豊臣秀長(羽柴秀長)の肖像画

豊臣秀長(羽柴秀長)/wikipediaより引用

豊臣家

豊臣秀長の生涯|秀吉の天下統一を実現させた偉大なるNO.2その功績とは

2025/01/21

天正十九年(1591年)1月22日は豊臣秀長の命日です。

以前だったら戦国ファンにしか届かなかったこの名前、来年以降は一気に知れ渡ることになるでしょう。

皆さんご存知2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』の主人公となるからです。

すでに関連書籍も数多く出回っており、がっつり予習される方も多いでしょうが、まずは豊臣秀長の生涯を流れで追ってみたい、という場合に備えて本記事をご用意させていただきました。

さっそく振り返ってみましょう!

豊臣秀長(羽柴秀長)の肖像画

豊臣秀長/wikipediaより引用

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豊臣秀長と秀吉15年ぶりの再会

豊臣秀長は天文九年(1540年)、尾張に生まれました。

兄・秀吉とは三歳差で、父親が同じなのかどうかについては、はっきりしていません。

母は大政所(なか)

当時にしては歳の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、幼少期のエピソードはないようです。

再会するのは秀吉がねねと結婚した後、永禄五年(1562年)のこと。

秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらい後の話です。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)の肖像画

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

秀長は兄が来るまで、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。

22歳になっていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子供の2~3人いてもおかしくないところ。

しかし、秀長にはどちらもおらず、これが後に、彼や豊臣家の運命を左右することになります。

なぜ秀吉がいきなり弟に会いに来たのか?

というと、切実に家来が足りなくなっていたからです。

後に天下人となる兄の秀吉もこのころは足軽組頭であり、それでも数十人程度の部下を持っていました。

元が百姓であること。

何のコネもなかったであろうことを考えれば、これだけでも相当な出世といえます。

しかし、もっと上を目指すのなら、信頼できる家臣を一人でも増やさねばなりません。

そこで真っ先に候補に上がるのは血縁者。

秀吉には男兄弟が秀長しかいなかったので、召し抱えにやってきた……というわけです。

絵・富永商太

 


家臣たちの細かなケアを請け負っていた

豊臣秀長は若い頃からもともと温厚な人だったようで、秀吉の部下たちともすぐに打ち解けました。

大所帯になると、とかく揉め事が起きやすいもの。

ちょっとしたケンカや禄(給料)への不満など、些細な不満が積もり積もって大爆発……などという話は、枚挙に暇がありません。

個々人の感情のぶつかり合いは防げませんが、禄に対する不満は主人が解決してやれる可能性があります。給料が高ければ高いほど喜ぶのは、戦国人でも現代人でも同じです。

秀吉も秀長もそれをわかっておりました。

秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、遮二無二動かねばなりません。

調略や工作などで、留守にすることも珍しくない。

となると、細かいところに目が行き届かないことも多々あったでしょう。そういうところのフォローをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続きました。

ちなみに、秀吉は姉妹の夫や義兄(妻・ねねの兄)なども家臣に加えていましたが、やはり農民から侍への転身はうまくいかず、秀長ほどの活躍はできておりません。

 

金ヶ崎の撤退戦でも兄を補佐して活躍

この頃、秀吉の主である織田信長は、美濃の斎藤氏攻略へ向けて動いていた時期でした。

詳細は「織田信長の生涯を徹底解説」の記事にもありますが、信長が尾張を完全に統一したのが永禄8年(1565年)で、美濃を陥落させるのが永禄10年(1567年)のこと。

まずは東美濃の有力な武士たちに工作を仕掛け、引き抜いて織田氏につかせています。

この調略に、秀吉は少なからぬ功績を挙げ、2000人ほどの部下を抱えるようになりました。

後世の創作とされますが【墨俣一夜城】の伝説もこの頃のことです。

墨俣城跡に建つ大垣市墨俣歴史資料館

墨俣城跡に建つ大垣市墨俣歴史資料館

ちょっとした城(砦)なら普請できる程度の家臣がいたからこそ、そのような英雄譚が生まれたわけですね。

永禄10年(1567年)に斎藤氏の攻略に成功し、翌1568年に将軍・足利義昭を奉じての上洛戦が終わると、信長は京都での政務もするようになります。

京都で活動する吏僚や警護役の武将を残しているのですが、その中に秀吉も含まれていました。

となると、もちろん秀長も京都で過ごすことが多くなったでしょう。

浅井長政に裏切られ、命からがら撤退した【金ヶ崎の退き口】では、秀吉隊の一員として殿(しんがり)を務めていました。

これによって秀吉は信長から褒美に黄金20枚をもらっていますが、秀長の働きも大きなものだったと考えられています。

秀長は殿隊の中でも最も重要な、最後尾を担当していました。

秀吉から「信長様が出発して二刻(約四時間)だけ粘り、その後は粘らずさっと退いて、俺に追いつくように」と命じられてその通りに動き、見事役目を果たしたのです。

はっきりした記録はないものの、黄金20枚のうちいくらかは秀長にも分け与えられたことでしょう。

 

半兵衛と共に信長にも信頼されていた!?

浅井長政裏切りの報復戦として【姉川の戦い】が終わると、秀吉は浅井領から織田領になったばかりの横山城(長浜市)を任されます。

もちろん秀長もこれに同行。

しかし、秀吉は京都での仕事がなくなったわけではなかったので、頻繁に城と行き来せねばなりません。

また、浅井氏の攻略までの間にもいくつかの戦があり、秀吉は信長に従ってあちこちへ出陣しています。

こうなると、城主であっても城にいるのはほんの僅かな時間だけ。やはりそういうときには、旧領を取り戻そうとする浅井方の動きが多くなります。

秀長は、竹中半兵衛(重治)と共に浅井方をよく迎撃し、城を守りました。

竹中半兵衛の肖像画

竹中半兵衛/wikipediaより引用

半兵衛が秀吉の下に来たのは姉川の戦いの前だといわれていますし、当然それは信長も知るところ。

軍記物等では「秀吉が三顧の礼をして半兵衛を幕下に迎え入れた」とか「半兵衛が秀吉の将来性を見出して、信長ではなく秀吉に仕えたいと言った」ということになっていますが、現在では「信長が秀吉の部下として半兵衛をつけた」という説が有力です。

となると、信長は秀吉本人を評価するとともに「秀長や半兵衛がいれば、秀吉が留守にしているときも横山を守りきれる」と判断し、この地を任せたのでしょう。

 


浅井攻めで大きな戦功! 農民の扱いにも長けていた

天正元年(1573年)夏。

浅井氏の本拠・小谷城を攻めるときには、秀長も留守居ではなく参戦しました。

このときの秀吉隊は、裏側から城に攻め込み、本丸と京極丸を分断するという大役を与えられます。秀吉は弟に、その一番手を命じました。

そしてこの大仕事を秀長は見事に完遂します。

落城寸前には蜂須賀小六と共に浅井長政の下へ出向き、長政へ嫁いでいたお市の方と三人の娘たちを織田方に引き渡すよう、説得しています。

浅井長政の肖像画

浅井長政/wikipediaより引用

こうして小谷城攻めにおいて、いくつもの功績を挙げた秀吉隊。

当然、褒美は大きなものでした。

秀吉は小谷城と周辺の三郡を与えられ12万石の大名となりますが、小谷城は典型的な山城でしたので、平時の統治には向きません。

そこで秀吉は、琵琶湖に近い今浜の地に新しい城を築くことにしました。

また、信長から一字貰う形で、今浜を「長浜」と改めています。

築城というのは大規模な公共事業のようなものですから、周辺の農民を徴用するのが普通でしたが、それでは本業の農作業に支障をきたしかねません。

秀吉は「工事は二年間、その間に工事へ参加した農民は税や年貢を免除する」という条件を出しました。

田畑を家の者に任せて、自分は工事に行けば税の負担が大幅に減るのですから、これが農民に大人気。

あまりに人が来るので、逆に規制するほどだったといいます。

この辺りのさじ加減は、農民生活の長かった豊臣秀長の経験も活かされたと目されます。

 

戦国一の転職王・高虎とも相性バッチリ!

秀吉も大名となったからには、これよりもさらに多くの家臣を召し抱えないと、仕事が回りません。

秀吉の重臣である秀長にも、相応の人手が必要になります。

この時期に秀長の家臣となった人のうち、有名なのがあの藤堂高虎です。

藤堂高虎の肖像画

藤堂高虎/wikipediaより引用

この二人、能力もさることながら、性格的にも非常に相性のいい主従であり、詳しいエピソードについては「藤堂高虎の生涯を徹底解説」をご参照ください。

この辺りからしばらく、秀長個人の功績と確定できる話題は間が空きます。

【長篠の戦い】や【越前一向一揆】、あるいは【安土城普請】などに秀吉が参加していますので、当然、秀長もその手足となって働いていたでしょう。

安土城普請の際は、信長から秀長への褒美として、小袖(着物)が与えられています。

また、秀吉が越前へ出陣している間に起きた天正2年(1574年)の長島一向一揆との戦では、秀長が代理として参戦していました。

この戦は、たびたび一揆勢に辛酸を嘗めさせられていた信長が、「今度こそ!」と気合を入れてとりかかったものです。

織田家の総力を結集したといっても過言ではない陣容でしたが、それだけに抵抗も大きく、織田氏の親族も多数討死しました。

 


生野銀山への攻撃を進言

天正五年(1577年)には、能登七尾城からの救援要請に応じ、北陸へ出陣する軍の一員として加わっています。

しかし、このときは秀吉が総大将の柴田勝家と仲違いし、途中で勝手に引き返してしまったため、戦功は挙げていません。

当然、秀吉は信長から大目玉を食らいました。

安土へ詫びを入れにいくときも、秀長が同行していたといいます。

柴田勝家は、秀吉のいなくなった後、上杉謙信を相手に【手取川の戦い】で大敗しますが、幸い、このとき大きな処罰はありません。

上杉謙信の肖像画

上杉謙信/wikipediaより引用

むろん、秀吉の立場からすると、甘えてはいられません。次に何らかの失態を演じれば、間違いなく処分が下ったでしょう。

そこで、秀吉は中国地方攻略のために奔走し、このとき柱となったのが秀長と竹中半兵衛でした。

彼らは秀吉に先行する形で中国に赴き、現地の情勢を調べて戦略を立てます。

カギとなったのは生野銀山――平安時代から採掘されていたともいわれる、非常に歴史の古い銀山です。

また、銀は、当時の通貨や輸出品としても重宝されていましたから、ここを得るだけでも十分な手柄といえます。

秀長は「最初に生野銀山を手に入れましょう」と秀吉に勧め、そのため但馬攻略をすべきと進言。

秀吉は納得し、秀長に但馬の諸城を攻略させます。

秀長は城を攻め落としはしたものの、地侍たちの所領を安堵し、寛大な態度を見せたので、うまく事が進んだようです。

そのため、生野銀山の採掘にもすぐに着手できました。

 

鳥取城攻撃の総大将

天正六年(1578年)からは、毛利氏に通じた別所長治を討つため、三木城(三木市)攻略に取り掛かります。

別所長治の肖像画

別所長治/wikipediaより引用

このときは三木城攻略に参加していた荒木村重が謀反を起こし、それに呼応して丹波の波多野氏が裏切るなど、秀吉軍は多忙を極めました。

目まぐるしく情勢が変わる中、秀長は波多野攻めを担当しています。

そして天正八年(1580年)1月。

別所長治が自害したことで、ようやく三木城攻略(三木合戦)は終結します。

これによって播磨を手中に収めた秀吉は、姫路に城を築いて足がかりにしようと考えました。

一方、秀長は天正九年(1581年)6月、鳥取城攻撃の総大将として出陣します。

この戦は「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる苛烈な兵糧攻めで有名ですが、実は秀長の献策によるものだったという説も。

どうすれば付近の住民たちを城へ追い込み、兵糧の消費を早めることができるか。秀長の出自が農民であるだけに、その辺もうまくやっていたのかもしれません。

戦国時代屈指の凄絶な籠城戦となった「鳥取の渇え殺し」と「三木の干し殺し」。豊臣秀吉と黒田官兵衛はいかにして2つの城を兵糧攻めしたか。史実から振り返る。
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続いて備中高松城の水攻めが始まりますが、こればかりは守将の清水宗治が勇将だったこともあり、一筋縄では行きませんでした。

秀吉は信長に対し、援軍を求める使者を派遣。

信長は、援軍の第一陣を明智光秀に命じ、自らも後から追いつくべく、京都で準備を整えます。

明智光秀の肖像画

明智光秀/wikipediaより引用

なんせ備中高松城を攻略すれば、毛利氏の本拠である吉田郡山城までの距離がまた一段と縮まる場面です。

城主・清水宗治は、当主の毛利輝元や「毛利両川」こと吉川元春・小早川隆景などからも信頼されており、この城の攻略が精神的ダメージを与えることも期待できました。

しかし、ここで予想だにしなかった凶事が起きます。

【本能寺の変】でした。

 


統治の難しい紀伊を任され

明智光秀の手により本能寺に没した織田信長。

その弔い合戦をいち早く敢行するため秀吉は毛利と和睦を結び、京都に向かいます。

そして秀吉は【山崎の戦い】で光秀を破り、「信長の仇討ちを果たした」という大義名分を手に入れました。

さらには【清州会議】や【賤ヶ岳の戦い】、【小牧・長久手の戦い】などの激戦が立て続けに行われ、秀吉は織田家のトップに上り詰めます。

小牧長久手合戦図屏風

小牧長久手合戦図屏風/wikipediaより引用

秀長もこの一連の軍事行動に参加していましたが、目立った功績は伝わっていません。

小牧・長久手の戦いの際、秀吉軍の背後をつく形で紀州の雑賀衆・根来衆が動いたため、秀吉は紀州を征伐。

これによって紀伊、そして隣接する和泉は秀吉の勢力に入りました。

主人の変わった土地は、ただでさえ統治が難しいもの。

特に紀伊の場合は、日本国内でありながら治外法権に近い状態だった時代が長いため、先々の困難が予測されました。

秀吉はこの二カ国を、秀長に任せることにします。

若い頃から人々の仲立ちとなり、長浜時代にもうまく留守を守った弟を信頼していたからでしょう。

秀長もその期待によく応え、うまくこの地を治めました。

そして間もなく、秀長一番の大仕事ともいえる戦が始まります。

四国征伐です。

 

四国征伐

四国に関しては、天正十年(1582年)夏に織田信孝・丹羽長秀らが侵攻する予定になっていました。

織田信長と長宗我部元親の間で齟齬が生じ、当時、四国の多くを制していた長宗我部家が織田家と対決姿勢にあったのです。

しかし、その直後に【本能寺の変】が勃発。

四国は、そのまま長宗我部によってほぼ統一された状態になっておりました。

攻め込む側から見れば、敵は一つなので、ある意味攻略しやすいともいえます。

長宗我部元親の肖像画

長宗我部元親/wikipediaより引用

とはいえ元親は土佐の一勢力から一気に四国を制した天才的武将でもあります。容易く倒せるような相手ではない。総大将を任された秀長もさすがに緊張を強いられたでしょう。

阿波から攻め込んでいった秀長。

途中、攻略を手こずったところもありましたが、わずか50日ほどで長宗我部元親を降伏させ、無事にこの大任を果たしています。

これは私見ですが、もし元親がいきなり秀吉と戦ったり話していたとしたら、とてもすぐに頭を下げる気分にはならなかったのではないでしょうか。

秀長という穏やかな人物が現場の最高責任者だったからこそ、怒りや悔しさを引っ込める気になったのではないかと思います。

もちろん、褒美も与えられました。

これまでの紀伊・和泉に加え、大和が新たに秀長の領地となり、彼は合計百万石の大大名に。

大和郡山城には大和の大名・筒井順慶がいたのですが、彼と入れ替わる形で秀長が入り、ここを居城としてより一層活躍していきます。

筒井順慶の肖像画

筒井順慶/wikipediaより引用

秀吉としても弟の働きには大満足だったようで、天正十四年(1586年)にポルトガル人宣教師ガスパル・コエリョが大坂城を訪れた際、こう語っていたとか。

「日本国内が平定できたら、後のことは秀長に任せて、私は大陸の平定に専念するつもりだ」

兄の言葉とはいえ、最高権力者からの高評価は、秀長にとっても誇らしいことでした。

 

九州征伐

次の攻略対象は、島津氏によって統一されようとしている九州です。

そもそも島津氏に攻め込まれつつあった大友宗麟こと大友義鎮(おおともよししげ)が、大坂に赴いて救援を願い出てきたとき、秀長がこう応えています。

「内々のことは千利休、公のことは私が取り計らうので、何でも相談してほしい」

これは義鎮が国許に宛てた手紙の中で書いており、自分の家臣たちにも「よくよく心得ておくように」と命じています。

大友宗麟(大友義鎮)の肖像画

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用

秀長が他の大名にも親切に・穏やかに接していたことがわかりますね。

天正十五年(1587年)前半の九州征伐では、秀吉が肥後方面から、秀長が日向方面から南進する形を取りました。

秀長軍が先行し、まず毛利氏など中国地方の大名たちと合流。

それから大友氏の領地である豊後に入り、力攻めや兵糧攻めなどを巧みに使い分けて進軍しています。

その一方で、秀長は島津氏への和睦工作も行っていました。

島津氏は鎌倉時代の島津忠久から薩摩に根付き、数百年に渡る歴史を持っているという自負があります。

いわば名門中の名門ですから、一戦もせずに降伏するというのはプライドが許さなかったでしょう。

しかし、既に東海・近畿・中国・四国の兵力を動員できるようになっていた豊臣軍を相手にするのは、さすがに島津氏にも分が悪すぎました。

結果、島津氏の敗北。

当主・島津義久が頭を丸めて詫びを入れることで、秀吉も溜飲を下げたようです。

島津義久像

島津義久像/wikipediaより引用

この功績が認められたのか。

秀長は同年8月に朝廷から従二位大納言の官職を与えられ、「大和大納言」と呼ばれるようになります。

彼の家を「大和大納言家」「大和豊臣家」と呼ぶこともあるのは、このためです。この頃が秀長の絶頂期だったとも言えるでしょう。

その後は少しずつ体調を崩すことが増えて行きました。四十代半ばでしたから、現代人とそう変わりませんね。

合間を縫って湯治に行くくらいはできたようですが、長期療養まではできません。

体力の衰えは早く、天正十八年(1590年)1月には、もう長期の行軍に耐えられない状態になっていたようで、小田原征伐にも参加していません。

秀長の代わりに、甥の豊臣秀次が豊臣軍の副将を務めています。

 

謀反人・豊臣秀次とも親交を温めていた

秀長は、秀次ともうまくやっていたようです。

両者は紀州征伐・四国征伐でも同道していましたし、プライベートなことを語らう機会もあったでしょうね。

秀長の体調が悪くなってからは、秀次が叔父の病気平癒祈願のため、自ら神社へ行くことも。

後世の我々はどうしても切腹事件のことを連想してしまいますが、彼も本来は穏やかな性質だったのかもしれません。

豊臣秀次の肖像画

豊臣秀次/wikipediaより引用

日頃からさまざまな人に頼られていた秀長ですから、その回復を願う人は少なくありません。

実の兄である秀吉はもちろん、京都の公家たちも平癒祈願をしていたようです。

しかし、皆の祈願も虚しく、天正十九年(1591年)1月22日にこの世を去ります。

享年51。

当時の基準では若いとはいえませんが、まだまだやり残したこともあったでしょう。

彼に成人した息子がいなかったことは、この後の豊臣政権に大きな悪影響を及ぼしました。

そもそも秀長は結婚が非常に遅く、正室の智雲院を娶ったのはなんと46歳前後。

側室も一人はいたようですが、名前がわかっていません。

智雲院との間には一男二女が生まれ、残念なことに跡継ぎ候補となる息子は幼いうちに亡くなってしまったようです。

娘婿に姉の子(秀次の弟)である豊臣秀保を迎えたものの、秀長の死後、彼もまた文禄四年(1595年)4月に若くして急死。

その3ヶ月後に秀次が切腹し、豊臣家からは”秀吉の跡を継げる成人男子”がいなくなってしまいました。

この時点で、淀殿が産んだ秀頼は、まだ満一歳にもなっていない幼児です。

秀吉も既に50歳を超えていましたから、豊臣家と政権の未来は極めて不透明な状態だった……といっても過言ではありません。

もしも秀長が長生きしていれば、

「当分の間は秀次が関白を務め、秀頼が成人したら秀頼に地位を譲る。秀長が存命の限りは両者の後見となり、楔役となる」

というように、比較的穏便な継承ができていたのではないかと思われます。

最後に。

秀次事件については近年「本人が先走って自害してしまった」という見方も強まってきており、真相がはっきりしていない面もあります。

いずれにせよ彼の妻子約四十人を処刑させたのは間違いなく秀吉。

秀長の在世中は身内のトラブルがほぼ皆無なことを考えると、彼が歯止めになっていた可能性は相当高いでしょう。

つまりは、秀長一人の死だけで豊臣政権の瓦解が始まった――という見方もできますが、組織としてそれはどうなのか。

一人いなくなるだけで替えがきかず、泥舟のごとく沈むような体制はやはり無理があった。

豊臣政権は潰れるべくして潰れたのかもしれません。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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