『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用

織田家

佐久間信盛(織田家の重臣)はなぜ信長に追放された?“退き佐久間”の最期

【人物概略・佐久間信盛

生没年は1528-1582年。織田信秀をサポートし、その嫡男・織田信長にも仕えた織田家の重臣である。

信長が尾張を統一する前からよく補佐し「退き佐久間」と呼ばれて一時は筆頭家老として重宝された。

しかし、後述するように不手際が続き、織田家を追われたあとは不遇な晩年を過ごす。

没年は、くしくも本能寺の変と同じ1582年だった。

大河ドラマ『麒麟がくる』では金子ノブアキ氏が演じている。

 

器用に卒なくこなすタイプの佐久間信盛

信盛の生まれた佐久間家は尾張の土豪といった感じの家柄で、織田信長の父・信秀と協力関係にありました。

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その縁で信盛も幼いころの信長に仕え始め、家督争いなどでも信長方についています。

また、殿(しんがり・撤退の際、最も後方で敵に近い位置になる部隊)を得意としたことから「退き佐久間」とあだ名される戦上手でもありました。

当然信長の信頼も厚く、桶狭間の戦いや各地での一向一揆など、主だった戦にはほとんど参加しています。

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いわゆる「股肱の臣」というやつです。

それでいて武辺者というわけでもなく、信長の長女・徳姫が家康の長男・信康に嫁ぐ際に付いていったり、機内の実力者・松永久秀と交渉して味方につけたり、外交も任されていました。

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一芸に秀でているというよりは、なんでも器用にこなすタイプというほうが近いでしょうか。

その辺、同じく織田家臣の丹羽長秀を彷彿とさせるかもしれません。

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が、時が経つにつれて、信盛はその信頼を裏切るような行動をいくつかやらかしてしまいます。

 

自分だけ無傷だった三方ヶ原

一つ目は、あろうことか信長の最大の協力者・徳川家康の危機に関することでした。

元亀三年(1572年)、家康が武田信玄とぶつかりあった【三方ヶ原の戦い】で、織田家の援軍として戦場へ向かった佐久間信盛は、戦場でほとんど活躍することなく退却しておりました。

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そもそも織田家から派遣された援軍が信盛をはじめ水野信元や平手汎秀(ひらてひろひで)など、わずか3,000だったため、信長としては「信玄との直接対決を控えるよう、家康を監視するため佐久間らを送ったのではないか」という指摘もあります。

そう考えると、信盛はほとんど味方に損を出さず「退き佐久間」の異名通りの働きをしておりました。問題はないはずです。しかし……。

このとき信盛と共に織田家から派遣された平手汎秀が討死してしまったのが痛かった。

信長の爺やこと平手政秀の子(あるいは孫)とされる汎秀です。

汎秀は、猪突猛進タイプの武将で、三方ヶ原でも無茶な戦いの末に討死したとされますが、信長にとっては大事な家臣が死ぬ気で槍働きをしていたのに、それを見捨て、自分の部隊だけ無傷というのはさすがにバツが悪いものでしょう。

『テメーだけ逃げたな!?』

そう思われても仕方のない場面です。

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そして二つ目の失態は、朝倉義景を追い詰めるときのことでした。
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