明智光秀の功績と言えば?
悪い意味で【本能寺の変】ばかりが注目されがちですが、もちろんそれだけではありません。
足利義昭の命を救った【本圀寺の変】や、近江坂本の領地を貰うキッカケとなった【比叡山焼き討ち】、あるいは本願寺・一向一揆との対決や、徳川家康の饗応など、ありとあらゆる場面で織田信長に重宝されております。
そんな光秀にとって、最も華々しい活躍と言えば
【黒井城の戦い】
が筆頭候補に挙げられるでしょう。
京都に程近い重要な地・丹波国――。
このエリアを支配するために行われた黒井城の戦いとは、一体いかなるものだったのか?
・第一次黒井城の戦い
・第二次黒井城の戦い
を併せて見ていきましょう。
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黒井城の戦国大名・赤井氏
【黒井城の戦い】とは何ぞや?
その説明を始めるには、ご理解していただきたい前提があります。
「織田信長の上洛と将軍就任」です。
永禄11年(1568年)に織田信長は、足利義昭を擁して京都を目指しました。
その際、彼らの上洛を妨害した六角氏や三好三人衆は実力行使で駆逐。大河ドラマ『麒麟がくる』に登場している三淵藤英(細川藤孝の兄)も同合戦での活躍が伝わります。
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畿内を平定すると、光秀は義昭を室町幕府15代将軍に就任させ、信長も京都および畿内の支配者にのし上がります。
そこで畿内の勢力は、次第にこんな選択を問われることになりました。
◆信長に従うか?
Yes ←?
or
No ←?
丹波(現在の京都府付近)「黒井城」の戦国大名である赤井氏は、ひとまず信長への恭順を表明しました。
赤井氏は、当主が赤井忠家。
実質的に取り仕切っていたのが赤井直正です。
赤井直正は、自らのことを【悪右衛門尉】と称するような変わり者の猛将で、現代の知名度は低いながら、戦国時代には名の知れた武将だったとされます。
※詳しくは以下の記事をご覧ください。
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また、赤井氏が織田家の傘下に収まると、同じく丹波の有力者だった波多野氏(波多野秀治)も下り、他の多くの丹波衆もそれに続きました。
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日の出の勢いの織田家、そして権威を有する将軍家。
両者についていけば間違いないであろう。
しかし、そんな目論見は徐々に狂い始めるのです。
信長包囲網を画策する義昭にキレ
政権トップとして日本を治めたい義昭。
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「天下布武」のために将軍を利用していた信長。
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両者の関係は次第に悪化していきました。
表面上こそ友好的に振舞っていながら、上洛の翌年・永禄12年(1569年)以降になると、義昭が信長打倒を目論んで諸国の大名に連絡を取るようになっていくのです。
元亀2年(1571年)には「信長を討伐してほしい!」と依頼を出すほどまでに対立が表面化し、義昭の憎悪はかなりのものが見受けられました。
もちろん信長も将軍の敵意は察知しておりましたが、権威を有する将軍を直接非難することは避け、我慢を重ねていたとされます。
しかし、それにも限界がありました。
執拗に敵対行動を重ねる義昭に対し、「もう我慢ならぬ!」とばかりに元亀3年(1572年)、十七カ条にも及ぶ意見書を送り付けるのです。
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それでも将軍家の野望を抑えられない義昭。
浅井・朝倉氏や松永久秀、さらには武田信玄などとも協調して反信長体制を進め、【信長包囲網】が形成されます。
包囲網を敷くだけでなく、義昭は、元亀4年(1573年)に自ら挙兵を果たします。
が、これは完全に勇み足でした。
この絶妙のタイミングで武田信玄が死してしまったのです。
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振り上げた拳を降ろすこともできず、槇島城に籠もる足利義昭。
織田の大軍に包囲されると呆気なく降伏し、京都から追放されますが(槇島城の戦い・この時点で室町幕府は滅亡)、織田家にとって厄介だったのは京都に程近い丹波の赤井氏も反旗を翻したことでした。
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もともと赤井氏は「将軍義昭」を擁する信長に忠誠を誓っていたのであり、それを失ったいま織田家に従う理由はありません。
本音を言えば、これ以前の元亀2年(1571年)に、但馬(現在の兵庫県付近)の山名祐豊(山名韶煕)と抗争を繰り広げたところ、信長が山名助けを求めたことに不満を持ち続けていたのでしょう。
一大勢力となっていた信長に反旗を翻すのは、さすがに迷いもあったようです。
が、都を追われた義昭からの嘆願や武田氏との密通を経て、反信長へ傾いていくのでした。
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