こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【政宗の手紙】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
読んだら燃やせよ、絶対、即火中だぞ!
先ほど、「政宗は追伸でレイアウトが崩れたり、花押が小さくなったりしても、清書しない」と書きました。
実はこれ、本人も気にしていたようで。
政宗自身が「なんかマジやべえ、内容もしょうもねえし字も汚ねえ。これ、残ったら黒歴史じゃね……」と自覚していたらしく、よく
「即火中」
と書いています。
この「即火中」とは、字面からお察しできるように「しょうもねえし、残したら黒歴史モンだから、読んだらソッコーで燃やしてくれ!」という意味です。
「ソッコーで燃やす」はずの書状が何故今も残っているのかというと、家臣が「燃やせっていうけど、主君からもらった手紙だし」と記念に保管したからですね。
だから、清書をしろと……。
ネタとして最高なのでありがたいんですけどね。
もちろん文章そのものに魅力あります
追伸だけではなく、文章そのものがオモシロなのが政宗の特長です。
彼には、ユーモアにあふれ、率直で、時々嫌味ったらしい皮肉もまじえる、そんな豊かな文才があります。
人物評も興味深いのです。
天正20年(1592年)、母・義姫の侍女宛の手紙では、秀吉についてこう書いています。
(秀吉様は)二、三日前にはわざわざ私のところまで使者を遣わし、親切な言葉までいただきました。まるで昔の父上のようなご贔屓で、私も心強いです。
当時の政宗は、蒲生氏郷と揉めていろいろ大変であったのですが、自分の母親には「秀吉様はまるでパパみたいに優しいんだ!」と、告げているわけですね。
安心させたいのでしょうが、父のようだと言うあたりがなかなか興味深いものが。
信長の娘を正室に迎えた蒲生氏郷~織田家の若手エリートはどんな武将?
続きを見る
伯父の最上義光評は辛辣で、嫌味です。
北の関ヶ原こと慶長出羽合戦(慶長5年、1600年)では「最上衆が弱かった!」と二度も書いていますが、さらに皮肉っている手紙も。
慶長6年(1601年)、今井宗薫宛ての書状です。
(庄内攻めに関して)昨年の冬より、最上家に加勢しており、無事庄内を征圧しました。
これも修理殿(義光の嫡男・義康)の武功のおかげです。
出羽守(義光)のころはこんなにも奮戦健闘することはありませんでしたからね。珍しいことです。
これは一見すると最上義康を褒めているわけですが、わざわざ「義光の頃はこんなにうまく戦ってないもんね! 強くなかったよ!」というニュアンスをこめています。
辛辣政宗の本領発揮ではないでしょうか。
義康をただ褒めるだけなら「義光の頃より」と比較しなくてもよいワケです。
このとき義光は50才を越えており、慶長出羽合戦で心身ともに疲れ切っており、体調を崩して寝込んでおりました。
慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?
続きを見る
そんな義光を労るつもりがまるでないどころか「アイツの息子のほうが強いよね!」としれっと書くあたり、政宗くんてば、もう……と言いたくなります。いやあ、おもしろい。
政宗は慶長出羽合戦の際も、最上の戦略がお粗末だとぶっちゃけ書状を義光に送っており、マウンティングしたい感情をなんとなく感じてしまいます。
いやもちろん、心からの善意という可能性もありますけど。
※続きは【次のページへ】をclick!