今川家

今川義元「海道一の弓取り」の実力はダテじゃない!42年の生き様を見よ

今川義元――その名を聞き、思わず「ププッ」としてしまう戦国ファンの方もおられるかもしれません。

ブクブク太った体型に加えて、薄気味悪いお歯黒姿。

まるでバカ殿、バカ貴族であり、義元が「海道一の弓取り」と称されていたことさえ知られていないかもしれません。

「海道一の弓取り」とは「東海道で一番優れた武士」という意味であり、実際のところ、その評価こそが正しい人物と言えそうです。

織田信長にやられてしまった、ダサい悪者の印象を捨てていただき。

本稿で、真の今川義元に迫っていただければ幸い。

さっそくその生涯を見て参りましょう!

 

今川義元は家督継承順の低い五男か

今川義元は、永正16年(1519年)に生まれました。

父は今川家の当主である今川氏親で、母は中御門宣胤という公卿の娘(寿桂尼)。

母の寿桂尼は氏親の正室として今川家にかなり大きな影響を与えていたようで、「女大名」「尼御台」などと称されることもあります。

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しかし、上記のように格の高い出自を有しながら、義元の家督継承順位はかなり低かった。

それはなぜか。

義元には複数の兄がいたと考えられるからです。

広く知られているところで二人の兄(今川氏輝・玄広恵探げんこうえたん)がおり、また近年では、経歴不詳な彦五郎という人物や、仏教界ではそれなりに名の知られた象耳泉奨しょうじせんじょうも兄とされます。

依然として義元の兄弟については複数の説が乱立していますが、本稿では今川家の五男として進めます。

たとえ大名家の子息として生まれても、これだけの兄弟がいればどのような生涯になるか?

家臣の一員として兄を支えるか。

あるいは出家して俗世間を離れるか。

大半がこのパターン。

義元の場合も後者で、大永元年(1521年)、駿河国富士郡の善徳寺(現在の静岡県富士市付近)に預けられました。

 

御家騒動を避けるために出家

義元の出自にこれといった特徴は見当たりません。

興味深いのは、義元だけでなく嫡男の氏輝と彦五郎を除いた兄弟もそれぞれ出家しているというところです。

戦国の慣例からするとそれほど違和感はないかもしれませんが、当時の今川家が同じく東国の有力大名である【北条氏】の影響を強く受けていたという事実を踏まえると、ある疑問が浮かんできます。

北条氏は、基本的に当主となった兄を補佐する弟たち(一門衆)が家臣となり、彼らの働きで成長していった一族です。

それゆえ彼らの影響下にあり、この頃はまだ一流の大名と呼べるほど勢力が大きくなかった今川家も、その「成功例」にならうのが妥当に思えます。

ところが義元の父・氏親は、まず嫡男の氏輝と、彼が病弱だったための「保険」として彦五郎を家元に残し、それ以下の弟三人を出家させたと考えられているのです。

これにはもちろん理由があります。

・今川家は家督継承をめぐって内乱が絶えず、兄弟を遠ざけることで争いを避けた

・今川家には嫡子を除いた男子を僧侶とする習いがあった

・有力な寺社に息子たちを預けることで、仏教界に「コネ」を作ろうとした

義元の生涯を見直す限り、「仏教界との関係づくり」という目的自体は果たせていたと考えてよいでしょう。

すぐ後に義元の「師」として有名な大原雪斎と過ごした幼少期についても解説しますが、仏教世界が彼にもたらした影響は大きかったからです。

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一方、「後継者争いを避ける」という目的については、残念ながら見込み違いに終わってしまいました。

今川家に勃発した御家騒動【花蔵の乱】についても、また後で詳細に触れていくこととします。

 

生涯の師・雪斎との出会い

善徳寺に入った義元は、そこで父による三顧の礼をもって教育係に迎えられた僧侶・大原雪斎と出会いました。

彼らは善徳寺で数年ほど修行をしたのち、上洛して京都の建仁寺や妙心寺に滞在。

義元は幼いながら都で一流の公家や文化人と交流を深め、栴岳承芳せんがくしょうほう(旧説は梅岳承芳ばいがくしょうほう)という名の僧侶として、非凡な才覚を高く評価されていたようです。

しかし、すでに家督を継承していた兄の氏輝によって「駿河(今川氏)と甲州(武田氏)の間で戦乱の気配がある」との知らせが届き、天文4年(1535年)ごろに善徳寺に戻りました。

しばしば指摘される「義元の貴族趣味」ですが……。

おそらくこうした幼少期に一流の文化人たちと交流をもったことが根本にあるのでしょう。

駿河に帰ってからも、祖母・北川殿の邸宅を改装した善徳院にて、流されてきた公家らと積極的に交流。義元は彼らの影響から文化人として振舞い、戦国大名屈指の教養を身に着けていくのです。

ゲームなどで「麻呂言葉に、白塗りの顔」で表現されるのはこのためでしょう。

勘違いしてはいけないのが、こうした「教養人であること」は戦国乱世といえども重要だったのです。

話を戻しまして。
駿河へ戻った義元のもとに衝撃的なニュースが飛び込んできました。

天文5年(1536年)、今川家当主の座に就いた今川氏輝と、その弟である彦五郎が同日に死去してしまったのです。

いくら氏輝が病弱といえど、弟ともども同日に亡くなるというのは明らかに不審。当然ながら、二人の死をめぐって「自殺説」や「暗殺説」が囁かれてきましたが、今なお具体的な死因は不明です。

ともかく、二人の兄の死により、義元に家督継承のチャンスが舞い込んできたのは間違いありません。

彼の兄のうち象耳泉奨は家督に興味を示さず、もう一人の兄・玄広恵探も、母が優先順位の低い側室(福島正成の娘)だったのです。

例えば、同じ織田信秀の子供でも、側室生まれの織田信広(長兄)に家督は引き継がれておらず、正室・土田御前の実子・織田信長(次男)が継いでますよね。

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しかしながら、義元の家督継承に「待った」をかけた人物がありました。

 

花蔵の乱

義元の当主就任に「待った」をかけたのは、他ならぬ兄の玄広恵探です。

出自的には不利なはずなのに、彼には「兄の自分が優先されるべき」という思いがあったのでしょう。また側室とはいえ、母の生まれが有力家臣・福島氏だったのも影響していると思われます。

義元と玄広恵探。
二人の家督継承争いは、従来「玄広恵探が個人的に反乱を起こした」という、比較的小規模なものだったと考えられてきました。

ところが近年では、福島氏を中心に大きな勢力が敵対しており、「家中を二分するほどの大騒動だった」という見直しが進んでいます。

なんせ義元の母である寿桂尼が「花蔵(玄広恵探)と同心(心を合わせること)した」というのです。今川家にとっては重要かつ複雑な一大事件でした。

両者の対立は、後に【花蔵の乱】と呼ばれる戦いに発展。壮絶な御家騒動が始まりました。
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