明智光秀

織田信長と明智光秀/wikipediaより引用

明智家

史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ

明智光秀とは、いかなる人物か?

そう問われて即答できる方は意外と少ないものです。

本能寺の変】で主君・織田信長を殺した謀反人、悪人――かつてはそのようなイメージ一辺倒で、冷静な分析が入る余地は無きに等しいものでした。

しかし、時代がくだるとともに、評価は変わっています。

謀反の一件はあまりに衝撃的なれど、光秀が織田家で果たした業績そのものまで色眼鏡で見るべきではない。

事実、大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれた実直な姿は、評価の見直しが進んでいる証拠でもありましょう。

では、その背景にあった史実とはいかなるものだったか?

ドラマ終了から1年が過ぎた今、あらためて明智光秀、史実の生涯を振り返ってみたいと思います。

 

明智光秀 霧の中の前半生

明智光秀の生涯を大河ドラマで描くとなると、それはもう非常に困難な作業のはずでした。

というのも、光秀はとにかくナゾが多い。

真田丸』の真田幸村真田信繁)同様に、

・知名度が高い

・その割に【前半生】の事績が不明

という二つの特徴があるのです。

ハッキリと事績が判明しているのは、後半生の十数年間のみ。

生年に至っては、

・永正13年(1516年)生まれ
・享禄元年(1528年)生まれ
・天文9年(1540年)生まれ

と主に3つの説が提唱されています。

そこから本能寺の変(1582年)時点での年齢に当てはめると

・67才
・55才
・43才

という計算になりますね。

当時の67才といえば相当な高齢ですから、ここでは便宜上、多くの辞書でも採用されている【1528年説(享年55説)】で進めましょう。

 

明智光秀、世に出る

明智光秀が霧の中から出てきて、歴史の光の中に姿を見せるのは、細川幽斎細川藤孝)との出会い以降です。

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越前にいた頃、二人は出会ったとされています。

軍記物(物語)での明智光秀は、斎藤道三の側にいた(長良川の戦いで敗北した)――そんな説もありますが、史実としての確定までには至っておりません。

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何らかの理由で美濃を離れたあと、越前国の朝倉義景に仕官し、十年間家臣であった――という話も実はハッキリしていない……。

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『麒麟がくる』では上記の流れで描かれておりましたが、実際のところ敗者の歴史は本当に残りにくいもので、武士としてのルーツは

清和源氏

土岐氏

明智氏

と推測されています。

ともかく、細川藤孝(幽斎)との出会いから、先へと進めましょう。

 

兄・義輝を殺された義昭のもとで

明智光秀が細川藤孝と出会った頃。

後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭は、窮地に立たされておりました。

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永禄8年(1565年)。
第13代将軍・足利義輝が、三好三人衆や松永久通(松永久秀の息子)らの手にかかり無念の死を遂げ、弟・義昭は、姉婿にあたる若狭国守護武田義統(よしずみ・よしむね)のもとへと逃れていました。

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義昭は、都を捨てたつもりはさらさらありません。

各地の武将に上洛&自らの将軍擁立を依頼し始めます。

細川藤孝が使者として派遣され、この申し出を受けたのが織田信長でした。

ところが、ここでトラブルが発生します。

永禄9年(1566年)に義昭は、織田家と斎藤家の間に和睦を結ばせていたのですが、わずか数ヶ月で信長が和睦を破り、美濃へと出兵。

家臣たちに愛想を尽かされていた斎藤龍興を稲葉山城(後に岐阜城)から追い出し、1567年8月、この地へ本拠地を移転したのです。

 

信長に助力を得て義昭の上洛&将軍就任

こうした信長の一連の動きに対し、義昭も流石にキレ、越前の朝倉義景を頼ろうとしました。

そこで光秀と接触したわけです。

しかし、肝心の義景は腰が重い。一向に上洛の素振りも見せません。

しびれをきらしつつある義昭に対し、明智光秀は「信長こそ頼れる者なり」と話を持ちかけ、自らが使者となって発ちました。

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永禄11年(1568年)。
かくして足利義昭一行が織田信長から招聘を受け、岐阜に入った時期から、光秀の動向もはっきりとしてきます。

信長と義昭の交渉を担当したのが細川藤孝であり、さらに信長と藤孝の間にいたのが、明智光秀なのです。

【義昭―藤孝・光秀―信長】

信長が美濃を攻略した永禄10年(1567年)あたりから、明智光秀は細川藤孝の家臣として、信長の周辺に姿を見せていたと思われます。

この両者は、本能寺の変にて数奇なヤリトリをすることになりますが、それは後ほど。

国を追われて十年を経て、故郷に戻った明智光秀には、どのような思いが胸に去来したのでしょうか。

永禄11年(1568年)。
ついに信長が義昭を引き連れて上洛すると、光秀と藤孝も京都に同行しました。

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二人は、信長が岐阜に戻ってからも京都に留まります。

そしてその翌年の永禄12年(1569年)、事件が起きます。

足利義昭が三好三人衆らに襲撃されたのです。

堅固ではない寺での防衛戦となり、守備をするにも限界がありましたが、光秀も藤孝らとともに応戦。

ほどなくして到着した織田家の援軍により、事なきを得ます【本圀寺の変】。

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信長の事績を示す『信長公記』に明智光秀が登場するのは、この戦いからです。

とはいえ、まだ際だった活躍をしたわけではありません。

このころの明智光秀の立場はなかなかややこしく、足利将軍家と織田家、両方に所属するというものでした。

光秀は、義昭にとって有能な家臣として仕えていたのです。

織田家の優秀な家臣としての道は、まだ先でした。

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