織田信長の城と言えば?
多くの方が「安土城」と即答されるでしょう。
確かに凄まじく完成度の高い城郭であり、信長のシンボルとも言えますが、そこに至るまで織田家では幾度も築城技術のブラッシュアップを重ねてきました。
いわば安土城のプロトタイプがあったわけで、今回、注目したいのがこの2つ。
・京都(洛中)に築かれた二条城(二条御所)
・京都への玄関口を守るための宇佐山城
であります。
信長が建てた二条城は、現在、遺構が残っていないため、あまり話題になりませんが、実は、信長築城史の中でもトップクラスで画期的な城と言えるかもしれない。
それはなぜか?
何が特別だったのか?

各地のピンは色ごとに諸勢力の城位置を表しています(織田家は赤)©2015Google,ZENRIN
今回は信長と義昭による上洛戦を追っていきながら、近江や京都、畿内の諸城も共に見て参りましょう!
信長、いよいよ上洛
永禄11年(1568年)8月、織田信長は足利義昭を奉じて、いよいよ上洛を目指します。
美濃から京への道のりには近江を通過していかなければなりませんが、北近江の浅井家とは婚姻を通じて既に同盟。
通り抜けねばならない敵の領地は、南近江の六角家のみでした。
上記の地図で言うと緑のピンですね。
そこで信長はまず、浅井領と六角領の境い目の城、「佐和山城(さわやまじょう)」まで進みます。
後に石田三成の居城として有名になりますが、当時の城主はもちろん違います。

当時の佐和山城は城の近くまで琵琶湖の内湖が迫っており、水運の拠点にもなっていました/©2015Google,ZENRIN
信長の上洛時点では浅井家の南近江への拠点の城となっており、猛将・磯野員昌(いそのかずまさ)の居城。
信長公記には「信長が佐和山城に入城した」とサラッと書かれておりますが、この出来事は浅井方の裏切りフラグの第一歩として無視できない重要な出来事です。
佐和山城は北陸へ向かう北国街道と、美濃方面へ向かう東山道を押さえ、さらには琵琶湖の水運も管理する場所として昔から北近江と南近江で奪い合ってきた交通の要衝でした。
同盟国の当主とはいえ、交通の要衝にして浅井家の利権も集まるこの北近江の最前線の城に信長を招いたわけです。
ここで、浅井家裏切りまでの過程を数値化するために【ICHI メーター】を設置しましょう。
このICHIメーターが10を示すと、信長に対する浅井家の不信と怒りが頂点に達し「裏切り」を発動します。
イチロー???
違います。信長の妹にして浅井長政の妻「お市の方」のICHIです。
もっとも、お市が両脇を縛った“小豆の袋”を信長に送って裏切りを知らせたというのは後年の創作ですけどね。

お市の方/wikipediaより引用
信長派だった磯野員昌が率先して佐和山城入城を促す
浅井長政は佐和山城まで出向き、このとき初めて義理の兄・信長と顔を合わせたと云われています。
佐和山城主・磯野員昌は「なっ!なっ!俺の言った通りだろ?」と信長の訪問にご満悦。
そもそも信長を若い頃からずっとスカウティングしてきたのが磯野員昌でした。

磯野員昌/wikipediaより引用
員昌は、信長が尾張をようやく統一するかしないかという時期に「ナゴヤに信長とかいう将来有望なのがいるから今のうちにツバつけといたほうがいい」と、名スカウト振りを発揮して、長政と市の婚姻を積極的に勧めたのです。
ゆえに今回の訪問も、長政や礒野員昌などの信長派にとっては歓迎ムードでした。
しかしその一方で、浅井家の重臣・遠藤直経は信長のほとばしる有能さを見せつけられ「若い芽のうちに摘んでおいた方がいい」と暗殺を進言したとも云われています。
と、これは後年の創作で、遠藤直経も信長の外交手腕に心酔して信長派になってしまいます。
ともかく、この逸話が示すように、織田家の佐和山進出を快く思っていない勢力が浅井家にはおりました。
特に長政の父・浅井久政を始め、【浅井家がどの大国にも属さず緩衝地帯となって国を維持する】という国家戦略を信奉する勢力は、信長が鬱陶しくて仕方なかったでしょう。
信長の佐和山城入城を快く思わない勢力の存在に、ICHIメーターは「1」へ上昇、ピッ!
この御内書が目に入らぬかぁ! 入らぬかぁ! 入らぬ……
信長は佐和山城に7日間逗留。
ここから朝倉家や六角家を始めとする諸大名に足利義昭の【御内書・ごないしょ】、つまり将軍の命令書を発して参陣を促しました。

足利義昭/wikipediaより引用
御内書の発行は足利将軍家のリーサルウェポンです。
自前の軍を持たない足利将軍家は、自ら発行する御内書で各地の大名に命令を発することができました。
一般的に戦国時代は下剋上の世の中で、足利将軍家も京を追放されたり、亡命先でもお荷物扱いされたりで、もう将軍権力は地に堕ちたと考えられがちです。
そうであるならば、とっくに滅ぼされていいはずの足利将軍家がこの時代もまだ継続しているということは、足利将軍家の威光はまだ十分に「使える」ものでした。
この使える「将軍家の威光」というのが「御内書の発行」なのです。
信長もこれを期待して義昭の名で御内書を各地に発しました。

足利義昭御内書(大阪城天守閣蔵)/wikipediaより引用
しかし浅井家と敵対する六角家だけでなく、越前の朝倉家も無視。
信長は憧れの足利将軍家が号令をかければ諸大名が参陣するものと信じていただけに、義昭の不人気っぷりと、自らの知名度と信用の無さにも愕然としたことでしょう。
そして「足利将軍家の威光」=「義昭の威光」でないことにも今更ながら気付かされます。
威光のない義昭が御内書を発しても諸大名は動きません。
三好三人衆の傀儡とはいえ現将軍(第14代)は足利義栄です。
浅井家の信長派は「朝倉さんが無視??? き、きっと御内書が届いてないに違いない、はは、ははは(汗)」とさらに焦ったことでしょう。
しかし長政の父、浅井久政を中心とする反信長派にとって、朝倉家と六角家のパワーバランスの中で生き残るには、六角家も朝倉家も動かないというのは都合のいい状態です。
これ以上、信長にかき回してもらっては困ります。
信長派が動揺し、反信長派が「ほれ見たことか!」と自信をつけてICHIメーターが「2」に上がりました。
結局、信長は岐阜城に戻り、改めて上洛の戦略を立て直しました。
そして早くも翌9月に動きます。
足利将軍家好みの諸大名を参陣させてド派手に上洛する演出はあきらめ、信長得意の戦略に切り替え。
自らの手勢と同盟軍で上洛を強行し、南近江から洛中までの敵を力攻めで突破することにしたのです。
信長はこのとき初めて徳川家康に援軍を要請しました。

徳川家康/wikipediaより引用
これにより清洲同盟は背中合わせの相互不可侵同盟から、完全な軍事同盟に深化。
この変革は、織田家のもう一つの同盟国・浅井家が信長を裏切った理由を理解する上で重要ですが、これはまた後ほど。
家康が派兵した徳川の軍勢に浅井家の軍勢、そして信長自身の軍勢に北伊勢の軍勢も加え、「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう 六角家」と言わんばかりに南近江へ侵攻するのです。
名門・六角家 わずか2日で滅亡て……
信長は佐和山城の南方、現在の彦根市の今宮に陣を構えます。
南近江への進軍を知った六角承禎(義賢)・義治父子は、防衛ラインを愛知(えち)川に設定して、愛知川沿いの最前線・和田山城に兵を入れます。

観音寺城付近も内湖が安土山まで迫っていました/©2015Google,ZENRIN
六角家の防衛戦略は、基本的に三段構えで、それは以下の通りです。
①愛知川を最前線に和田山城で敵の進撃を食い止める
②六角本隊は後詰めとして観音寺城に備える
③観音寺城に隣接する箕作城(みのつくりじょう)にも兵を入れて、万が一、敵が防衛ラインを突破した場合は、各城がそれぞれ敵兵をひきつけ、敵戦力を分散させて、攻撃力を削ぐ
この六角家の戦略は近江国内の領主を相手にするには有効でした。
近江は小領主の連合体のような国でしたので、個々の領主(国人)たちは、数カ所の城を同時に落とすほどの兵力を持ち合わせていませんし、仮に連合してもそこまでの大兵力にはなりえません。
浅井家もそうですが、近江勢力はいわゆる「一揆」と呼ばれる横で繋がった連合体なので、できるだけ攻撃目標を分散させれば各個撃破、もしくはその間に調略による敵兵力の切り崩しが容易だったのです。
規模の大きな浅井家の動員兵力をもってすれば、単独での観音寺城攻略は可能かもしれません。
が、浅井家といえども原則は一揆のまとめ役に過ぎません。
上意下達で動くカッチコチの軍団ではないので、傘下の武将が勝手に動いたり、裏切りのリスクは常にありました。
特に観音寺城は、石垣を多用した当時最先端の城郭でした。
山一つを要塞化し、城内に町まで作るほどの規模。
中心部には「桑実寺」という寺院まであり、ここで亡命中の第12代将軍・足利義晴(義昭の父)が仮の幕府を開いていたほどです。
「観音寺騒動」で家臣の忠誠心が落ちるところまで落ちたとはいえ、今回も六角家は万全の戦略と城で敵を待ち構えていました。
敵本陣へ一点集中!それが信長の得意戦術
しかし今度の相手は織田信長です。
六角父子は、斉藤義龍や竹中半兵衛の対信長戦術をちょっとでも勉強しておくべきでした。
これまで信長の城と戦いを追ってきた我々にはお馴染みですが、信長の得意戦術は、機動力を生かして敵本陣への一点集中攻撃です。
この必勝戦術に加えて信長は美濃を手に入れて、さらに大兵力の動員が可能になっておりました。
信長はもう桶狭間の戦いのように、他はもぬけの殻にして敵本陣に挑むというリスクを侵さずに、基本戦略を実行できる。
六角家得意の各城に兵力を分散させて待ち構える戦略は、対信長軍にとっては愚の骨頂、「お前はもう死んでいる」のです。
さらに信長は自らの得意戦術に、敵をあざむくための「詭道」をいくつか仕込みます。

©2015Google,ZENRIN
基本的に敵国に攻め入るときは敵国境に近い領地を持っていたり、新参の軍勢を使うのがセオリーです。
今回のセオリーですと、新しく配下に加わった西美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)を先鋒にして、浅井家が援軍に付くという流れ。
信長はこの西美濃三人衆を和田山城の包囲に差し向けました。
この信長の用兵を六角側から見ると、和田山城包囲に来たのは美濃衆=「予想通り、最前線の城に信長軍の先鋒現る」となります。
ところが信長公記には、この六角攻めに際し、西美濃三人衆が「自分たちが先鋒で駆り出されるだろうと考えていたのに声がかからなかったのは不思議だ」と述べていたと記されています。
このコメントから、西美濃三人衆は先鋒ではない。
すなわち先鋒でない西美濃三人衆による和田山城攻撃=和田山城は信長の第一目標ではなかったことが分かります。
信長は最初から敵本陣・観音寺城攻撃を狙っていたのです。
この観音寺城攻撃のメンバーに西美濃三人衆の名前がなかったので、信長公記にあるように西美濃三人衆は不思議に思ったのでしょう。
ここに信長の用兵術の発展を見ることができます。
第二の詭道 支城の箕作城を瞬時に落とす
信長は電撃的に敵本陣・観音寺城へ進撃するため、和田山城包囲に美濃衆を差し向けました。
『和田山城包囲に来たのは美濃衆。すなわち織田方の第一目標は、予想通り和田山城じゃい!』と六角家たちに思わせ、欺いたのです。
この間、信長方の「(本物の)先鋒」は、他の支城には目もくれず、敵本陣・観音寺城めがけて突進して行きます。
さらに信長はここで第二の「詭道」を仕込みます。
観音寺城付近で信長方先鋒であった柴田勝家、池田恒興、森可成などの進軍をストップさせ、観音寺城を包囲の隊形で待機させます。
そして最初の攻撃目標を観音寺城のお隣りの「箕作城」に変更します。
箕作城攻撃には、佐久間信盛、丹羽長秀、木下藤吉郎などの信長方に加えて、浅井家から浅井信澄(長政の従兄弟)、そして家康の援軍(小笠原・内藤)も一度に投入して、短時間で陥落させてしまいました。
突然の計画変更のようですが、これも計算していたと考えます。
信長公記によると箕作城の攻撃開始は16時頃の夕方です。
観音寺城付近へ夕方に到着したということは、観音寺城のような巨大城郭を落とすには敵地での夜営も視野に入れる時刻です。
他の城には一切目もくれず進軍してきたのですから、信長は最初から攻城開始時刻が予想できていたでしょう。

織田信長/wikipediaより引用
また、戦いの前に信長は自ら馬で戦場を偵察したことも伝えられています。
ゆえに観音寺城までの距離や城の規模は事前に分かっていたでしょう。
観音寺城がそう簡単に落ちない城であること。敵地での夜営や夜戦が必至なこと。諸々の事情を勘案した上で、陣地構築のため最初から攻撃対象は箕作城だったと考えられます。
ちなみに和田山城は、残された西美濃三人衆が奮戦して、箕作城とほぼ同時刻に陥落させます。
織田家に仕えて日が浅い三人衆の必死さと、何となく置いていかれたという虚しさを感じる攻城戦ですね。
THE頑固者・蒲生賢秀の直訴むなしく
このとき六角方の家臣で観音寺城で備えていた「蒲生賢秀」という頑固者で有名な武将がいました。
息子の蒲生氏郷が有名で、信長ファンでしたらご存知かもしれません。
蒲生賢秀は、信長の攻撃が箕作城に移った機をみて「箕作城に援軍を出すべきだ。私が観音寺城の包囲を突破して箕作城の援軍に向かいます!」と申し出ました。
しかし六角承禎は「箕作には強いヤツらを入れてるから大丈夫だ」と、あっさりこれを拒否。
この期に及んで後詰めもしないとか、ありえない判断をしたのです。
蒲生賢秀も「こりゃダメだわ」と思ったのでしょう。
「では領地を固めますんで」と自らの日野城に帰ってしまいました。
もともと六角家の家臣離れがハンパなかったとはいえ、頑固者といわれた蒲生賢秀さえもついに六角家へ見切りをつけてしまった。
ちなみに、この蒲生賢秀は、日野城に帰っても一切投降勧告に応じず、妻の実家である北伊勢の神戸家(この頃の神戸家は既に織田家の親戚)から「もう勘弁してくれ、神戸(かんべ)だけに……」という冗談はともかく、懇願により、ようやく織田家に投降しました。
そしてその後は、観音寺城で対峙していた柴田勝家の与力となり、安土城築城後は同城の留守居役となります。
留守を任せられるということは相当の信頼の証でしたし、人質として岐阜城に入った息子の蒲生氏郷も信長のお気に入りとなり、大出世を遂げますね。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
閑話休題。
話を観音寺城攻めに戻しましょう。
六角親子は戦わずして逃亡!? わずか2日で南近江を制圧す
箕作城を落として本陣を確保した信長は、明くる日の観音寺城攻めに備えます。

観音寺城の模型(滋賀県立安土城考古博物館所蔵)/wikipediaより引用
ところがです。
これから死闘が待っているかもしれない――そう意気込んだ矢先の夜明け前、六角父子は突如観音寺城を自焼し、甲賀の奥地に逃げてしまったのです。
かくして信長は無人の観音寺城に入城、南近江の制圧をわずか2日で完了させてしまいました。
この時点で六角家滅亡と言い切ってしまうにはやや語弊があります。
なぜなら父子は観音寺城を捨てはしたものの、南近江・甲賀地方の石部城を拠点に、今後何年にもわたってチェ・ゲバラのようなゲリラ戦争に勤しむのです。
そして、ここでまたしても「ICHIメーター」が「3」に上がります。
六角家を滅亡させたことで浅井家を取り巻くパワーバランスが完全に揺らぎました。
美濃から南近江にかけて広大な地域が信長の支配下に入ります。
パワーバランスは一方から力が加わるとと、必ず押し戻そうとする力が働きます。
浅井家のような中小の領主(といっても浅井家は十分デカイですが)は、この押したり戻したりするバランスを利用してこそ生き残れるのです。
南近江のバランスが崩れ、さぁ、パワーゲームの開始です!
信長の強い押しによって偏った近江のパワーバランス。
これを一体誰が押し戻そうとするのか。
と、その答えの前に、南近江攻略により地域で起こった三つの大きな変化をマトメておきましょう。

信長は京への道を確保しました/©2015Google,ZENRIN
一つ目:尾張から南近江までを支配する織田家の広大な国ができた(赤ピン)
二つ目:いつでも上洛可能な国を織田家が手に入れた(赤ピン)
三つ目:幕府末期の足利将軍家を支えてきた佐々木源氏の末裔・六角家がほぼ滅亡した(緑ピン)
※浅井家は青ピン
この3つの変化に不都合を感じる、もしくは実際に不都合を受ける者たちをリストアップすれば、それが「パワーバランスを押し戻す者たち」になります。
一つずつ見て参りましょう。
まず一つ目で不都合を感じる勢力は、織田家の領土と国境を接する国々の領主たちです。
同盟関係にある徳川と浅井を除けば、東は武田家、北は朝倉家、南は伊勢の北畠家や伊賀国の国人衆、そして京の都のある山城国と大和国より西の三好家。
大国と隣接している事態ほど緊張関係を生む要素はありません。
しかも美濃や南近江へ積極的に侵攻し、領土を拡大してきた織田家と隣り合っている状況です。
こんなシチュエーションで何の備えもしないなど、さすがにあり得ません。
徳川家のように背中合わせの相互不可侵同盟を信長と結んでいればいいのですが、そうでない国は背後を突かれる可能性が高くなります。
三好家や北畠家のように、織田家を正面に迎え撃つだけならまだ戦略が立てやすいです。
しかし、織田家の領土を背にして、全く違う方向で戦っている国にとって信長の領土拡張は特に脅威です。

©2015Google,ZENRIN
この時点で信長に対して背中を向けて戦っているのは甲斐・信濃の武田家、大和の松永久秀、そして越前の朝倉家です。
武田家は早々に婚姻政策を結び、東美濃エリアを緩衝地帯化しているので、信長にとって喫緊の脅威ではない。
松永久秀は三好三人衆相手に大和で孤立していますが、信長とは尾張統一前から懇意にしており、織田家の進出はむしろ大歓迎。
ということで何かとマズいのは越前の朝倉家だけという状況でした。
彼らは信長と何の連携も同盟もなく、背後を無防備にして、北陸の一向一揆勢や、若狭、敦賀の武田家と戦っているのです。
若狭、敦賀方面では浅井家が緩衝地帯として一枚噛んでいますが、越前の東部は美濃の北部と国境が接しており、万が一、浅井家が完全に信長派となってしまえば、東西から越前を挟まれるカタチになります。
さすがにマズい 凡将義景でも対策するわ
これには当主の朝倉義景がいくら凡庸とはいえ、まずい事態だと分かります。
南近江攻め直前に足利義昭と信長が発した招集命令に応じなかったのも当然。
義景は信長の美濃攻略にあわせるように、これまでユルい従属関係にあった若狭の武田家を完全に属国化するため、当主の武田元明を越前に拉致して、軟禁状態に置きました。
浅井家のことをまだ信じているとはいえ、越前を両翼から挟まれるリスク回避のため、若狭を完全掌握する動きを早めたのです。
そんな朝倉家の激烈メッセージも、浅井家、特に浅井長政には伝わりません。
近江でパワーバランスを取る役割の浅井家が、外から織田家を招き入れて一方(六角家)を滅ぼしてしまったのですから。
朝倉家の若狭侵攻が気が気でない国人衆が反信長派になびいて、ICHIメーターも「4」に上がりました。
二つ目の不都合を受けるのは、現時点で京の洛中を押さえている勢力、すなわち畿内の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)でしょう。
どうしても戦国大名=京を目指すというイメージが先行してしまい、他の戦国大名が一斉に信長の上洛に反発するんじゃないかと考えてしまいがちですが、決してそのようなことはありません。
戦国大名でも、浅井家のように自国の安寧が第一な大名が大多数なのです。
一地方の小領主出身で、上洛して将軍の政に口を出そうと考えたのは、信長の前には三好長慶とその後継者一族の三好三人衆くらいでした。

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なお、三好家の畿内支配は三好長慶によって果たされました。
彼の死後、後継ぎの三好義継を追放した三好三人衆と松永久秀によって畿内支配は何とか保たれましたが、将軍足利義輝を殺害したり、義昭には近江に逃げられたり、過激な三好三人衆の支配に不穏な空気が流れていました。
事情を知らぬ尾張者に仕切られてたまるか!
三つ目はどうでしょうか。
畿内ではすでに足利将軍家と共に細川管領家も衰退。
その細川家阿波国(徳島県)の一被官でしかなかった三好家が細川家どころか将軍家も操り、国政を牛耳っています。
管領三家の一つであった河内の畠山家も内部分裂を起こし、領国を追放されたり戻ってきたりを繰り返しています。
斯波家はとっくに消えています。守護大名よりも家格が上の家でもこの有り様ですので、畿内では名門の没落は珍しくありませんでした。
しかし、南近江の頭領として長年君臨してきた六角家がいなくなると、国人衆には色々と不都合が生じます。
浅井家が北近江の小領主や村同士の裁判を仕切って北近江国人衆の信頼を勝ち取って頭領となったように、独立色の強い国人衆の争いを穏便に収めるには一本筋を通せる権力が必要なのです。
これが北近江の浅井家のように北近江出身で北近江の事情を知り尽くしている家ならまだいいです。
没落した京極家に対しても、一応儀礼上の守護領主として浅井家はリスペクトを絶やさず、小谷城内に「京極丸」を構えています。
しかし南近江の六角家は完全に観音寺城から放逐され、しかもやってきたのが尾張者の織田信長です。
わずか二日でやってきた男に南近江の複雑な事情が分かってたまるかと国人衆たちが思うのは当然です。出来の悪い頭領もウンザリしますが、名主が不在でも困るのです。
好きではないけど六角家に戻ってきてほしいという南近江国人衆勢力が一定数存在し、これらの勢力が六角家のゲリラ戦争に加担することになります。
ということで信長の南近江制圧に不都合を受け、押し戻しを画策する勢力とは、
・畿内の三好三人衆
・伊勢の北畠家
・越前の朝倉家
・南近江の国人衆
ということになります。
特に朝倉家は、領土の背後を固めるために国家戦略を根本的に変えるという厄介な作業を強いられます。
この変更作業もまたリストで挙げてみますと、
・一向一揆との和解
・緩衝地帯の構築の一環として若狭武田家の従属化の促進と、浅井家への「対話と圧力」の強化
・遠交近攻策として三好家や寺社などの畿内勢力と連携し、京都周辺での情報収集の強化
と多岐にわたって参ります。
そして、朝倉家の国家戦略変更によって浅井家にもその余波が波及。
板挟みの浅井家でICHIメーターは「5」に上がります。
「これが将軍様の威光というものか!!」信長軍、快進撃!
さて、南近江をあっさり制圧した信長ですが、目標はあくまで上洛、京への進軍です。
信長は安全が確保されたことを確認して、足利義昭を美濃から観音寺城内の桑実寺に迎えます。
ここは先ほども紹介しました通り、かつて義昭の父・義晴が仮の幕府を開いていた寺院です。
信長はさらに南下して京の洛中を目指します。
琵琶湖を渡って、西岸の「三井寺(みいでら)」に陣を張り、翌日、義昭も三井寺に到着。浅井長政も軍勢を率いて琵琶湖を渡ってまいりました。
次の日、信長は山城国に入って山科を越え、本陣を京の南方「東福寺」に移します。
ここまで拠点を一つずつ移りながら進軍しており、記録を追っていくだけでも織田方の緊張感が伝わってきますね。
それは同時に【三好三人衆がどこを対織田家の最前線に定めているのか】ということを信長たちがサッパリ掴めていないことも示しております。

信長は拠点を確保しながら慎重に軍を進めます/©2015Google,ZENRIN
しかし間もなく三好勢と遭遇!
彼らは東福寺の南西で、桂川を最前線にして待ち構えておりました。
拠点の「勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)」には、三好三人衆の一人、岩成友通(いわなりともみち)が近隣の土豪を結集して立て籠もっていました。
信長は、柴田勝家、森可成、蜂屋頼隆、坂井政尚を先鋒にして、桂川を越えます。
岩成勢も、城から軍勢を出して野戦となります。が、百戦錬磨の織田軍には勝てません。
そこで岩成友通は、籠城戦にチェンジ!
勝竜寺城周辺は起伏が少なく、細い河川が流入している平野にあります。
どこかで見たことのある地形ですね。そうです。尾張です。尾張で散々やってきた平城攻めなので、柴田勝家や森可成などにとって勝竜寺城攻略など造作も無かったでしょう。
たまらず岩成友通は城から逃亡しました。
勝竜寺城が落ち、摂津方面から京への入り口を確保することにも成功。この勝利を受けて義昭は「清水寺」に移っています。
この戦いで信長は、三好三人衆相手に「イケる」と確信したのでしょう。
翌日は山崎に着陣し、三好三人衆の一人、三好長逸(みよしながやす)の居城「芥川山城(あくたがわやまじょう)」に迫ります。
三好長逸は籠城戦を考えましたが、結局夜になって退散。
この後、畿内はなだれを打つように、西は越水城や滝山城まで信長の手に落ち、追いやられた三好勢は摂津や河内の諸城を放棄して本拠地の阿波へ逃がれて行きます。
ちなみに滝山城はJR新神戸駅の真裏の山にあります。新幹線乗り場からも見えます。
この城は、瀬戸内の水運物資が集まる神戸の港町「兵庫津(昔の大輪田の泊)」を支配下に置く目的で築城されました。
信長の時代になると、より兵庫津の町に近い場所に「兵庫城」を築城します。
城はそもそも防御の拠点なので、その地域で最も「要害を構えて侵されない」場所に築城されるのですが、信長は商業利権を支配することも重視していましたので、商業地に隣接するように築城して、あわよくば城下町に取り込むことを熱心に考えていました。
これは岐阜城や安土城のコンセプトが生かされています。
信長が相撲大会を催したことで有名な近江の「常楽寺」は近江商人で賑わう琵琶湖畔の商業地にありましたが、この町を取り込むようにして安土城が築城されます。
安土よりも大きくて要害堅固な観音寺城が真横にあるにも関わらず、わざわざ琵琶湖畔に近い安土山に築城したのはこのような背景がありました。
話を信長の上洛へ戻しましょう。
金融業で裕福だった池田家は装備も充実しており信長にも抵抗
信長は摂津の西端までわずか数日で支配下に治めてしまいました。
京都を手中にしてからの足利将軍家の威光は、信長も義昭も予想外の成果だったでしょう。
結局、最後まで抵抗を見せたのは、摂津・池田城の池田勝正だけでした。
池田城は現在の伊丹空港から見て北にある「五月山」の麓にありました。
摂津池田家は金融業で成功して裕福だったようで、この時代では最も装備が整った軍団を持っていたことがルイス・フロイスの記録に残っています。
というわけで池田勝正には自信があったのでしょう。織田方に対して激しく抵抗します。
しかし、後詰が期待できない状態では勝ち目などゼロ。
結局、池田勝正は、激しく抵抗したことは水に流され、逆にその実力と集金力を買われ、信長に許されて池田城も安堵されます。
それと同時に池田勝正は、信長・義昭政権で摂津守護の一人にも任命され、金ヶ崎の退却戦などでも活躍します。
他にも摂津守護には和田惟政、伊丹親興が任命されており「摂津三守護」と呼ばれました。
しかし後に信長と義昭が決裂したとき、池田家家臣だったにも関わらず主君の家を乗っ取った荒木村重やキリシタンで有名な高山友照(右近)、中川清秀などの信長派の武将に摂津を奪われてしまいます。

畿内はすべて信長の支配下に/©2015Google,ZENRIN
三好勢力を一掃して畿内の制圧が一段落した信長と義昭は、陣を置く芥川山城で、各地から集まってきた支持者やお近づきになりたい国人や僧侶、商人などの歓待を受けます。
大和国で孤立していて九死に一生を得た松永久秀もやって来て、茶器の大名物「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上、大和一国を安堵されます。
信長は芥川山城で一通り畿内の有力者たちとの面会を終えた後、いよいよ足利義昭を奉じて上洛も果たしました。
と、ここまで信長と義昭の摂津の戦いを見てきましたが、一つ疑問が湧いてきません?
なぜ信長と義昭は、洛中の将軍御所にさっさと入らないのか。
いつまでも清水寺や芥川山城に滞在していたのか。
その答えを明らかにする前に【京の都の仕組み】について詳しく見ておきましょう。
洛中、浮世離れし過ぎて城がない問題
京の都は洛中と洛外に分かれています。
天皇の御所や足利将軍家の御殿「室町殿」、管領細川家の「細川殿」などVIPの館があるのが京の中心地「洛中」です(ちなみに「殿」とは「大きくて立派な建物」という建物を指す言葉)。
この洛中を取り巻く外縁で、寺院や京の町が集まるところが洛外です。
では「どこまでが洛中か?」と問われると、この時代に分かりやすい目印はありません。
後年、秀吉が洛中を囲った「御土居(おどい・京都を囲む土塁)」は洛中と洛外を明確に区別しましたが、室町時代までは、どこまで課税したかで(棟別銭)、洛中と洛外に分けていたといわれています。
室町時代の成立以後、洛中ではどんなに戦乱に巻き込まれても御殿が城郭化されることはありませんでした。
足利将軍家の居館の「室町殿」は、まるで高貴な公家の館。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用
上記のように城郭の要素は一つもありません。
一応、堀と塀はありますが、こんなものでは大軍から守れません。
戦乱が起きると臨時の櫓などが設置されるケースはあったそうですが、応仁の乱を経ても「室町殿」を始め、武士の館もほぼ非武装という状態が続いていたのです。
なぜ日本一のセレブで、超VIPの足利将軍家が丸裸の館にいたのか?
その理由は『そもそも城とは何ぞや?』ということを考えると分かります。
城の定義は「要害を構えて侵されない」ことです。
そして城を構える行動を起こすということは、自分の安全を危うくする者の存在を認知していることになります。
わかりやすく言うと、朝廷や足利将軍家など、国家の中心に君臨する者には、この「自らが攻撃を受ける」という思想がそもそもないのです。
自分を攻撃する者の存在を認めることは、反対者の存在を受け入れ、自らの正統性を否定することになります。
よって将軍家が「城を構えて」しまうと、世の中に自分への反対者の存在を認め、正統性を自ら否定する行為になってしまう。
いやぁ、面倒くさい思考ですよね。
私のような下々の人間にはわかりにくいですが、これが応仁の乱を経ても洛中に城郭が築かれなかった理由です。
義昭がなかなか洛中に入らなかった理由は、この洛中の防衛機能が伝統的に弱い、というか防衛の概念が洛中にはそもそも存在しなかったので、摂津方面も含めて広範囲に安全が確保されるまでは危なくて洛中に入れなかったからです。
洛外、マッドマックスな世界が「城」を育てる
では「洛外」はどうだったのか?
これが洛中とは真逆で、マッドマックスな無法地帯です。
洛外には寺院や町が集まっており、各寺院は、貴族や武家から奉納された各種のお宝や土地代から上がる莫大な銭(銭と書くと一気にいやらしくなりますね)を抱えています。
また、洛中や寺院に向けての商業地もありました。
しかし応仁の乱以後、荒れに荒れて、幕府が治安維持を放ったらかしにした結果、盗賊や徳政一揆がはびこり、寺院や町といえども自衛のために武士を雇ったり、自前の僧兵を組織して、自ら安全を維持せねばならなくなったのです。
その結果が、寺院や町の城郭化です。
修学旅行で定番の観光地、清水寺や東寺なども、長年に渡るマッドマックスな世界にさらされた結果、寺の敷地も「要害を構えて侵されない」造りに変化しておりました。
洛外の寺院の要塞化の過程で生まれた代表的なものに「構(かまえ)」と「釘貫門(くぎぬきもん)」があります。
「構(かまえ)」は後年、小田原城の巨大な「惣構(そうがまえ)」などで知られますが、寺院やそれを取り巻く町ごと堀と塀で囲んでしまうというものです。
大坂、石山に移る前の本願寺の拠点「山科本願寺」はこの巨大な構「惣構」で有名です。
構を設置することで、自らの防衛圏を明確に定め、これを越える者は侵入者として攻撃を加えるという境界になります。
しかし四方を常に囲んでいる状態では生活できません。通常は人の往来を可能にするために門を設置します。これが「釘貫門」です。
釘貫門とは漢字の「廿」の形をした門です。
両脇に二本の柱を立てて、横穴(釘貫)に横木を一本通し、両開きの門扉を設置します。
後に横木の上に屋根が付いて「冠木門」や、現代でも寺院や城でよく見る「薬医門」に発展していきます。これはもともと洛外の野盗対策だったんですね。

釘貫門/wikipediaより引用
写真は江戸城外郭に架かる「昌平橋」で、左方に見えるのが釘貫門です。
内側に開く門扉が付いているのも見えますね。明治初期の写真ですが、この時代でも普通に活用されていた汎用性の高い門です。
また、当時の洛外の寺院の絵図を見ていくと門の先には番所が備えられていたり、塀には弓矢を打つための「狭間(さま)」が描かれています。
さらに寺院や建物の隅には二階建ての櫓が設置され、弓矢を持って守備につく人物も描かれています。
信長や秀吉の時代に近世城郭が広まり、築城の技術革新が進んだとされますが、洛外には膨大な築城技術が寺院に蓄積されていたのです。
この技術が宗派のネットワークを通して全国の寺院に広まっていきました。
一向宗では北陸の技術が山科本願寺に逆輸入されるなど、技術の交流で寺院の築城技術はますます進歩していきました。
京都では城郭の発展は武家ではなく寺社勢力が担っていたというのも面白いですね。
京都の防衛問題 どこで守ればええのんか?
洛外には将軍自ら築城した城もあります。
室町時代も末期になると細川晴元や三好長慶、その他様々な有象無象が傀儡の将軍を擁立します。
第12代将軍・足利義晴やその息子・足利義輝の時代になると、将軍家が都からあっさり追放されたり、将軍自ら洛中を放棄して逃げたりしていますので、足利将軍家といえども安全は自ら確保しなければならない事態に陥ります。
事ここに至り、将軍も要害を構える必要性に迫られたのです。
ちなみに剣豪将軍としても有名な第13代将軍・足利義輝は、多くの城を築いています。
父・義晴と共に洛外の東山、銀閣寺の裏山に「中尾城」を築城し、その後、清水寺の裏山に「霊山城(りょうぜんじょう)」、そして洛中に初めて城郭化された二条御所を作ったのも義輝です。
「霊山城」の麓の霊山護国神社は、坂本龍馬を始めとする維新の志士のお墓が集まる有名な観光スポットですが、城マニアなら足利義輝にも思いを馳せたいですね。

©2015Google,ZENRIN
将軍が築城したこれらの山城は、洛中防衛のために造られた外からの侵入者に備えた城でした。
しかし何度も三好勢の突破を許すという、城としてはイマイチ防御性能に劣りました。
これは、単純に「標高の高い場所に築城すること=要害を構えて侵されない城にはならない」ことを教えてくれます。
洛中の防衛のためには西は勝竜寺城、南は槇島城が機能しますが、近江方面からの防衛は長年の弱点でした。
信長の侵攻に対して三好三人衆が洛中を捨てて勝竜寺城まで後退したのも、近江方面には有効な防御拠点がなかったからです。
また、より標高の高い地点には比叡山の寺社勢力が支配していましたので、築城することはできません。
信長自身も近江方面の防衛に苦労します。
南近江を制圧したとはいえ、六角家がゲリラ活動を続けていますので、洛中に至る道はいつでも封鎖できるようにしなければなりません。
そこで信長は、山中で敵を待ち構えるのではなく、京都に至る峠よりもっと手前の地点で敵の進軍を阻むことを考えました。
それが宇佐山城です。
実際の築城はもう少し後になりますが、近江、坂本から京都方面に向けて山中越えに向かう場所に築城し進路を押さえました。
さらには京都に至る道を宇佐山城の真下を通るように造り替え、いつでも道路の封鎖ができるようにしたのです。
しかし、この「宇佐山城」も完璧な防御拠点にはなりえませんでした。
やはり、より標高の高い比叡山系とそこを支配する寺社勢力の存在がネックだったのです。
カネや土地は不要なれど、名物や鎧などは喜ぶ信長さん
摂津方面まで安全を確保すると、義昭はようやく洛中へ入りました。
信長は六条の「本圀寺(ほんこくじ)」に義昭を入れて御所にします。地名から「六条の御所」と呼びました。
現代のJR京都駅の北西、西本願寺とその北側の五条通りまでの土地をあわせた場所に当時の「本圀寺」がありました(今は山科に移転)。
一方、軍勢を引き連れた信長自身は、要塞「清水寺」へ。
足利義昭が無事に内裏で征夷大将軍に任命され、第15代将軍として正式に就任したのを見届けた信長は、2日後には早くも岐阜に向けて帰国の途に着きます。
義昭からは副将軍や管領の職をすすめられましたが、信長は頑なに辞退します。
信長にお近づきになりたい人たちが献金しようとしても「カネならある」と言って受け取らなかったり、土地を勧められても「欲しければ自分で取りに行く」と拒む。
その一方で茶入れなどの大名物や由緒ある鎧などの献上は喜んで受け取りました。私には理解できませんが、信長なりの線引きがあるのでしょう。
信長と共に上洛し、畿内制圧にもお供した浅井長政も、信長と同じ時期に小谷城に帰っていきました。

浅井長政/wikipediaより引用
すっかり信長に心酔してしまったのは長政だけではありません。
浅井家の有力な家臣たちもその実行力にすっかり魅せられてしまいます。
しかしこの間、北近江の留守を守っていた父の浅井久政とその取り巻きたちにとって、長政の行動は気が気ではありませんでした。
隣接する大国同士のはざまでバランスを取りながら生き残るのが浅井久政の構想する国家戦略でしたが、完全に一方(信長)に肩入れし過ぎています。
南近江はともかく、信長の畿内制圧まで同行することは、織田家との関係を強化するだけで北近江にとっては意味のない行動でした。
見ようによっては浅井家は信長の部下になってしまって、朝倉家にとっては北近江まで織田家に迫られた印象を与えてしまうのです。
浅井久政の嘆きと朝倉家の警戒のコンボで、ICHIメーターはついに「6」へ……。
ついに洛中に「城」が持ち込まれる!
畿内から後退を余儀なくされた三好三人衆は、年が明けて永禄12年(1569年)正月、信長の不在を突いて本圀寺の足利義昭を襲撃します。
彼らに躊躇はありません。
そもそも三好三人衆は第14代の足利義栄を推戴していましたので「義昭は正統ではない」という認識がある。
この本圀寺襲撃には、美濃から逃走中の斉藤龍興と、斉藤家の家老で中濃地域を信長に奪われた長井道利も加わっていました。
しかし足利将軍家の直臣たちと、駆けつけた摂津三守護たちの奮戦により、三好三人衆は撃退。
このとき、本圀寺を防衛した中に、明智光秀の名前が出てきます。

明智光秀/wikipediaより引用
光秀の出自や信長への出仕歴には諸説ありますが、この時期はまだ足利将軍家の直臣だったことは間違いないでしょう。
一方、岐阜城にいた信長は本圀寺襲撃の報せを受けて全速力で上洛。
大雪の中、当時、洛中まで3日かかる道程を2日で到着しました。
この義昭襲撃事件は、京のお城事情に大きな転換点をもたらします。救援に成功した信長は、義昭のために本格的な城郭を洛中に築城することを決心するのです。
それが「二条城」でした。
現在残る二条城は徳川期のものでまったくの別物。
信長が築城した二条城は現在の京都御所の西隣り、平安女学院の敷地になっています。
本能寺の変で織田信忠が立て籠もり、落城してしまったので、もはや遺構は残っていません。
この旧二条城は非常に画期的でした。
注目は、石垣と「だし」を伴う隅櫓、そして天主の存在です。
もう一つ重要ポイントがあります。これまで恒久的な要塞が築城されてこなかった城郭の真空地帯「洛中」に、初めて戦国の城が築かれたのです。
基本的に碁盤目状の洛中市街なので二条城はほぼ方形をしています。
平野部で方形の土地に「要害を構えて侵されない」城を造るのですから当時の城郭の知恵と技術をすべて注ぎ込まれます。
しかも撃退したとはいえ、まだまだ反撃の余力を残す三好三人衆などがガチで攻めてきますので、素早く工事を完了させなければなりません。
信長は尾張から播磨にかけて14カ国の大名に声をかけ、築城の分担をして、京都内外から数万人の人足が投入されました。
そして信長自らも現場に出て指揮をして、わずか70日で完成させるのです。

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残念ながら遺構はほとんど残っておりません。
なので当時の記述を辿るしかありませんが、二重の堀に、当時でも画期的な石垣を積み上げるという最新技術が投入されました。
二条城は一辺が400mくらいあったようなので、それだけの石を70日で山から集めて積み上げるのは至難のワザです。
そこで京都中から石仏や石塔などを集め、二条城の石垣に充てました。
これをもって「信長は罰当たりだ!やっぱり神を畏れぬ魔王だ!」と決めつけるのは早計です。
当時、石仏や石灯篭の転用は各地で行われていました。
もちろん人々が敬っている石仏を奪い取ってくるようなことはしません。治安を悪くするだけですからね。
戦国時代は主が行方不明になって廃寺になったり、戦乱から逃れるために郊外に移転してしまった廃墟の寺院が数多くありました。
そういったところから廃材として持ってきているのです。
石仏の利用は戦国のECOなリサイクルだったんですね。
また、城内の建物は本圀寺が「やめてくれ」と言っているにも関わらず移築しました。
このへんは多少強引ですが、本圀寺をそのままに残しても、反信長・義昭派の勢力が防衛拠点に使うと困りますので、本圀寺は丸裸にしておいた方が都合がいいのです。
また、二条城には「ダシ」を備えた隅櫓(すみやぐら)も設置されました。
隅櫓とは文字通り、縄張りの角に当たる場所に設置された見張り台の櫓です。
これを壁より少し前に出っ張らせることによって(「出し櫓」と言います)、壁に取り付いた敵兵を横から矢や鉄砲を撃ちかけることが可能になります。
このように平野でほぼ方形の二条城では、タテ、ヨコ、高さの三次元でどこからでも応戦が可能なように設計されました。
そして二条城の記述に初めて「天主」という名称が出てきます。
四方に巡らせた隅櫓の一つが一際立派だったのか、それとも城の中心に天主が置かれたのか、詳細は不明です。
しかし、わざわざ櫓と区別するくらいなので、平城では必須の「遠くを見渡せる」機能を持ち、同時に周囲を威圧する構造物だったことは間違いありません。
そして最後に信長からのプレゼントともいうべき当時、最新鋭の出入り口(門)である「虎口」が設置されました。
畿内では、特に洛外を中心に寺院が城郭技術を発展させていったと紹介しましたが、門に工夫はあっても平入り、すなわち「折れ」がなく一直線に出入りするものでした。
同じ時期に築城された細川藤孝の勝竜寺城も二条城と似た方形の縄張りだったのが分かっていますが、ここには折れを持った虎口が確認されています。
細川藤孝の上司である義昭の城にも同じような虎口が配されていたことは十分考えられます。
二条城では、さらに注目すべきことがあります。
意外かもしれませんが「庭」です。
信長はこれまで、小牧山城や岐阜城で、名デベロッパーにして名アーキテクトの才能を発揮してきました。
今回は名ガーデナー(造園家)としての才能を発揮します。
二条城に庭園のスペースを造り、池と小川、そして築山を造って豪華に飾り付けることを思いついた。
今は無人の管領・細川家の居館「細川殿」から有名な巨石「藤戸石」を、慈照寺(銀閣寺)からは名石「九山八海」を運ばせ、そのほか京都中の名石や名木を二条城の庭園に集めました。
また馬場に桜を植えて「桜の馬場」と風流な名称を付けるなど、二条城に様々なアートを施します。
隣接する天皇の御所(内裏)も、ひどく荒れ果てていたので信長が修築しました。
最後には名デベロッパーの血がたぎったのか、二条城近辺の土地を開放し、諸大名に邸宅を造らせ、二条城周辺の環境も同時に整備、将軍の居城に箔をつけさせるのですからお洒落というかなんというか。
この辺のセンスはさすがですよね~。
どんなに城が豪華でも荒地にポツンと建っているだけでは景観が寂しい。小牧山や岐阜で城下町ごとプロデュースした信長の真骨頂でしょう。
二条城の落成を見届けた信長は5月、岐阜城へ帰国。
永禄12年は本圀寺の襲撃から始まって、不穏な空気が流れましたが、結果的に洛中で堅固な二条城を完成させることになりました。
伊勢平定
信長はこの後、数年前からの懸案事項だった伊勢の北畠家の制圧に全力を注ぎます。
伊勢侵攻については、本題から離れるのでかなり省略します。

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松阪まで進んだ後は、南近江の戦い同様、機動力を生かして敵本陣に全軍で突撃。
伊勢の領主・北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)父子の詰めの城「大河内城(おかわちじょう)」攻略にも全軍を投入しますが、さすがの名城でなかなか落ちません。
しかし機動力を発揮して短時間で攻め上がったために大河内城では籠城戦に備えることが出来ず、信長も隙間なく包囲したので、北畠側に餓死者が出ててきました。
最終的に信長二男の茶筅(ちゃせん)を北畠具教の娘の婿に迎え、後に家督を譲ることを条件に和睦しました。
いわゆるお家の乗っ取りですね。
茶筅は織田信雄として有名ですが、実はそう名乗ったのは本能寺の変後【清洲会議】あたりからです。
それまでは成人して北畠具豊(ともとよ)、家督相続後は北畠信意(のぶおき)を名乗っていました。
信意は北畠具教、具房父子とその側近たちを虐殺したり、勝手に伊賀攻めを始めて手痛い反撃を食らったり、いろいろヤラカシています。
小牧・長久手の戦いでの自由な振る舞いも有名ですね。
話を戻しましょう。
伊勢平定後、信長は伊勢国内の諸城を壊し、関所も撤廃します。
そしてその後、滝川一益と織田信包を押さえに置いて、自らは千草峠越えで上洛。
京に数日滞在し、義昭に伊勢平定の報告をして岐阜に帰国しました。
浅井家、もう付いていけないってよ
明けて永禄13年(1570年)3月に信長は上洛します。
この年4月には年号が「元亀」に変更。
信長が頑なに反対していましたが、義昭が強行しました。
この頃から自信を取り戻した義昭が、よく言えば「自立」、悪く言えば勝手に行動を起こし始めます。
それはさておき、この時、信長は諸国の大名に声を掛け、上洛を促します。
飛騨の姉小路中納言(三木自綱)、伊勢の北畠具教、三河の徳川家康、河内の畠山昭高と三好義継、大和の松永久秀、そのほか、山名、一色、京極など、多数集まりました。
しかしこれは踏み絵のようなもの。
上洛に応じなかった朝倉義景に対して信長は「俺様を無視するのはこれでもう二回目だな。成敗してやる」と次の標的に定めます。
信長は、宮中にも参内して天皇に朝倉追討の許可を得ています。

朝倉義景/wikipediaより引用
この時の大義名分は若狭の武藤友益征伐です。
武藤友益は若狭の守護・武田元明の家臣で、当時の若狭武田家は長年に渡る朝倉家の若狭国への介入の結果、当主の武田元明が越前に拉致されて、完全に朝倉家の従属下に置かれていました。
これに反発する若狭の勢力が反朝倉派となり、信長に援軍を求めていたのです。
信長は彼らを若狭衆と呼んで重用しました。
朝倉家支配の詰めの甘さが結局、信長を若狭に呼び込む口実を与えてしまったのです。
朝倉家は、若狭を従属させているからには、若狭がピンチになれば後詰めの兵を出さなくてはいけません。
一方、信長は若狭衆の手引きもあって若狭を平らげ、敦賀の要衝・天筒山城(てづつやまじょう)も力攻めで攻略します。
次いで天筒山城の尾根伝いに造られた朝倉家の出城「金ヶ崎城(かねがさきじょう)」を攻撃しようとしたときには、既に城主の朝倉景恒は逃げていました。
この後、信長はいつもの戦略で敵の本陣「越前の一乗谷」まで一気に攻め上がって制圧する予定でした。
しかし、です。ここで信じがたい一報が入ります。
浅井長政が裏切った――。
信長は当初「うそだろ……あんな小心者に裏切る気概があるはずない」と信じませんでした。
しかし、確実だという情報を得ると、全速力で京に撤退することに決めます。
対等の同盟が いつしか家臣扱いされ
一体全体、浅井家に何が起こったのか。
ICHIメーターは「6」で止まっておりましたので、少し遡ってこの裏切りまでの間に起こったことを見ていきましょう。
浅井家は元々、北近江守護の京極家の被官でした。
が、北近江国人衆の裁判などをうまくまとめる利害関係の調整役として台頭、京極家の没落と取って代わるように北近江を代表する大名になったことは以下の記事で紹介しました。
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信長が浅井長政に裏切られた理由がスッキリわかる|近江の複雑な国家運営に注目
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越前朝倉家と南近江六角家という名門の大国同士の間でバランスを取りながら両国経営を安定化させ、国を豊かにする国家戦略をとっていたのです。
ところが織田信長の登場により、地域のパワーバランスが崩れ、六角家は滅亡。
幸い織田家とは友好的な関係にあるので、北近江を侵食されることはありませんでしたが、信長は将軍義昭を擁し、南近江を超えて突っ走り、摂津や河内、播磨近辺まで治めました。
信長は「天下布武」の印判を使用したように、天下の政権運営にのめり込んでいきます。

「天下布武」印が押された織田信長の禁制/wikipediaより引用
この間、浅井家は信長の戦いに援軍を出したり、二条城や内裏の造営にも力を貸しています。
北近江外に流出していく絶え間ない出費にICHIメーターはいつのまにか「7」を示していました。
そもそも同盟を結んだ当時は、婚姻政策に基づく対等な関係だったはずです。
それが気がつけば足利将軍家への奉公といいながら、実質、織田家の家臣扱いをされているのです。
この実質的な従属状態を最大限に利用したのが徳川家康ですが、浅井久政・長政父子およびその家臣団である北近江国人衆たちは受け入れることができません。
ICHIメーターは「8」へ。もはや危険水域です。
信長が、浅井長政のことを小心者だと評していたという記録が残っています。
おそらく自分が伊勢などの制圧に向かっている間、羨むほどの強兵と優秀な武将を持ちながら他国(越前や若狭)にも介入せず、北近江から全く動かなかったことを軽く批判したのでしょう。
同時期に、三河と遠江を制した徳川家康が、ついに武田信玄との対決を始めたことと比べると、長政の姿勢はまるで対照的です。

徳川家康/wikipediaより引用
しかし、いくら信長がどう思おうが、浅井家の国家戦略に「朝倉家と戦う選択肢」など全くありません。
当然、その従属国である若狭に侵攻する理由も皆無。
信長が、侵攻しない浅井家を軽く見れば見るほど、浅井家の中で沸々とたぎる怒りや焦りのはけ口はすべて織田家に返ってくるのです。
これをコントロールするのは至難のワザでしょう。
国人衆の連合組織、一揆の盟主でしかない浅井家にとって、独立心の強い国人衆の不満に同調しないことは「じゃあ頭領の座を降りていただこうか」と迫られ、自らの座を危うくしてしまうだけ。
国人衆から訴えられる数々の不満に、ついに浅井長政は耐えられなくなります。
「摂津とか京とか興味ねえから!」
「領国を豊かにする方が先だろ!」
「信長?天下布武?知るか!」
「なにっ! ICHIメーターがまだ7だと? 9だ、今すぐ9にしろ!」
そして……。
「えっ? 朝倉さんが信長さんに攻められている?」
決定的な転機が訪れました。
織田家が朝倉家に侵攻し、浅井家では大きな転換点を迎えました。
離脱するならば、最後のチャンス――浅井家は、ここで動かないと北近江の頭領の座すら危ういと判断したのでしょう。
朝倉家が滅んでしまっては、完全に緩衝地帯としてのパワーバランスがなくなってしまうばかりか、織田家の家臣となって、延々と外征を繰り返すことになります。
そしてICHIメーターはついに「10」となったのです。
浅井家は織田家を見限り、朝倉家の救援へ向かいました。
織田家の必勝戦略を間近で見てきた浅井長政にとっては、一直線に敵の本陣を突く織田の軍勢は、逆に背後を取られると脆いことを知っていました。
この辺りはさすがです。六角父子とは違って、竹中半兵衛など斎藤家の戦術も隣国だけに熟知していたのかもしれませんね。

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逃げるときも抜群の機動力を生かす信長
しかし情けないのは朝倉義景です。
絶好の機会に本人は出陣せず、しかも結局、信長はおろか、有力な信長の家臣の一人も捕らえることができず、逃げれらてしまいました。
いわゆる【金ヶ崎の退き口】ですね。
信長は無事に京に到着したことを義昭に告げて、千草峠越えの伊勢経由で美濃に帰りました。

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南近江では、朝倉家の呼びかけに応じて甲賀地方に潜伏していた六角父子が軍勢を整えてゲリラ戦を準備。
このとき、信長が命じて、京への入り口を守るために築城していた「宇佐山城」が完成しています。

宇佐山城/wikipediaより引用
宇佐山城は琵琶湖方面から山中越えで京に至る道を城下に通して監視させるという、陣城のような性格を持った城。
陣城じゃないかと思うかもしれませんが、宇佐山城の山頂近くには石垣を巡らせた恒久的な城となっています。
小牧山城のように山頂地近くにまで石垣が配されていたので、道行く者を威圧するためではないかと言われています。
また琵琶湖方面からも遠望できるため、近江の国人衆に対しても威圧する城となります。
この宇佐山城にも虎口があったことが分かっています。
虎口の活用はかなり定着してきました。定着したということはすなわち防御設備として有効だということです。

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ご覧のように宇佐山城は、琵琶湖方面から京への交通を完全に支配下におくための城です。
伊勢や近江で関所を撤廃しまくった信長の政策とは全く対照的。
そもそもは不穏な動きをする六角ゲリラ対策で築城を開始しましたが、ここに来て対朝倉・浅井連合軍から京を守るための最重要拠点となりました。
信長はこの宇佐山城を猛将、森可成に守らせます。

森可成/wikipediaより引用
森可成は美濃の中濃攻略時に活躍。
金山城という東美濃、武田領に続く、常に武田の調略にさらされる地域を任せられた武将です。
つまり最も信長を裏切らない男、それが森可成であり、今回も最も重要な城に配置しました。

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続いて南近江の永原城には佐久間信盛、長光寺城には柴田勝家を入れます。
「瓶割り柴田」の逸話はこの城です。
また、旧安土城には中川重政、守山城には稲葉良通、貞通父子と斉藤利三を入れます。
千草峠付近では日野城の蒲生賢秀など信長派の南近江国人衆が案内。
しかし信長は杉崎善住坊というスナイパーに狙撃され負傷するなど、かなり危うい帰国となりました。
二条城の画期性や宇佐山城の重要度を伝えたい
この後、いよいよ【姉川の戦い】となりますが、随分長くなってしまいましたので続きは次回にしましょう。
今回は信長の城として、二条城と宇佐山城を紹介しました。
というかほとんど信長の城以外の紹介に終始してしまいましたが、信長の戦略や戦術、織田家を取り巻く環境が分かれば、
・二条城の画期性
・宇佐山城の重要度
が伝わると思い紹介しました。
特に洛外の城の変遷を知っているだけで、京都見物もまた違った見方ができるのではないでしょうか。
清水寺や銀閣寺を訪れて、裏山ばかりを見ている人がいれば、それは間違いなく城マニアです。
仏閣見物はほどほどに寺院の「構」の痕跡を求めて住宅地に迷い込む人がいれば、それは間違いなく城マニアです。
京都に行ったのに京都市街はスルーして、長岡京市や宇治市で勝竜寺城や槇島城を見て、宇佐山城を見るため滋賀県へ向かう人がいれば、それは間違いなく城マニアです。
皆様がその仲間入りをご希望とあらば、私は喜んで待つばかりであります。
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