長宗我部盛親

長宗我部盛親/wikipediaより引用

長宗我部家

四国の戦国武将・長宗我部盛親41年の生涯~何かと不運だった関ヶ原後の取潰し

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文禄・慶長の役

長宗我部元親長宗我部盛親の親子は文禄・慶長の役にも参戦しています。

元親の甥である香宗我部親氏、そして津野親忠らと共に渡海。

一時休戦の際は親忠を朝鮮に残していて、粗略に扱われていたようなこともありません。

しかし親氏は戦病死してしまい、その父(元親の弟)親泰も国内で病死と不幸が続いてしまいます。

文禄・慶長の役では戦死の他に兵糧不足による餓死者や、気候の厳しさによる病死者も多かったので、長宗我部家でも回避することは難しかったでしょう。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

そんな苦境の中でも、元親父子が二人とも無事に帰国しただけでも御の字のはず。

その間、盛親は、跡継ぎになるべく政務にも励んでいました。

単独で自らの身辺に仕える者たちの勤務規定を作ったり、元親と連名で分国法として知られる『長宗我部元親百箇条』を定めたり。

当初は若すぎてなんだかんだと批判されたものの、慶長年間には立派に数々の職務をこなしています。

それでも親の元親から見ると不安は残っていたのか。

盛親の兄である親忠を慶長四年(1599年)3月に幽閉してしまいます。

なんでも盛親の重臣である久武親直と親忠がソリが合わなかったことや、藤堂高虎と親しかった(≒徳川家康に近づいた)ことなどから、元親に疎まれたようで……。

元親はそれから間もない慶長四年(1599年)5月に亡くなっているため、親忠の処分が最期の仕事だと思っていたのかもしれません。

こうして父が亡くなると盛親は正式に家督を継ぎ、父の菩提寺とした慶雲寺をその法号にあわせて「雪蹊寺(せっけいじ)」としました。

雪蹊寺の本堂と大師堂/wikipediaより引用

 


関ヶ原の戦い

前述の通り、豊臣政権下では、いささか中途半端な立ち位置だったのでは?と思われる長宗我部盛親。

石田三成加藤清正、あるいは福島正則など、主要な子飼いたちほど大きな恩を受けた話もなく、かといって家康に家運を託すほどの理由もない。

石田三成/wikipediaより引用

非常に中途半端なポジションで迎えたのが関ヶ原の戦いです。

盛親としては東軍につきたかったようです。

しかし、その使者が道中で西軍方に説得されてしまい、西軍につかざるを得なくなってしまった――とのことですが、三成もそんなやり方で味方を増やしても、士気が上がるわけないと思うんですけどね……。

味方を増やしたかったならば、なぜ秀吉が体調を崩し始めたあたりから工作を進めておかなかったのか。

三成は戦国トップクラスで頭脳明晰のはずなのに、どうもその辺が理解できません。

ともかく西軍方となった盛親は、伊勢安濃津城を攻略した後、慶長五年(1600年)9月7日、関ヶ原東方の南宮山に布陣しました。

下掲の地図で言うと、一番右下にいる部隊です。

関ヶ原の戦い布陣

関ヶ原の戦い布陣/wikipediaより引用

兵数は1600ほど。

位置としては家康本陣の東後方にあたり、やろうと思えば背後から奇襲もできる位置です。

しかしその間には、既に東軍へ内通していた吉川広家らが布陣しており、結果として盛親はほとんど動けずに関ヶ原の戦い当日を迎えました。

当日は、小早川秀秋の動きにより、西軍は大混乱。

小早川秀秋/wikipediaより引用

盛親は被害を最小限にするべく、早めに退却の準備をしたものの、東軍があっさり逃がしてくれるわけもなく……犠牲を払いながらの撤退となりました。

大坂までの道中で200人ほど失ったそうですから、盛親としては悔いの残る結果だったでしょう。

 


改易

大坂から土佐へ帰国した長宗我部盛親は、家康に詫びて処罰を軽くしてもらおうと考え、まずは井伊直政へ連絡を取ります。

同時期に幽閉中の兄・親忠が藤堂高虎とも連絡を取り、長宗我部家の赦免を願い出ていたようです。

「目的が一緒なら兄弟で力を合わせられる」

と思いたいところですが、そうは問屋が卸しません。

高虎が家康に取り次いだ際、家康は「親忠に土佐を半分与えよう」と言ったようで、盛親がこれを不満に思い、親忠を殺してしまった……とされます。

親忠殺害については盛親の意向ではなく、盛親の重臣・久武親直がやったことだとも言われていて、詳細は不明。

いずれにせよ親忠が殺されたことは即座に家康にバレ、かえって怒りが強まり、最悪なことに長宗我部家は改易になってしまいました。

もしも親忠殺害が意向でなければ、盛親、不憫すぎる。

そして家康の情報網が凄すぎませんか。

徳川家康/wikipediaより引用

当然ながら、長宗我部の家中では改易を不服とする者も多く、土佐へ封じられた山内一豊への反抗が続いたといいます。

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