佐々成政/wikipediaより引用

織田家 信長公記

佐々成政53年の生涯をスッキリ解説!信長の側近から秀吉の反逆者へ

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100万石になる家あれば、歴史の彼方に葬り去られる一族もある――。

武士の興廃がハッキリ分かれた戦国時代。
その中でも反骨の気魄を見せながら散っていったのが佐々成政でしょう。

徳川家康の決定に異を唱えるため、あの時代に【真冬の飛騨山脈】を越えるという、自殺行為なエピソードなんかは戦国ロマンの一つですよね。

秀吉に対抗する武将としてフィクションにも度々登場しております。

では、史実の佐々成政とは一体どんな武将だったのか?
さっそく振り返ってみましょう。

 

佐々成政は信長側近「黒母衣衆」

佐々成政の生年は、正確な年月日は残されておらず、天文五年〜八年(1536〜1539年)頃と考えられています。
1534年生まれの信長より少し下の世代ですね。

他の戦国武将の多くと同様、彼の祖先について詳しいことはわかっていません。
ただ、少なくとも父の代から織田家に仕えておりました。

稲生の戦い(1556年)】や【桶狭間の戦い(1560年)】など、信長が若い頃の戦にも、佐々成政は兄二人とともに参加したとされています。

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しかし、これらの戦で兄たちが相次いで戦死したため、永禄三年(1560年)に佐々成政が家督を継ぎ、比良城主となりました。

その後は信長vs斎藤龍興の「森部の戦い」などで戦功を挙げるなど、織田家の成長と共に出世を果たし、永禄十年(1567年)には黒母衣衆くろほろしゅうの一員にもなっています。

「母衣衆」というのは、この場合、信長直属の使番のことです。
佐々成政が所属していた黒母衣衆と、前田利家などが務めていた赤母衣衆がありました。

この二つの部隊、正式な立場はほぼ同格でした。
しかし実際は、黒母衣衆のほうが年長者が多く、心情的にはこちらのほうが上に見られていたようです。

他の織田家家臣が
「黒母衣衆の人たちは覚えてるけど、赤母衣衆のほうは誰がいたんだかよくわからない」
などと述べたこともありました。

まぁ、単に、その人にとっての印象の差かもしれませんが…。

母衣(ほろ)というのは古くからある武具の一つで、鎧の背中側に幅の広い布をつけ、風でふくらませるものです。
背後からの弓や投石による攻撃を防いでいました。

戦国時代には赤や黄色など、目立つ色の母衣が好まれるようになり、それ故に使番の装備として定着したのです。
そういう大事な役目に抜擢されたということは、信長の信頼が厚かったということにもなりますし、成政も日頃から主君をリスペクトして付き従っていたことが窺えますね。

母衣のイメージ(室町時代以降は布を広げるための骨組みも作られた)

 

織田家の主要な合戦で活躍する

永禄十一年(1568年)。
信長は足利義昭を室町幕府の将軍にするために上洛しました。
その頃から成政も、自分の部隊を率いるようになっていきます。

1551年に家督を継いだ信長は、尾張一国を治め、隣国美濃を奪うまで約17年もの月日を要しました。

しかし、上洛後は、周囲の警戒心も強まったようで、合戦に継ぐ合戦の日々。
特に足利義昭が信長に反旗を翻し、織田家が四面楚歌になってからは、佐々成政も戦地へ駆り出される日常を送ります。

姉川の戦い(1570年)】や【長島一向一揆(1570-1574年)】、【長篠の戦い(1575年)】など、信長の主要な戦に多く参加しました。

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特に鉄砲隊をうまく指揮したといわれていて、長篠の戦いでは鉄砲奉行という役を任されています。
この時代、”奉行”というのは”係”と似たような意味です。

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佐々成政ら、屈強な家臣団の活躍だけでなく信長の強運もあってか。
1573年に武田信玄が没すると、四面楚歌だった織田家の周辺もようやく落ち着き、1575年長篠の戦いで次代の武田勝頼を完膚なきまでに叩きのめすと、織田家のはいよいよ他国への本格的侵攻を進めて参ります。

成政もご多分に漏れず、天正三年(1575年)9月から、北陸方面の責任者となった柴田勝家の目付役として、越前に赴任することとなりました。

北陸方面軍の司令官・柴田勝家/wikipediaより引用

 

手取川の戦いでは痛い目に……

北陸方面へ出向くこととなった佐々成政。
いわば勝家の与力みたいな役割でもあり、同じく任じられた前田利家・不破光治と合わせたこの3名を「府中三人衆」とも呼びます。

ここからしばらく成政は、勝家・利家・光治と行動をともにしておりました。
北陸での戦いが落ち着いていたときには、畿内へ呼び出されて、本願寺との石山合戦や荒木村重の討伐、そして荒木一族の処刑なども行っています。

天正五年(1577年)には、上杉謙信と織田軍が戦ったことで有名な【手取川の戦い】にも参加しました。

この戦いは、能登畠山氏の家臣・長続連ちょうつぐつらから
「上杉軍に抵抗するため、織田家の力を借りたい」
という要請があったもので、信長が応じました。

柴田勝家や佐々成政を含めた北陸諸将を中心に大軍を送り、上杉軍と激突したものです。
参加した武将は他に、羽柴秀吉豊臣秀吉)や丹羽長秀、稲葉一鉄、前田利家など、そうそうたるメンバーが揃っておりました。

しかし……。

【五行でわかる手取川の戦い】

・進軍の途中でなぜか秀吉が勝手に離脱

・そもそも能登畠山氏の城(七尾城)が織田軍到着前に陥落してしまった

・織田軍が知ったのが、よりにもよって手取川を超えた直後だった

・しかもそれが上杉軍にバレ、文字通り背水の陣で攻め込まれた

・運悪く手取川の水位が上がっていて溺死者多数で大敗

織田軍にとっては最悪の事態が重なり、千人以上の戦死者・溺死者を出して惨敗してしまいます。
主だった将に被害がなかったのは、不幸中の幸いというところでしょうか。

イラスト/富永商太

いずれにせよ、以降、上杉謙信との真っ向勝負は避けられず、柴田勝家と共に佐々成政も正念場――というところで、またしても織田信長の強運が発揮されます。

上杉謙信が亡くなったのです。

手取川の戦いからわずか半年、1578年3月のこと。
かつて三方ヶ原の戦いで徳川織田連合軍をフルボッコにした武田信玄がその4カ月後に亡くなったことを彷彿させるような、織田家にとっては絶好のタイミングでの死でした。

 

佐々成政も本能寺によって運命が激変させられる

天正八年(1580年)から佐々成政は、越前ではなく越中で一向一揆や上杉家を相手に戦いました。

これらの戦功によって越中半国を与えられ、富山城を居城とし、大規模な改修を行っています。
上杉家対策と上方での用事をこなしながら、緊急時には兵を動かすという忙しい状態でしたが、なんとかうまくやっていたようです。

なお、このころの上杉家は、御館の乱を制した上杉景勝と直江兼続のコンビが中心となって国を動かしております。
謙信に比べたら、格段にラクな相手だったことでしょう。

こうしてほぼ順調に出世してきた成政。
その生涯は、突如の出来事により急変します。

天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発しました。

変が起きたとき、佐々成政は他の北陸担当諸将とともに魚津城(魚津市)を攻略しておりました。

城が落ちたのは6月3日。
おそらく、変のことが彼らに知らされたのも、この日以降のことでしょう(4日〜6日という説があります)。

戦には勝ったものの、当然のことながら北陸諸将は動揺しまくりで、なかなか方針が定まりませんでした。
成政も何人かの武将と口論になったようです。

結局、一度は上杉家への攻勢を中止し、それぞれの領地へ戻ることになります。

明智光秀は近江のどこかに駐屯しているだろう。ならば大坂にいるはずの丹羽長秀たちと連携して、挟撃するのがいい』

柴田勝家がこのように考えていたようなので、佐々成政や他の北陸諸将の中でも、この計画に参加予定の者もいたかもしれません。

実際には中国大返しを成功させた豊臣秀吉が、6月13日の山崎の戦いで明智軍に勝ち、光秀も落ち武者狩りに遭って自害しておりました。

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なんだかムカつく利家の能登へ攻め込んで

”主君の仇討ち”という最大の発言力を手に入れた豊臣秀吉。
他の織田諸将は、徐々に抵抗する術を失っていきます。

佐々成政は中央での政治的争いにはあまり首を突っ込まず、越中一国を平定するために動いていたので、権力欲はあまりなかったのでしょうか。
かといって、そう簡単には秀吉傘下に降るものでもありません。

まず、信長の次男・織田信雄や徳川家康が小牧・長久手の戦いで秀吉と軍事衝突したとき、佐々成政は呼応して兵を挙げました。
秀吉方となった前田利家の管轄する、加賀・能登のいくつかの城を攻めています。

実は以前から、成政と利家には少なからず因縁がありました。
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