滅亡した武田家の領地を巡り、上杉、北条、徳川の大国が支配権を争った【天正壬午の乱】。
キーマンとなったのは真田昌幸でした。
ときに降伏したり、ときに裏切ったり。
各国の痛痒いポイントを巧みに突きながら、生き残っていく様は
【表裏比興(考えをコロコロ変える狡猾なヤツ)】
とも言われたりしますが、小勢力の真田が荒波を越えていくにはそれしかなかったのも事実です。
しかし最終的には、表裏比興だけでは乗り切れない結果となりました。
真田のいないところで話し合いが進められ、
・甲斐信濃は徳川領
・沼田は北条領
と勝手に決められてしまったのです。
沼田エリアは、越後・信濃・上野の街道ポイントとなる要衝であり、絶対に受け入れられるものではありません。
昌幸は憤怒し、激しく抵抗しました。そして……。
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない! もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!」
反徳川の姿勢を明らかにし、天正13年(1585年)閏8月2日、第一次上田合戦へと繋がっていくのです。
第一次上田城の戦いとも称されるこの合戦。
如何なるものだったのか、振り返ってみましょう。
※以下は真田昌幸の生涯まとめ記事となります
真田昌幸は誰になぜ「表裏比興」と呼ばれたのか 65年の生涯で何を成し遂げた?
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1585年 第一次上田合戦
徳川から援助を引き出し上田城を築き、自らの手で沼田エリアを奪い返す――。
すべて計画通りに進んでいた真田昌幸の思惑は、突如成立した北条と徳川の和睦により脆くも崩れそうになりました。
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そんなとき、昌幸が必ず頼るべきは第三極です。
もう一つの大国・上杉家。
越後の雄に従属して、沼田領の保持に全力を尽くそうとします。
もちろん目算はありました。
徳川家と北条家が和睦すると、両者の矛先が向かうのは北の上杉領とも考えられます。
同家は上杉謙信の時代から、沼田を保持することで、他勢力の越後侵攻を阻み、逆に関東へ睨みを利かせてきました。
真田の沼田領有を認めることで北条家の北進を阻止できれば、たとえ昌幸が表裏比興のヤツだと分かっていても、味方にしておいた方が得です。
昌幸は、この鞍替えによって、今度は徳川家と北条家を敵に回すことになりました。
家康と氏政ですね。
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当然ながら北条は沼田へ、徳川は上田侵攻を開始します。
北条だけでなく、今回の徳川は本気です。
なぜなら真田の上田城築城にあたり、人やカネなど、多大なる協力を提供したのは徳川です。
たとえ上田城を放置しておいても、徳川の領地には何ら危険性はありませんが、国衆の離反をアッサリ許していたら、旧武田領の新たな支配者としての威信&経営が揺らぎます。
つまり徳川は、メンツのため上田城を奪取せねばならないのです。
かくして天正13年(1585年)に侵攻をスタート!
世に言う第一次上田合戦の始まりです。
これに対し真田家は、上杉家への防御として北向きに築城していた上田城の縄張りを、対徳川家に想定した縄張りに変更しなければなりません。
一番の問題となるのは、小諸方面の東側でした。
コチラから侵攻されると、上田城は高台からの敵を坂の下で迎え撃たなければなりません。
野戦では圧倒的に高地の方が有利です。
このピンチに真田昌幸はどう対処したのでしょうか?
弱点の東側には沼が点在 水路を繋いで堀にする
小諸城方面から上田へと向かう街道は、千曲川に削られた台地をなだらかに下っていきます。
北上してくる徳川方の予想される侵攻ルートは、道筋からして上田城の東側。
同城の弱点でもありました。
そこで昌幸は、城の東側に点在する沼を水路でつなぎ、水堀として、軍の直進的な侵攻を阻むこととしました。
上記の古図は、実際の水路とは違うものもあり、多少誇張されているようです。
東側の門の前には、いかにも突貫工事で掘ったと見られる堀、というか穴ですね。
これは後に城の東側の堀として完成し、現在も残っています。
もともと対上杉の北側は完璧な防御(=馬出状の城郭)ですが、東側は城のキワまで自然地形だけに頼るという危うさ。
しかし東側で一か所だけ、神川という城の遥か東の川でなだらかな台地が途切れており、深い谷になっています。
想定される徳川方の進路で唯一、侵攻を阻めそうなはこの神川を挟んだ台地の上に第一防衛線を張ることです。
徳川方にしても、おそらくそれを頭に入れていたことでしょう。
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