延宝八年(1680年)6月28日は、後に仙台藩五代藩主となる伊達吉村が誕生した日です。
二代藩主だった伊達忠宗の八男・伊達宗房の息子なので、吉村は伊達政宗のひ孫にあたりますね。
しかし宗房は、宮床伊達氏という別の家を立てていたので、本家ではなく親戚扱い。
現在の岩手県一関市で生まれ育ち、小さい頃は地元のお寺で教育を受けていたといいます。
それがなぜ伊達吉村が伊達家を継ぐこととなったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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綱吉から一文字賜って「吉村」
伊達吉村は当初、仙台藩の支藩である一関藩を継ぐ予定でした。
それが当時は【伊達騒動】の余波とその他諸々で安定しておらず、さらに四代目・伊達綱村に跡継ぎがいなかったことから、ちょうど良い年頃の吉村が本家の養子になったのです。
元服は10歳、その後16歳で当時の将軍・徳川綱吉から一文字賜って「吉村」と名乗るようになります。
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実際に藩主の座についたのは23歳のときで、同じ年に公家の久我通名(こがみちな)の娘・冬姫を正室に迎えました。
夫婦仲に関する逸話は特にありませんが、後の六代藩主・伊達宗村の他、五人の娘に恵まれているので、割と仲はいいほうだったんじゃないですかね。
娘のうち三人は早世してしまっています。
この時代のことですから仕方がない……というのは少々冷たいでしょうか。
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藩札の発行費用だけで数億円のコストが!?
藩主継承及び結婚の翌年、吉村は初めて仙台に入ります。
そしてさっそく、財政再建という大仕事が始まりました。江戸時代中期の大名ってだいたいこんな感じですよね。
当時の仙台藩は普通のお金だけでなく、藩札(はんさつ・藩の中でだけ通じるお金)で経済を回していました。
しかし、これに対応するために余計なお金がかかる、という本末転倒な状態が続いていたのです。
その費用は、なんと参勤交代に匹敵するレベルになっていたといいますから世話ぁない。
ちなみに仙台藩の場合、参勤交代の費用はだいたい3,000~5,000両くらいです。
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江戸時代は時期によって貨幣そのものが変わったり、物価か人件費かどうかでお金の価値が変わるので、現代の金額に換算するのは難しいのですが……。
敢えて計算すると1両=13万円ぐらいだとして、考えてみましょう。
単純に考えて、3億9,000万~6億5,000万くらいの参勤交代費用を、藩札関連だけで消費していたことになりますね。
検地をやり直そうとした家臣たちから猛反発
こんな調子ですから、仮に吉村でなくても『早く何とかしないと……』と焦っていたことでしょう。
とはいえ、藩主の病気など、よっぽどの理由がなければ参勤交代をやめるわけにはいかないので、一定以上の扶持をもらっている藩士から少しずつお金か米を出させて、藩札対応にあてました。
しかし、それでもその年の赤字は12万3,000両にもなったといいます。
しかもこのタイミングで幕府からは「東照宮の普請よろ^^」(※イメージです)と命じられてしまい、江戸や京都の商人から合わせて7万3,700両も借りて、お役目を果たさなければなりませんでした。
この状態でよく借りられたもんです。
まぁ、江戸で散財していたわけじゃなかったから、よそにはバレてなかったんでしょうか。
こんな感じで、仙台藩の財政は火の車どころか燃えカスも残らないような状態。
吉村はもう一度収入をきちんと把握すべく、検地をやり直そうとします。
しかし、仙台藩では家臣たちに禄(給料)ではなく土地を与えて、そこから収入を得させていたため、まず家臣たちから反発を食らいました。
仙台藩士は自らが田畑を耕作していたのです。
検地をやり直されたら仕事が増えるかもしれませんし、仕事が減ったら減ったで今度は収入が減りますから、どっちにしろ検地をやられたら損しかない。
そのため「検地をやり直して収入アップ作戦」は失敗に終わりました。しかし……。
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