教師が仲立ちしていたため、綺麗サッパリ分けることなどできません。
結局、その後もいくつかの事件が勃発しながら、キリシタンたちへの禁令は秀吉の望むようなカタチでは収まらず、キリシタン政策は江戸時代初期までもつれこみました。
天草四郎による「島原の乱」は皆さんもよくご存知ですよね。

島原の乱を描いた「島原御陣図」/wikipediaより引用
日本人奴隷の売買を批判していた秀吉。
実際は豊臣軍も人取りをしており、小田原の城下ではそれを野放しにしていました。
一方、自らが天下人となると、国内の人身売買を禁じ、外国への奴隷流出をストップさせようとしたのも事実です。
為政者としては当然の判断でしょう。
伴天連追放令は、奴隷売買への怒りだけで出されたものではありません。
宗教も、貿易も、民も、すべて天下人の支配のもとに置く――政策の一手だったと言えるんですね。
なお、伴天連追放令の前後で大きく運命が変わったキリシタン大名・高山右近については、以下の記事をご覧ください。
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高山右近の生涯|信長や秀吉に重用されたキリシタンはなぜマニラに没したか
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九州征伐については、以下に関連記事がございます。
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九州征伐で豊臣秀長は何をした?勇将・島津義弘を退けた根白坂の戦い
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参考文献
- 藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(2005年6月 朝日新聞社)
- 清水有子「秀吉は、なぜキリスト教を『禁止』したのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』2015年8月 洋泉社)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)


