明智光秀

明智光秀/wikipediaより引用

明智家

史実の明智光秀はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

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義昭と信長の決裂

永禄11年(1568年)、足利義昭は念願の15代将軍となりました。

と、同時に違和感をおぼえていました。

どうも信長に好きなように利用されているようで、「話が違うやん!」という気持ちになったのです。

信長にとって将軍はただのお飾り。上洛のため使えるだけに過ぎません。

しかし義昭は、将軍として全国の大名を支配できると思っていたわけです。

この不幸なすれ違いは、明智光秀の人生にも大きな影響を及ぼします。

永禄13年(1570年)、信長は【殿中御掟】等を出して義昭の行動を制限します。

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一方、義昭は、裏で朝倉義景と通じておりました。信長は義景の行動を警戒し、朝倉家に対し、上洛するよう命じます。

と、義景はその命令を黙殺。

しびれをきらした信長は、ついに越前へと出兵するのです。

絵・富永商太

明智光秀も従軍しました。

他にも徳川家康豊臣秀吉などが参加。

織田の主力部隊に対し、朝倉が絶対的なピンチに陥った――そう思われた矢先、織田軍を待ち構えていたのは予期せぬ事態でした。

背後にいた浅井長政に裏切られたのです。

 


浅井に裏切られ金ケ崎の撤退戦

越前へ攻め込み、朝倉義景を滅ぼそうとした信長。

その直後に、義弟の浅井長政に背後を取られ、織田軍は撤退を余儀なくされます。

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僅かな伴を引き連れた信長が、京都まで逃げるまでの間、敵を引きつける役を請け負ったのが明智光秀でした。

この撤退戦は、豊臣秀吉による【金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)】として有名ですが、光秀も殿(しんがり)に加わっていました。

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義昭と通じていた朝倉。

そこへ攻め込むという戦に従軍したことにより、光秀の所属も、両属から織田家臣へと切り替わっていったといえましょう。

ただし、元亀3年(1571年)の時点で、まだ義昭家臣とする記録もあるため、このあたりの切り替えタイミングも難しいようです。

ドラマとしても義昭と信長の対立で苦悩する光秀の姿がありましたね。

元亀2年(1571年)には【比叡山焼き討ち】に参加。

信長にとっては目の上のたんこぶを取り除いたようなものでして、よほど嬉しかったのか、このときの光秀の戦いぶりを絶賛しています。

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実際、抜群の活躍であったのでしょう。

明智光秀は、この功績によって近江志賀郡を与えられ、坂本城の築城を開始。

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それまでの居城だった宇佐山城よりも、志賀郡の行政統治に適した城でした。

なにより琵琶湖の水上交通も利用したネットワークは、岐阜城(美濃)と京都をつなぐのに超重要な拠点となりますので、ここは地図でも確認しておきましょう。

◆美濃~京都ルートを支える重要拠点

・赤色(右)→岐阜城

・紫色(中央)→安土城 ※1579年に完成

・黄色(左)→坂本城 ※1571年頃に完成

いかがでしょう?

織田家本拠地・岐阜城だけでなく、後の安土城を考慮しても、明智光秀の坂本城がどれだけ重要だったか、現代の我々にとっても明白ではありませんか。

信長から並々ならぬ信頼を得て、足下を固めていった様子がうかがえます。

 

さらば将軍義昭

さて、光秀が義昭ときっぱりと手を切ったのはいつごろでしょうか。

元亀3年(1571年)の時点では、一応「義昭家臣」という表記が残っています。

ただし、元亀4年(1573年)2月に義昭が信長に対して挙兵すると、明智光秀は織田家臣として敵対する側に回っています。

信長は自分を評価するのに、義昭はそうではない――。そういう状況に嫌気が差したようです。

同じく義昭の家臣である細川藤孝も、元亀4年(1573年)にはこの将軍を見限っておりました。

そして元亀4年(1573年)2月、ついに義昭が織田家に対して挙兵します。

この戦いで明智光秀は、完全に義昭と決別し、織田家臣として参陣。

昔のよしみなのか。

義昭を救うため信長と和睦を結ばせようとも努力した形跡もあるのですが……松永久秀・三好義継の謀叛により工作は破綻しました。

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そして同年、義昭はまたしても挙兵。

今度はさすがに信長も甘い顔をせず、きっちりと城を囲むと、最後は衆寡敵せずで義昭はあっさり降伏しました【槇島城の戦い】。

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義昭は京都から追放されて毛利を頼り、結果的に室町幕府は滅亡――。

このあと信長は朝倉・浅井両氏を打倒すると、それまでに囲まれていた信長包囲網は脆くも崩れ去りました。

ただしこれは、織田家最大の強敵・武田信玄が病死していた影響が殊のほか大きかったことも忘れてはならないでしょう。

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天下人の家臣として

織田信長が天下人へと駆け上がる中、明智光秀はその家臣として重要な役割を果たします。

義昭追放後、準備期間を経て、信長が本気で「天下布武」に乗り出すターニングポイントは、天正3年(1575年)のこと。

この年、明智光秀は惟任(これとう)の姓を賜り、従五位下日向守に任官されました。かくして彼は、惟任日向守となったのです。

惟任だけでなく、同年に信長が家臣のため賜った姓は、九州名族のものでした。

弱りつつあるとはいえ、東の強敵である上杉家と武田家は健在。

信長は彼らと対峙する前に、西へと目を向けたのです。

惟任日向守となった明智光秀。

その後も西進を企てる信長の家臣として、様々な戦いに参戦します。

◆高屋城の戦い(1575年)
※本願寺との戦いとの一つ

◆長篠の戦い(1575年)
※武田勝頼を相手に設楽原で快勝

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◆越前一向一揆(1575年)
※本願寺系勢力との戦いとの一つ

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前述の通り、明智光秀の領地である近江志賀郡は、交通の要衝としても重要でした。

琵琶湖もあり、彼は水軍も備えていたのです。

しかし、好事魔多しともいったものでして。

信長へ抵抗する勢力はまだ残存しており、特に大坂の石山本願寺が手強い敵として立ち塞がりました。

石山本願寺は、複雑に入り組んだ水路を利用した要塞であるばかりか、鉄砲の腕が随一と知られた雑賀衆を防御に取り入れ、織田の侵攻を見事に阻むのです。

石山合戦図/wikipediaより引用

実際、天正4年(1576年)に明智光秀も石山本願寺との「天王寺の戦い」で苦戦を喫し、このときは信長の来援により助かっています。

さらに悪いことは重なるもので、光秀は5月になると重病に倒れてしまいました。

翌月には病死の報告すらあったほどで、7月になってようやく回復。

しかし、10月になると夫と入れ替わるように、今度は明智光秀の妻・明智煕子が病に倒れ、11月に病死してしまいます。

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明智光秀にとって哀しい別れでした。

明智煕子については1582年の死亡説もありますが、『麒麟がくる』では上記の説で進められましたね。

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