沖縄の歴史というと、なぜか学校では現代史しかやりませんよね。
ではその前の沖縄はどんなところだったのか?
というと、かつては日本と中国のちょうど中間のような別の国でした。
ご存知「琉球王国」です。
1429年に成立し、明治12年(1879年)まで存続した、とても歴史の長い国。
だいたい室町幕府から明治時代までの450年間に及びます。
江戸幕府が約250年ですから、ものすごく大ざっぱに見て2倍ですね。

火災で焼失する前の首里城正殿
これだけ長く独立国でいたわけですから、現在も独自の雰囲気が残っているのもわかる気がします。
琉球王国は、日本が統一される度に「ウチに入れよ!」という誘いを受けることになりますが、ずっと独立国だった上に歴代の中国王朝に(表向きは)従っていたので、すぐに「ハイわかりました」なんて返事はできません。
時には強く反対する人もいました。
本稿ではそのうちの一人に注目。
慶長15年(1611年)9月19日、琉球国の大臣「三司官」である謝名利山(じゃな りざん)が処刑されました。
薩摩との講和に一人だけ反抗した謝名利山
謝名が名前で、利山は号。
姓は中国風に「鄭」さんです。
琉球の偉い人の称号は「親方(ウエーカタ)」なので、通称「謝名親方」となりますね。
処刑の理由は「薩摩との講和に一人だけ反抗しているから」という、いたってシンプルかつ横暴なもの。
時を少し遡って、ここまでの経緯を見てみましょう。
※佞臣(ねいしん)……主君への情報操作で自らが権力を振るう家臣のこと
仙台藩に見慣れぬ船が漂着
事の始まりは慶長7年(1602年)のことでした。
徳川家康が関ヶ原の戦後処理に追われ、政宗が「まだ野望あるなんじゃないの?」と言われたりするころ、仙台藩に見慣れぬ船が漂着します。
話を聞いてみれば、はるか南の国・琉球から来たと言うのです。
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迷い込んだからには帰る手立てを考えなければなりませんが、琉球の人々は仙台周辺の航路がわからず、地元民も「琉球?なにそれおいしいの?」状態。
おそらく「南から来たっていうから、一応、家康に相談して島津あたりにツテがないか聞いてみよう」ということになったのでしょう。
そしてこの船は無事琉球へ送り返されます。
問題は、その後でした。
徳川家が帰る手立てを整え、無事送ったにも関わらず、琉球から返礼の使者が来ないのです。
これを無礼と見た幕府は「早く来ないと攻めンぞゴルァ!」と苛立ちますが、琉球側は意に介しません。
このとき中心になって拒否していたのが利山をはじめとした重臣たちだったのです。
薩摩藩に指令「琉球を討て!」
堪忍袋の緒が切れた江戸幕府は、ついに薩摩島津家へ「琉球を討て!」と命令を下します。
関ヶ原での撤退時(島津の退き口)やその頃起きた内紛(庄内の乱)でに多くの勇将たちを失ったとはいえ、島津の兵力にはまだ余裕がありました。
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もともと関ヶ原には、なし崩し的に巻き込まれた感が強く、さほど多くの兵数を動員していませんしね。
立地的にも薩摩が自然ですし、当時、薩摩藩主・島津忠恒(家久)はそれ以前に奄美大島へ出兵するなど、南進へ意欲的でした。
琉球との貿易権益を握ることで、困窮する藩の財政を回復しようとしたとも考えられます。
ただ、それだけに幕府の強い介入は薩摩にとっては喜ばしいものではなかったのですが……。
薩摩藩の琉球侵略はじまる
1609年になり、薩摩藩の琉球侵略が始まりました。
一方の琉球側はというと、軍備なんてほとんどないも同然の状態。
ずっと戦をしていなかったため、その間の技術の進歩も何もかも知らなかったのです。
そのため、攻めてこられたときにはビックリ仰天。わずか数日で首里城は陥落します。
唯一、謝名利山だけが拠点の久米村で抵抗しますが、強烈な島津軍に勝てるはずもなく、結局、降参したといいます。
ただし、気持ちの整理はそう簡単にはつきません。
鹿児島を経由して江戸まで連れてこられた琉球国王・尚寧(しょうねい)は、降伏の起請文へ渋々署名しますが、連署しなければならない重臣のうち、謝名だけは最後まで「イヤだ!!」と言い続けるのです。
なぜ、そこまで反抗したのか?
というと、彼は大陸の血を濃く引いており、若い頃には明(当時の中国)に留学していたインテリでした。
留学から帰国後も明への使者を務めており、優秀さが窺えます。それだけにプライドも高かったことでしょう。
明からの帰国後は、謝名は日本語がうまく親日(親薩摩)だった「三司官」のひとりを告発して百姓の地位に落とし、自分が代わりに三司官の地位についていたのです。
そうした影響から薩摩・江戸幕府へ降るのを是としなかったのでしょう。

那覇市若狭の旭ヶ丘公園にある「鄭迵謝名親方利山顕彰碑」/photo by LordAmeth wikipediaより引用
結局、彼は最後まで主張を曲げず、琉球側でただ一人処刑されることになります。
琉球の正史でも「謝名は外交を誤り国を滅ぼした」と明記され、薩摩でも「邪名」と表記されるなど、散々な扱いです。
しかし、自分の国に誇りを持っていたという点においては、謝名利山は紛れもなく「漢」だったと言えるのではないでしょうか。
実際、薩摩の傘下(直轄支配)に組み込まれた奄美大島などでは、後に藩へ特産品を献上する【黒糖地獄】という憂き目に遭っています。
琉球王国は幕藩体制には取り組まれながら、軍役の対象外(戦時における派兵義務の免除)になるなど特例的存在でした。
ただし、薩摩からの掟15ヵ条では、
・中国品の勝手な購入
・商船の派遣
・琉球での交易
などが禁じられ、琉球独自の外交は禁じられています。
要は島津氏に貿易のキモを握られてしまったので、非常に窮屈な状態だったと言えるでしょう。
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【参考】
国史大辞典
赤嶺守『琉球王国 東アジアのコーナーストーン (講談社選書メチエ)』(→amazon)
謝名利山/wikipedia





