織田信長との戦いに敗れ、元亀四年(1573年)7月に京都を追い出された室町幕府15代将軍・足利義昭。
一体その後はどこで何をしていたのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第42回放送では、その義昭が登場し、豊臣秀長のもとを訪ねる場面が話題になりました。
そこで気になるのが、史実の義昭も豊臣兄弟と会うことはあったのか?ということでしょう。
記録をたどってみると、実は以前から手紙を送って頼みごとをしていたり、同じ宴で座敷に並ぶこともありました。

足利義昭イメージイラスト
足利義昭と豊臣兄弟の関係を振り返ってみましょう。
京都を追放された将軍はどこへ?
足利義昭が京都を去ったのは、前述の通り元亀四年(1573年)7月のこと。
織田信長との「槇島城の戦い」に敗れて追い出されたのですが、その後、信長から和解の申し出もあり、このとき交渉の使者を務めたのが羽柴秀吉でした。
両者の和解案は、うまくまとまりません。
義昭が、帰京の条件として身の安全を保障する人質を求めたからです。
これには交渉役を任された秀吉も困り果て、さらには怒りも覚えていたことでしょう。
義昭に対して秀吉は、「公方様はゆくえ不明ですと信長に伝えておくから、早々にどちらへも勝手にお行きなさい」と言い放ち席を立ったと、研究者の山田康弘氏が著書『足利将軍たちの戦国乱世』の中で説明しています。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
信長のことを先に裏切り挙兵したのは義昭でした。
しかも完敗している。
切腹に追い込まれても不思議ではない場面なのに、以前と変わらず尊大な対応であれば、秀吉に見切られても仕方がなかったのでしょう。
結局、義昭は紀伊(和歌山県)へ移り、天正四年(1576年)2月には、毛利氏の勢力圏にある備後の鞆(広島県福山市)に入りました。
そこから諸大名に信長打倒を呼びかけ、毛利・上杉・武田・本願寺らの旗頭となっていくのです。
そう、実は不屈の精神を持つ義昭は、京都を追われても大人しく隠居などせず、書状外交を続けていました。

足利義昭/wikimedia commons
本能寺の変後もすぐには京都へ戻れず、鞆での暮らしが続いています。
そんな義昭は、いつ豊臣兄弟と接点を持ったのか?
九州征伐で生まれた接点
転機は天正十五年(1587年)の九州征伐でした。
島津家を従わせようとする秀吉は、かねてから同家と親しかった足利義昭に降伏の説得を頼みました。
豊臣秀長と義昭のつながりが見えてくるのも、この頃のことです。
九州征伐のため、2月に大和郡山を出陣した豊臣秀長は、その途中、備後で義昭と会見したとされます。
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九州征伐で豊臣秀長は何をした?勇将・島津義弘を退けた根白坂の戦い
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さらに2月26日、義昭は「秀長存分」、つまり秀長の考えを使者の一色昭秀に詳しく言い含め、豊後にいた島津義弘のもとへ送り出しました。

島津義弘/wikipediaより引用
京都を離れた将軍が、今度は豊臣と島津の間を取り持つ窓口になっていたわけで、力なき将軍様にも何らかの使い道があることはわかりますね。
むろん、義昭の説得が島津の降伏にどれほど効いたのか、その点は不明。
それでも秀吉はその働きを認め、許したのでしょう。
義昭は同年10月頃に京都へ入り、天正十五年(1587年)12月10日、ついに大坂城で秀吉に出仕しました。
「勝手にお行きなさい」と言われた相手のもとへ、14年後に参上したことになります。
そして秀吉に会った義昭はその直後、秀長に手紙を送ります。
一体なんと書かれていたのか?
秀長に届いた一通の手紙
大坂城での出仕から4日後の12月14日。
足利義昭は豊臣秀長に書状を送り、秀吉への周旋、つまり取り成しを頼んでいます。

豊臣秀長/wikimedia commons
何を取り成してほしかったのか、肝心の用件は分かっていません。
研究者の黒田基樹氏は著書『羽柴秀長の生涯』の中で、今後の義昭が秀吉のもとでどう身を立てていくか?という話だったと考え、そもそもは秀長が義昭の取次を務めていたと見ています。
取次とは、天下人と大名などの間に立ち、要望を伝えたり話をまとめたりする窓口役のこと。
秀長は毛利家の取次役(指南)も務めていて、義昭の出仕そのものも、毛利家の働きかけを秀長が最後に取り成して実現したものだったといいます。
天下人に直接ものを頼むより、弟を通したほうが話は通りやすい。
義昭にとって、秀長はまさに頼れる窓口だったのでしょう。
彼らが一堂に会した場面の記録も残されています。
それは一体どんなシチュエーションだったのか?
今度は同じ座敷に
天正十六年(1588年)9月10日、大坂にある宇喜多秀家の屋敷に秀吉が訪れ、上洛中だった毛利輝元らも招かれました。
毛利側の記録『輝元公上洛日記』によれば、秀吉の到着を待って「公方様」も庭へ下りて控えていたといいます。

毛利輝元/wikipediaより引用
この公方様こそ、すでに出家して「昌山」と号していた足利義昭。
日記には、この日の座敷の席順を示した図まで載っていました。
秀吉が上壇の中央に座り、その上壇の左手奥に義昭、下壇の左側に秀長と宇喜多秀家が並んでいた――研究者の二木謙一氏は著書『秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く』の中でそう解説しています。
天下人の弟・秀長より元将軍の義昭のほうが上の段にいるのですから、将軍だった者の格式は、豊臣政権のもとでも重んじられていたことが分かります。
ただし、義昭が秀長より実力者だったわけではありません。
同じ上壇には、まだ数え7歳の金吾(のちの小早川秀秋)も座っていました。
7歳の子供と元将軍が並ぶ上段――席順はあくまで儀礼の上での格であり、その場の中心はやはり秀吉です。

豊臣秀吉/wikimedia commons
京都を追われてから15年。
「勝手にお行きなさい」と突き放された義昭は、諸大名を動かし、島津との仲介に立ち、秀長に取り成しを頼み、ついには豊臣兄弟と同じ座敷に並ぶところまでたどり着きました。
将軍として京都に返り咲いたわけではありません。
それでも、天下人の宴で上座を与えられる立場にはあったのです。
義昭が大坂で数え61歳の生涯を閉じるのは、それから9年後、慶長二年(1597年)8月28日のことでした。
信長や秀吉に振り回されながら60歳超まで生きられたのも、悪くない人生だったのかもしれません。
なお、九州征伐や秀長家臣団については、以下の記事をご覧ください。
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九州征伐で豊臣秀長は何をした?勇将・島津義弘を退けた根白坂の戦い
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羽柴秀長の家臣団|大和入り後の筆頭家老は藤堂高虎ではなかった
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参考文献
- 山田康弘『足利将軍たちの戦国乱世 応仁の乱後、七代の奮闘』(2023年8月 中央公論新社)
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(2025年9月 平凡社)
- 二木謙一『秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く』(2008年1月 学研)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(2021年8月 KADOKAWA)


