今川義元

今川義元の浮世絵(歌川国芳・作)/wikipediaより引用

今川家

なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは

ブクブク太った体型に加えて、薄気味悪いお歯黒姿――。

かつて今川義元と言えば、まるでバカ殿、バカ貴族のように描かれ、織田信長に喰われるだけの当て馬キャラでした。

最近はかなりイメージが変わってきたのではないでしょうか。

大河ドラマ『麒麟がくる』では片岡愛之助さんが演じ、『どうする家康』では野村萬斎さんが華麗な舞を披露して、一躍脚光を浴びています。

そもそも義元は「海道一の弓取り」と称され、「東海道で一番優れた武士」という高い評価が与えられるほどで、実際、そちらのほうが実情に近いのではないでしょうか。

本稿では、信長に討たれてしまっただけの、滑稽な悪者の印象は捨て、真の今川義元に迫ってみましょう。

 


今川義元は家督継承順の低い五男か

今川義元は、永正16年(1519年)に生まれました。

父は今川家の当主である今川氏親で、母は中御門宣胤という公卿の娘(寿桂尼)。

母の寿桂尼は氏親の正室として今川家にかなり大きな影響を与えていたようで、「女大名」「尼御台」などと称されることもあります。

※以下は寿桂尼の関連記事となります

寿桂尼
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった

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しかし、上記のように格の高い出自を有しながら、義元の家督継承順位はかなり低かった。

それはなぜか。

義元には複数の兄がいたと考えられるからです。

広く知られているところで二人の兄(今川氏輝・玄広恵探げんこうえたん)がおり、また近年では、経歴不詳な彦五郎という人物や、仏教界ではそれなりに名の知られた象耳泉奨しょうじせんじょうも兄とされます。

依然として義元の兄弟については複数の説が乱立していますが、本稿では今川家の五男として進めます。

たとえ大名家の子息として生まれても、これだけの兄弟がいればどのような生涯になるか?

家臣の一員として兄を支えるか。

あるいは出家して俗世間を離れるか。

大半がこのパターン。

義元の場合も後者で、大永元年(1521年)、駿河国富士郡の善徳寺(現在の静岡県富士市付近)に預けられました。

 


御家騒動を避けるために出家

義元の出自にこれといった特徴は見当たりません。

興味深いのは、義元だけでなく嫡男の氏輝と彦五郎を除いた兄弟もそれぞれ出家しているというところです。

戦国の慣例からするとそれほど違和感はないかもしれませんが、当時の今川家が同じく東国の有力大名である【北条氏】の影響を強く受けていたという事実を踏まえると、ある疑問が浮かんできます。

北条氏は、基本的に当主となった兄を補佐する弟たち(一門衆)が家臣となり、彼らの働きで成長していった一族です。

それゆえ彼らの影響下にあり、この頃はまだ一流の大名と呼べるほど勢力が大きくなかった今川家も、その「成功例」にならうのが妥当に思えます。

ところが義元の父・氏親は、まず嫡男の氏輝と、彼が病弱だったための「保険」として彦五郎を家元に残し、それ以下の弟三人を出家させたと考えられているのです。

これにはもちろん理由があります。

・今川家は家督継承をめぐって内乱が絶えず、兄弟を遠ざけることで争いを避けた

・今川家には嫡子を除いた男子を僧侶とする習いがあった

・有力な寺社に息子たちを預けることで、仏教界に「コネ」を作ろうとした

義元の生涯を見直す限り、「仏教界との関係づくり」という目的自体は果たせていたと考えてよいでしょう。

すぐ後に義元の「師」として有名な大原雪斎と過ごした幼少期についても解説しますが、仏教世界が彼にもたらした影響は大きかったからです。

太原雪斎
義元を支えた黒衣の宰相・太原雪斎 武田や北条と渡り合い今川は躍進

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一方、「後継者争いを避ける」という目的については、残念ながら見込み違いに終わってしまいました。

今川家に勃発した御家騒動【花蔵の乱】についても、また後で詳細に触れていくこととします。

 


生涯の師・雪斎との出会い

善徳寺に入った義元は、そこで父による三顧の礼をもって教育係に迎えられた僧侶・大原雪斎と出会いました。

彼らは善徳寺で数年ほど修行をしたのち、上洛して京都の建仁寺や妙心寺に滞在。

義元は幼いながら都で一流の公家や文化人と交流を深め、栴岳承芳せんがくしょうほう(旧説は梅岳承芳ばいがくしょうほう)という名の僧侶として、非凡な才覚を高く評価されていたようです。

しかし、すでに家督を継承していた兄の氏輝によって「駿河(今川氏)と甲州(武田氏)の間で戦乱の気配がある」との知らせが届き、天文4年(1535年)ごろに善徳寺に戻りました。

しばしば指摘される「義元の貴族趣味」ですが……。

おそらくこうした幼少期に一流の文化人たちと交流をもったことが根本にあるのでしょう。

駿河に帰ってからも、祖母・北川殿の邸宅を改装した善徳院にて、流されてきた公家らと積極的に交流。義元は彼らの影響から文化人として振舞い、戦国大名屈指の教養を身に着けていくのです。

ゲームなどで「麻呂言葉に、白塗りの顔」で表現されるのはこのためでしょう。

勘違いしてはいけないのが、こうした「教養人であること」は戦国乱世といえども重要だったのです。

話を戻しまして。

駿河へ戻った義元のもとに衝撃的なニュースが飛び込んできました。

天文5年(1536年)、今川家当主の座に就いた今川氏輝と、その弟である彦五郎が同日に死去してしまったのです。

いくら氏輝が病弱といえど、弟ともども同日に亡くなるというのは明らかに不審。当然ながら、二人の死をめぐって「自殺説」や「暗殺説」が囁かれてきましたが、今なお具体的な死因は不明です。

ともかく、二人の兄の死により、義元に家督継承のチャンスが舞い込んできたのは間違いありません。

彼の兄のうち象耳泉奨は家督に興味を示さず、もう一人の兄・玄広恵探も、母が優先順位の低い側室(福島正成の娘)だったのです。

例えば、同じ織田信秀の子供でも、側室生まれの織田信広(長兄)に家督は引き継がれておらず、正室・土田御前の実子・織田信長(次男)が継いでますよね。

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しかしながら、義元の家督継承に「待った」をかけた人物がありました。それは……。

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