明治十八年(1885年)1月27日は、第一回官約ハワイ移民が日本を出発した日です。
現在でもハワイは日系人が多いエリアとして有名ですが、そうなるまでには様々な紆余曲折がありました。
この日より前の時点から見ていきましょう。
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白人の持ち込んだ伝染病で……
ハワイでは、1830年頃からサトウキビ畑や製糖工場で働く移民を求めていました。
白人が来るようになって、それまでハワイになかった伝染病が流行るようになったからです。元々現地に住んでいた人がたくさん亡くなり、労働力が足りなくなってしまったのでした。
そこでいろいろな国へ移民を打診。
日本にも声がかかります。
1860年、万延元年遣米使節団(福沢諭吉や勝海舟が参加していた使節団)がハワイに立ち寄った際、「ウチで働いてくれる人いない?」(超訳)という手紙を当時のハワイ国王から受け取ったのです。
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幕末でバタバタしていたので、当初は日本側が対応している余裕はありません。
すると、在日ハワイ領事ユージン・ヴァン・リードと幕府が交渉し、まずは300人分の渡航印章を作成。
ようやく始まるかと思いきや、移民が出港する前に明治維新が起きたため、明治新政府が「もう幕府も無いですし、約束はなかったことにしてください」と言い出しました。
渡航の準備を整えていたリードからすると、頭にくる話ですよね。
納得できなかったリードは、明治元年(1886年)、明治政府に無許可で日本人153名をハワイへ送り出してしまいます。度胸あるな。
このときの移民は「(明治)元年者」と呼ばれたのですが、後に明治政府からの抗議&契約条件の相違によって40人が帰国へ。
残留を希望した者には待遇改善が図られています。
「日本人は風呂が好きなので、なんとかしてほしい」なんて要望もあったとか。
1885年~1894年までは政府が移民を斡旋した
1871年、日本とハワイの間で正式に修好通商条約、1885年に移民条約を締結。
再び日本からハワイへ行く人々が集められました。
「官約移民」と呼ばれているのは、1885年~1894年までは政府が移民を斡旋した理由からです。
しかし、当時ハワイの法律では「主人と召使法」と呼ばれるほど過酷な労働条件でも合法とされていました。
慣れない気候で一日10時間労働、休みは週一日という厳しさでありながら、一月10ドルも稼げなかったといわれています。
さらに、契約期間中は辞められなかったため、ストライキも多かったとか。
この条件で「何だ、そんなに悪くないじゃん」と思ってしまった方は、転職をお考えになったほうがよろしいかと……。
物価にせよ円相場にせよ、あまりにも変動が激しいので、金額換算が難しくてわかりにくいんですけどね。
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