アジア・中東

15ヶ国語を習得したフィリピンの天才ホセ・リサール なぜこの英雄は銃殺刑に処されてしまったのか?

 

「英雄」という言葉には、華々しいイメージがありますよね。
しかし、現実にはその多くが浮き沈みの激しい人生を送り、そして悲惨な最期を遂げることも少なくありません。あるいは「もっと活躍できるはずだったのに……」というタイミングで、不本意に退場させられた人もいます。
本日は日本のすぐ近くの国で、そうした運命をたどった「英雄」のお話です。

1896年(明治二十九年)12月30日は、フィリピンの医師・著述家だったホセ・リサールが処刑された日です。

処刑というだけでも穏やかな話ではありませんが、その経緯については「ちょっと過剰反応じゃね?」という感が強いものでした。


タガログ、スペイン語だけじゃなく仏、伊、中、英、独、日本語も!?

彼の本名はかなり長いです。「ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ」といい、フィリピンのルソン島(首都・マニラがある北部の大きい島)で11人兄弟の7番目に生まれました。他のきょうだいは姉5人・兄1人・妹4人だったそうで、ほぼ女所帯ということになります。
ホセが長じてからの写真はいかにも「アジアのイケメン」という感じですので、もしかすると美形の一族だったのかもしれません。

ホセは小さい頃から利発な質で、特に語学に才能を示しました。8歳のときにはフィリピンの言葉であるタガログ語はもちろん、スペイン語もマスターしていたといいます。初等教育が終わってからは、現在のアテネオ・デ・マニラ大学で農学や土地測量などを学びました。

その後、母が目を患ったことにより、医学を志すようになります。そこでそうなるのもスゴイ話ですね。
更にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を受賞したり、土地査定技師の免許を受けたり、文理両方で頭角を現していきました。
トーチャンとしてはそのまま働いてほしかったようですが、ホセは反対を押し切るような形で宗主国であるスペインに留学することを選びます。

長い船旅の末、21歳でマドリード大学の医学部と哲文学部に入学し、ホセは猛勉強を開始しました。5年間でフランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語を習得した上、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語を研究していたとか。って、おい!
どんな脳みそしてればそんなことができるんですかね……。南方熊楠あたりと知り合っていたら、良い友人になれたかもしれません。だいたい同世代ですし。


ドイツでは国籍の取得を進められるほど

こんな天才的頭脳ですから、ホセは無事に哲文学博士と医学士を取得。しかし、金銭的な理由で医学博士は取れなかったそうです。もったいない話だなぁ。
しかし、その後ドイツのハイデルベルク大学・ライプツィヒ大学・ベルリン大学で医学や社会学を学んでいます。なぜ医学博士号を取る金がないのに、その後三つも大学に行けたのか不思議ですが……短期留学なら何とかなるくらいのお金はあったのか、それとも払うタイミングの問題?

まぁそれはともかく、この頃ドイツ語で書いた社会学の論文が高く評価され、ドイツ国籍の取得を進められるまでになっています。どんだけー。

しかし、ホセはこれを断固拒否しました。
彼はあくまで自分と家族のために勉強していたので、国籍にも誇りを持っていたのでしょうね。

ヨーロッパ滞在中に他の著作活動もしていたのですが、これが帰国後「現地人のくせに植民地反対とかいい度胸してるね^^」(※イメージです)と睨まれたため、ホセは身の危険を感じて再びヨーロッパへ留学しました。

二回目の渡欧では日本とアメリカを経由しています。日本には二ヶ月ほど滞在。案内役の女性に日本の文化をいろいろ聞いて好印象を持ったとか。ロンドンで日本の「さる“かに”合戦」とフィリピンの民話「さる“かめ”合戦」を比較した論文も書いています。
長生きしていたら、もっと日本とフィリピンの文化に関する著作も書いていたかもしれません。

このヨーロッパ留学では、大英博物館を始めとして各国の図書館に通い、植民地になる前のフィリピンについて研究していたそうです。
おそらくこの辺から、祖国の独立のことを強く意識していたのでしょうね。他のフィリピン人とともに政治的活動を始めてもいます。しかしこれがまたフィリピン当局がホセを危険視するきっかけになったため、一時難を避けて香港で眼科医をやっていました。この着実に溜まっていくヘイトが怖い。


ホセの死から三年後、フィリピンは1899年にスペインから独立

ホセはほとぼりが冷めるのを待って、翌1892年にフィリピンに帰国。
そして「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」という組織を作り、スペインの支配からソフトランディングしてフィリピンの改革を目指すつもりだったようです。

しかし、上記の通り前々から目をつけられていたため、この活動も当局には気に食いませんでした。ホセは逮捕され、ミンダナオ島(フィリピン南部の大きい島)に流刑が決まります。
流刑先では医師・教師として働き、住民にも慕われていたそうです。また、ヨーロッパ留学中に知り合った学者たちの依頼で、ミンダナオ島の地質や生物などを研究しており、政治的活動からは身を引いたかに見えました。

そして、問題なく刑期を終えた後、医師として生きていくことを選択。総督(植民地で一番エライ人)に「軍医として働かせていただけませんか」と希望を出しました。反逆の疑いで逮捕されたのになかなかの度胸ですが、これが許可されて、任地であるスペイン領キューバに向かうことになります。

しかし、この船旅の間にフィリピンで別の人達による独立運動が始まり、ホセも関与を疑われたことで、フィリピンに送り返されてしまいました。
そして軍法会議の後、同じ年のうちに銃殺刑となってしまったのです。
これほどの頭脳と知識を持っていた上に、既に反逆の意思がない人をブッコロしてしまったなんてひどい話です。おそらくは、見せしめの意味も強かったでしょうけれども……。

ホセの死から三年後、1899年にフィリピンはスペインから独立しています。
しかしこれは、アメリカがフィリピンの独立運動を支援したことと、米西戦争に勝ったことが大きく影響していました。それを裏付けるかのように、1901年にはアメリカの植民地にされてしまっています。
支配者が変わっただけで、真の独立とは言えなかったのです。

その後も第二次世界大戦中には日本vsアメリカの戦場にされたり、戦後も共産主義や独裁者やアメリカ軍駐屯といった別の問題に襲われたりしたのですが、その辺はまたフィリピンの歴史を扱うときに改めてお話しましょう。

長月 七紀・記

参考:ホセ・リサール/Wikipedia なびマニラ


 



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