大名の改易が多かった江戸時代。
長らく家を保つことのできた藩でも、決して順風満帆とは限りませんでした。
真田信之(真田幸村のお兄さん)の松代藩で起きたお家騒動なんかもその代表例で、当時90歳を超えた信之が必死になって後始末をした……なんて話があります。
※以下は真田信利の関連記事となります
なぜ真田信利は改易されたのか『真田丸』の末裔にあるまじき暴挙と悪政が酷い
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信之同様に戦国を生き抜いた人の子孫の家でも、後世に多大な影響を及ぼしたお家騒動があります。
寛文十一年(1671年)3月27日に終結した、伊達騒動もその一つ。
その名の通り伊達政宗が作った仙台藩の事件です。
『樅ノ木は残った』(→amazon)という小説になり、さらに大河ドラマされたこともあるので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
決して華やかな話ではない上、登場人物が多いのでわかりづらい一件ですが、できるだけ人名を省いてお話しましょう。
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幕府の注意など屁のカッパで遊び続ける
事の発端は、伊達政宗とその息子・伊達忠宗が下の世代への教育を失敗したことにあります。
まず、政宗にとっては孫にあたる三代目の仙台藩主・伊達綱宗が、遊び放題で仕事をしませんでした。
この時点でもう改易フラグが立ってますね。
これに対し、政宗の十男・伊達宗勝を中心とした家臣たちがキレます。
彼らは「あんなアホなやつ藩主じゃない! 隠居するよう幕府に命じてもらおう!」(意訳)と実際に願い出ました。
いきなり隠居させるわけにもいかないので、幕府はまず「ちゃんと仕事しなよ。家臣たちが心配してるってよ」(意訳)とやんわり綱宗へ注意。
しかし綱宗は、そんなの屁の河童と言わんばかりに遊び続けます。
ダメだこのバカ殿、早くなんとかしないと…。
家臣たちもそう思ったのでしょう。
伊達家と親族にあたる他の大名達にも連署してもらって「綱宗をクビにしてください。後は嫡男の綱村が継ぎます」(意訳)という嘆願書を幕府に出しました。
幕府も「一度言ったのに聞かないならしょうがない」とこれを受け取り、正式な命令を出して綱宗を強制的に隠居させます。
一説には「綱宗と、ときの天皇(後西天皇)の母同士が姉妹だったため、仙台藩と朝廷が結びつくのを懸念した」から幕府に睨まれたのだともいわれていますね。
それなら、それぞれの母親が輿入れするときに妨害すれば良かった話で……。
しゃしゃり出る宗勝「俺はあの政宗の息子だぞ!」
ともかく、こうして当時1歳(!)だった伊達綱村が四代藩主に就任しました。
当然、実務はできませんので、伊達宗勝をはじめとした親戚たちが幅を利かせるようになります。
宗勝はプライドの高い人で、常に「俺はあの伊達政宗の息子なんだぞ!」という意識がありました。
そのためどんどん態度がデカくなり、当然のことながら周囲からの反発も招きます。
「一人でやたら威張るとロクなことがない」って昔からお約束の展開ですが、どうして繰り返されるんでしょうね。
そんなこんなで幼い綱村そっちのけで、家臣たちの結束が揺らいでしまいます。
大雑把に分けて宗勝派か、反宗勝派か、です。
後者はそういう意図でまとまったわけではなく、宗勝から見て「アイツ俺のことヤな奴だと思ってそう」(超訳)と見なされた人たちだったので、一枚岩ではありませんでした。
そのせいで話がややこしいんですね。
「樅ノ木は残った」の主人公が刃傷沙汰を起こす
面倒な状況の中、さらに伊達家の親族内で領地争いが起きます。このタイミングでやめれって~!
トラブルは仙台藩だけでは処理しきれず、間に何人かの幕閣に入ってもらい、公平に裁定することになりました。
ついでに宗勝たちの横暴ぶりも幕閣の耳に入ります。
それがわかったのかそうでないのかは定かではありませんが、二回目の取調べの最中、いきなり宗勝派の原田宗輔という人物が刃傷沙汰に及びました。
それが寛文11年(1671年)3月27日のこと。
原田宗輔が小説『樅ノ木は残った』(→amazon)の主人公です。
もみ合う中で宗輔も襲った相手も亡くなってしまうのですが、こうなればもう領地争いどころの話ではありません。
「幕閣を巻き込んでおいてこの有様は何だ! 綱村は幼いからまだしも、後見人ども何をしている!!」
ということで、宗勝その他肩で風を切っていた人たちは軒並み処罰されます。
特に宗勝は一族かつ年長者であり、さらに支藩として一関藩をもらっていたことから特に咎められ、一関藩は改易されました。あーあー。
しかも話はこれだけで終わりません。
十代前半に成長し、多感な時期だった藩主の伊達綱村が、この一連の流れで「私がしっかりしなければ!」と責任感を強め、よろしくない方向へ突き進んでいってしまったのです。
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