栗山利安(栗山善助)

栗山利安(栗山善助)/wikipediaより引用

黒田家

官兵衛の右腕だった栗山利安(善助)81年の生涯と息子・大膳の理不尽な追放劇

1631年9月10日(寛永8年8月14日)は黒田官兵衛の忠臣として知られる栗山利安(善助)の命日です。

大河ドラマ『軍師官兵衛』で濱田岳さんが演じたことで戦国ファンにはお馴染みかもしれません。

劇中で印象的だった、三家臣の一人ですね。

この三人のうち、最も有名なのが母里太兵衛でしょう。

豪傑・福島正則との酒の飲み比べ勝負に勝ち、天下三名槍のひとつ・日本号を手にした――そんなド派手エピソードでお馴染みです。

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しかし、です。

地元福岡では栗山の名が一つ抜きん出ております。

なぜなら善助が官兵衛を救っただけでなく、息子の栗山大膳は「黒田52万石を救った」として今なお尊敬されているからです。

本日は栗山利安を中心に、父子の活躍を振り返ってみましょう。

栗山善助/wikipediaより引用

 


栗山善助(栗山利安)16歳で仕官し17歳で初陣

栗山利安(以降、ドラマに準じて善助)は、天文19年(1550年)生まれとされております。

天文20年説もありますが、いずれにせよ1546年生まれの官兵衛の4~5才歳下となり、相談しやすい側近といったところでしょうか。

呼び名は四郎右衛門、あるいは備後守とも。

播磨国生まれで、栗山氏は代々赤松氏の家臣でした。ドラマ『軍師官兵衛』では、栗山村出身の農民出身とされています。

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官兵衛に士官したのは永禄8年(1565年)のこと。

翌年には17才で初陣を飾っており、さらに永禄12年(1569年)、83石を拝領して馬物具を与えられています。

このころ主君の官兵衛は櫛橋光(くしはしてる)を妻に迎えており、1568年に長男・黒田長政が誕生しておりますので、善助も共に喜んだことでしょう。

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1577年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国攻めが始まり、官兵衛は姫路城の本丸を提供。

上月城攻めや佐用城攻めを行っておりますが、善助も官兵衛について播磨各地を転戦しておりました。

そのまま秀吉の中国攻めが順調に進めば、もしかしたら善助の名前も大きく注目されることはなかったかもしれません。

というのも天正6年1578年、別所長治織田信長に反旗を翻し、続けて荒木村重が裏切ったのです。

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有岡城に幽閉された官兵衛を救い出す

村重の謀反は黒田家にとっても善助にとっても、命運を左右する一大事となりました。

というのも、村重の説得に向かった官兵衛が監禁され、そんなことは露とも知らぬ信長から、黒田家の人質・長寿丸(長政)に対して殺害命令が下されたのです。

黒田家臣団の将来をも左右する大ピンチ。

留守を守る官兵衛の家族や家臣たちは、一致団結して家を守ることを決意しました。

善助も留守職中連署起請文に名を連ねております。

これは言うほど簡単ではありません。

なんせ、ほかならぬ黒田家の主君・小寺政職が織田を裏切って毛利家に従うことを決め、あろうことか官兵衛の殺害依頼を村重に送っていたのでした。

最初から、説得など通じるハズもなかったのです。

結果的に長寿丸(長政)は竹中半兵衛の機転で命を救われ、そして1579年、ついに善助らは有岡城の戦いで勝利。

善助は、官兵衛救出で重要な役割を果たし、天正8年(1580年)には、2百石に加増されました。

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その後の善助の活躍は、官兵衛や秀吉と共にあり、

と戦い進み、迎えた1582年、本能寺の変が起きました。

大きなイベント続きで善助のエピソードを目にする機会はありませんが、本能寺の変後の【中国大返し】で官兵衛は、毛利家を警戒するための殿(しんがり)を務め、明智光秀との直接対決となった山崎の戦いでも戦功を挙げております。

官兵衛の補佐である善助も同様に活躍したことでしょう。

 


朝倉郡に1万5千石の所領

黒田家といえば、母里太兵衛や後藤又兵衛の武勇が知られますが、善助も負けてはいなかったのでしょう。

その後の天正15年(1587年)、島津義久島津義弘と対峙した【九州征伐】でも活躍。

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黒田家が豊前国に入ると、善助の役割は増し、6千石にまで加増、家中を任されます。

頭脳も優れていたとされ、ついに黒田家を代表する重臣になったのです。

官兵衛の隠居後は、長政を支えました。

朝鮮出兵にも従い、【晋州城の戦い】にも参陣しています。

関ヶ原の戦い】では、官兵衛に従い、豊後国に出兵。西軍・大友義統と戦いました【石垣原の戦い】。

ここでも武功をあげた善助は、戦後、長政が筑前国に移封された際に、朝倉郡に1万5千石の所領を与えられました。

筆頭家老として、名もあれば実もある、そんな活躍ぶりでした。

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