文春新書『「馬」が動かした日本史』の著者、蒲池明弘と申します。
同書では、五世紀にはじまる日本列島の馬の歴史から、さまざまな話題を紹介。
武士の歴史とのかかわりにも注目し、以前は以下の記事を掲載させていただきました。
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武士は「馬に乗った縄文人」だった?文春新書『馬が動かした日本史』
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本稿では『「馬」が動かした日本史』の中から、信長、秀吉、家康にまつわる記述をピックアップして紹介させていただきます。
成田空港は幕府の巨大牧場の跡地にある
本文紹介のまえに、家康に関する補足的なトピックをひとつ。
千葉県の成田空港の敷地はもともと、徳川幕府が管理する馬の放牧地の一画であった──という話です。
戦国の三英傑のうち、いちばん馬とのかかわりが濃密であったのは家康だと思います。
古流馬術のひとつ「大坪流」を学んでいたことはよく知られていますが、『「馬」が動かした日本史』でクローズアップしているのは、千葉県にあった巨大な幕府の牧場の歴史です。
千葉にあった幕府牧場の始まりには不明なことが多いものの、家康の時代にさかのぼるとも考えられています。
江戸時代の地図を見ると、千葉県北部(下総国)の五分の一に近い土地が馬の放牧地になっているので、現在の私たちの感覚では理解できないスケールの巨大な牧場です。
徳川幕府の瓦解とともに、幕府直営牧場も廃止。
条件の良い土地は農地や宅地になりましたが、その唯一の例外が、明治政府が国営牧場として受け継いだ「御料牧場」(千葉県成田市)です。
「御料牧場」は明治時代以降、西欧の畜産技術を導入するための国立の畜産試験場であるとともに、皇室のための牧場でもあり、一般の人たちには桜の名所としても親しまれていました。
しかし、首都圏では希少なまとまった面積の国有地であったため、戦後の高度成長期、新しい国際空港の建設が計画されたとき、その用地に選定されます。
江戸時代から続いていた牧場としての歴史はそこで終わりました。
江戸時代からの歴史に結びつく牧場が、一九七〇年代まで存続していたことは貴重な歴史であったといえます。成田空港の近くには「三里塚御料牧場記念館」があり、江戸時代、明治時代からの牧場の歴史を伝えています。
じつは、成田空港の近くには、シンボリ牧場をはじめ、競走馬を育成する牧場がいまも残っており、江戸時代の牧場の面影をかすかに伝えています。
現在の成田空港には馬の歴史の気配は皆無ですが、今度、成田空港を利用されるときは、そこが幕府直営牧場の一区画であったことを思い出してほしいものです。
ここからあとは文春新書『「馬」が動かした日本史』からの本文抜粋となります。
武田騎馬部隊vs織田鉄砲隊
鎌倉幕府の滅亡後、南北朝時代の混乱期を経て、室町時代が始まる。
室町幕府は京都を拠点としたが、西日本の武士が築いた政権ではない。将軍家である足利氏はもともと、栃木県足利市を拠点とする東国の武士だ。河内源氏の支流でもある。
室町時代、全国各地を支配した守護大名にも足利氏の血縁者が多かった。室町幕府によって、朝廷の政治機構はさらに空洞化が進むのだから、室町時代は東国武士の勢力拡大期と評価できる。
関西に拠点を置いた武士政権は、足利氏のほか、織田信長、豊臣秀吉、平安時代にさかのぼれば平清盛のケースがある。
京都を起点として東西を決めるなら、いずれも東に本来の拠点があった。信長、秀吉は尾張国(愛知県)の人、平清盛の一族は伊勢平氏といい、伊勢国を拠点として勢力を拡大した歴史をもつ。
日本の歴史のなかで西日本の武士が全国に支配を及ぼし、政権を樹立することはなかった。
それに類似した事例を無理やり探しても、日向国にはじまる神武天皇の東征伝説、薩摩藩、長州藩を中心とする西国の軍隊が幕府を倒した明治維新しかない。
明治維新をめぐる動乱期には、軍艦や近代的な大砲も出現していた。もはや馬は軍事力の決定要因ではなくなっていた。
室町幕府が求心力を失い、戦国時代に突入したあとも、軍事的な優位が東日本にあったのは明らかだ。
北条早雲(伊勢宗瑞)にはじまり、武田信玄、上杉謙信、徳川家康、伊達政宗。私たちにお馴染みの戦国武将の勢力圏は東日本に偏っている。
軍事力が水田稲作を柱とする農業生産力に比例するのなら、天下の情勢を左右する戦国武将が西日本にもっといてもいいはずだ。
この時代の軍事力の決定要因としては、領国経営の手腕、海外との交易、金銀など鉱山の開発も見逃せないが、依然として馬は軍事力の根幹であった。
その背景にあるのは、火山と黒ボク土の草原エリアである。九州では島津氏が最強の戦国大名であったことも、それを裏付けている。
戦国時代の末期、尾張国の織田信長が台頭し、またたくまに天下に号令する地位を得た。
信長が鉄砲を取り入れたシステマティックな戦術を開発したことによって、従来の騎馬と弓矢の戦術が無力化された──という有名な説は、細部で史実との食い違いが指摘されているが、大きな歴史の流れを言い当てている。
鉄砲を最大限に活用する信長の戦術が発揮された舞台として、史上、名高い長篠合戦。
天正三年(一五七五年)、三河国(愛知県東部)に進出してきた武田勝頼の軍を、織田信長、徳川家康の連合軍が迎え撃ったこの戦いのあと、武田氏は勢いを失い、やがて滅亡に至る。
信長の家臣によって執筆され、史実性が高いとされる「信長公記(しんちょうこうき)」に、織田の鉄砲隊と武田の騎馬部隊のコントラストを描くこんな一文がある。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行てだてにて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。(中略)鉄炮にて待ち請け、うたせられ候へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。
武田軍が騎馬戦術において卓越していたこと、信長軍は鉄砲隊によって迎え撃っていること、武田軍が壊滅的敗北を喫したこと。その三点が読み取れる情報量の多い文章だ。
現在、愛知県となっているエリアは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地である。
平安時代以来、濃密な武士の歴史があるような印象を受けるが、実際は違っている。
京都以外に地盤をもっている名門の武士(天皇家や藤原氏から派生したいわゆる軍事貴族)について言えば、美濃源氏、近江源氏、伊勢平氏が知られているが、尾張源氏、尾張平氏の活躍は聞かない。古代の記録や黒ボク土の分布から見ても、尾張国は馬産地の気配の乏しい地域だ。
「馬の日本史」における信長は、名だたる「名馬コレクター」である。
各地の大名に献上させるだけでなく、甲斐の武田勝頼をはじめ、敗軍の将の愛馬を奪い取ることにも熱心だった。
天正九年(一五八一年)二月、信長は自慢の名馬をお披露目する軍事パレード「馬揃え」を、京都で挙行している。
中国地方で毛利氏の勢力と戦っていた秀吉は不在だが、柴田勝家、明智光秀、前田利家などお馴染みの面々のほか、この翌年の本能寺の変のとき、信長とともに死亡する長男の信忠の姿も「馬揃え」のパレードのなかに見える。
馬には支配者がその権威を誇示する威信財としての一面があるが、「馬揃え」はその典型である。いかにも信長らしい豪華絢爛たるイベントだ。
馬一頭に苦労した若き日の豊臣秀吉
尾張出身のもうひとりの天下人、豊臣秀吉。茶の湯、能楽をめぐってはいくつもの伝説的逸話を残しているが、馬については淡泊だった印象がある。
最も秀吉らしいエピソードを、「祖父物語」という江戸時代初頭に書かれた文献から紹介してみよう。
織田信長に仕えるようになってしばらくしたころ、秀吉はその働きぶりが評価され、この次、美濃国に出兵するときは馬に乗って良いと許される。秀吉は馬を持っていなかったので、母方の伯父である焼き物商人の家に行って、馬を貸してくれと頼んだ。
ところが、この伯父は秀吉の武家奉公を快く思っていなかったようで、「お前のような者が親類にいるのは迷惑」と言って馬を貸そうとしない。それで、秀吉は姉の嫁ぎ先(義兄)から馬を借り、馬を引く従者もいなかったので、この人にその役回りをしてもらったという。
この義兄はのちに豊臣家の二代目の関白となる豊臣秀次の父親。史実としての保証はない逸話だが、たぶんこんなことがあったのだろうなあと思わせる。少なくとも、馬に乗って戦陣に赴くことが、一人前の武将のステイタスだったことが実感できる。
一頭の馬を借りるのにも苦労した秀吉が、おびただしい数の馬を朝鮮半島に渡らせ、中国の明みんを巻き込んだ大戦争をくりひろげるのだから、急展開の人生だ。
ごく短い期間とはいえ、秀吉軍が朝鮮半島の一部を軍事支配した理由については、
①当時の日本は戦国時代で戦闘になれていた
②大量の鉄砲が日本側にあった
③朝鮮王朝は文人支配の政治で武人の地位が低かった
ことなどが指摘されているが、本稿の視点からは、朝鮮半島には馬が乏しかったという事情を加えることができる。
戦国時代における日本と朝鮮半島の馬の頭数はわからないが、序章で述べたとおり、近代の統計では、日本のほうが四十倍多いのだから、大まかな見当はつく。
馬の保有数が軍事力の根幹であることは、この時代にも当てはまる。古代から近代に至るまで、日本が朝鮮半島に対して有していた軍事的な優位は、馬の保有数によって説明できる部分が多いのではないだろうか。
徳川家康の馬飼い理論
徳川家康は信長、秀吉と同じく、現在の愛知県の出身だ。
しかし、信長、秀吉が名古屋市近辺(尾張国)で生まれ育ったのに対し、家康は岡崎市(三河国)の生まれで、豊田市の山あいにある松まつだいら平郷が一族発祥の地である。
尾張国と三河国の風土の違いはよく話題になるが、尾張国に有名な馬産地はなく、三河国にはあった。
三河馬(三州馬)という種類の馬がいて、馬市も開かれていたが、江戸時代の末期には衰退していたようだ。明治時代になって軍馬の育成がもてはやされたころ、馬産地の再興が図られている(堀江正臣編『三河馬盛衰記』)。
愛知県新城市の山寺である鳳来寺には、家康の母が祈願して、家康をさずかったという伝説がある。
それによって江戸時代、手厚く保護されたが、奈良時代よりも前からの歴史を有している。この寺のある鳳来寺山は、千五百万年ほど前に活動した太古の火山としても知られる。
河内源氏のルーツの地にある二上山と同じ時期に活動しており、「二上火山帯」の最も東にある死火山だ。三河国には火山的地質があり、馬産地の背景となっていることがわかる。
家康については、馬の飼育をめぐる逸話が伝わっている。
京都の伏見にいたころだというので、秀吉の在世時かその死から間もないころ。家康の屋敷の馬屋はほかの大名のものに比べると、目立って貧相だった。
その馬屋が破損したので、この際、立派な馬屋に建て直そうという話が家臣の間で持ち上がったのだが、家康は雨漏りを防ぎ、壁の崩れを補修するだけで良い、それ以外、手を付けるに及ばないと命じたのだ。
そのときの家康の言葉はだいたいこんな内容だったと伝わっている。
「このあたりの大名屋敷の馬屋を見ると、実に清潔で、夏は蚊遣火をたき、冬は布団をきせ、大豆、糠をたくさん与えるから、よく太り、色つやも良い。そのような飼い方では、二、三日、野陣につなぐだけで、病気になってしまう。屋外とさして変わらないような、粗末な馬屋で飼っているわが家の馬とぜいたくな馬屋で飼っている馬、どちらが戦場で役に立つか考えてみるがよい」(『徳川実紀』所収『厩馬新論』/「東照宮御実紀附録巻二十」)
馬はもともとユーラシア大陸の乾燥地帯に適応した動物だ。
雨の日が多く、季節ごとの温度差も大きい日本は、馬にとってけして快適な環境ではない。その自然環境に負けない、強い体質であることが、良い馬に求められる最初の条件である──。
武士と馬の関係にとって最も大切なことをこの逸話は物語っている。教訓的な要素もあり、史実かどうかはわからないが、家康がこうした考えを持っていたことは十分にありうることだ。
日本最大級の牧場が千葉県に出現した
一定の面積の土地における経済活動で、どれだけの収益をあげることができるか。
そうした「土地生産性」の発想は、人間の歴史とともに古い。流行らない食堂の経営者が店を閉じて、その場所でコンビニ店のオーナーに転身すれば、「土地生産性」は向上する。
江戸時代、日本国内の馬の飼育頭数は百万頭を超えていた。古代にあったような希少価値は完全に失われたことになる。物流や農業における利用など、馬が活躍する場面は増えていったとしても、馬の産地に巨万の富がもたらされるような時代は遠く過ぎ去った。
古代からの馬産地であった関東でも、江戸時代の馬牧の記録はあまり見えなくなる。
江戸の近郊では、馬を飼うより、コメや野菜を作ったほうが儲かったからだろう。「土地生産性」をめぐるわかりやすい話だ。
その例外が、江戸幕府が千葉県北部に設置した巨大な放牧地である。
左ページの地図4は、幕府直営牧場の領域を示している。江戸時代半ばの地図をもとに、千葉県が復元したものだが、下総国(千葉県北部)の五分の一くらいを放牧地が占めている印象で、にわかに信じられないような広さだ。
下総地方の西のほうに小金牧、東のほうに佐倉牧があり、それぞれ五区画、七区画に分かれていた。牛も飼育されるなど、少し性格は異なるが、県南部にも嶺岡牧という幕府の牧があった。
正確な統計がないのではっきりしないが、幕末期の飼育頭数は小金牧千頭、佐倉牧三千頭、嶺岡牧千頭と推計されている(大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』)。
一か所あたりの飼育頭数でいえば、佐倉牧はこの時期、国内最大級の牧場である。ただ、東北、九州とは違って、江戸時代の千葉県には民間の馬牧がほとんど見えないので、純粋の馬産地とは言いがたいところがある。
現在、幕府馬牧の広大な跡地には、新京成線、東武野田線が走っているが、駅名を見ると、三咲駅、五香駅をはじめ、数字のついた駅名が多いことに気づく。明治時代、幕府の広大な牧が廃止され、農業地にする開墾を始めたとき、開墾の時期の順番で、数字の地名が十三まで付けられたからだ。
初富(はつとみ=鎌ケ谷市)
二和(ふたわ=船橋市)
三咲(みさき=船橋市)
豊四季(とよしき=柏市)
五香(ごこう=松戸市)
六実(むつみ=松戸市)
七栄(ななえ=富里市)
八街(やちまた=八街市)
九美上(くみあげ=香取市)
十倉(とくら=富里市)
十余一(とよいち=白井市)
十余二(とよふた=柏市)
十余三(とよみ=成田市、多古町)
十三の数字地名が物語っているのは、馬が群れているだけで、地名のない原野がこれほど広がっていたことだ。
歌川広重の連作浮世絵「富士三十六景」に、「下総小金原」という牧の風景を描いた一作がある。
馬の半身を前景に配した奇抜な構図で、遠方に小さな富士山が見える。
広大な原野に生えている樹木はわずか二本。実景の正確な描写ではないとしても、下総台地にはこうした木の少ない草原が広がっていたのだろう。
江戸から成田や水戸に向かう街道に沿って、馬牧があったので、江戸時代の旅行記や文学作品にも題材を提供している。
若草に背中をこする野馬(のうま)かな──。
小林一茶が詠んだのは、のどかな牧の情景だ。
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