信長・秀吉・家康の三英傑に気に入られた戦国武将を一人挙げよ。
そんな問題がクイズに出されたら、真っ先に書きたいのがこの方。
永禄七年(1565年)12月29日に生まれた池田輝政です。
父は信長の乳兄弟として知られる池田恒興。
その次男の時点で、戦国武将としてはラッキーな生まれとも言えますが、その後も不思議と秀吉や家康に重宝されていく生涯を送ります。
こうなるともはや運だけではないでしょう。
権力者に好かれる何かを「持っている」のではなかろうか。
もしかしたら現代でも通用してしまう?
そんな池田輝政の生涯を振り返ってみましょう。
※池田輝政は、生涯のほとんどが「照政」表記でしたが、現代で慣れ親しまれた「輝政」で統一させていただきます
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池田輝政は織田家一門に準ずる生まれ
前述の通り、池田輝政は永禄七年(1565年)12月29日、池田恒興の次男として生まれました。
父の恒興は織田信長の乳兄弟です。
当然ながら織田家との繋がりは濃く、輝政も父や兄(元助)と共に信長へ仕え、天正七年(1579年)に荒木村重が謀反を起こして以降、たびたび記録上に名前が出てくるようになります。
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村重が妻子を捨てて逃げ込んだ先、花隈城の戦い(天正八年=1580年)では、輝政自ら荒木方の武士を5~6人も討ち取り、信長から感状を与えられました。
感状というのは、主人が
「お前はこの日・この時・この場所で、これこれの手柄を挙げたことを証明する」
という証明書のようなものです。
言わずもがな、武士の功績というのは戦場での手柄で決まります。
当時は映像や画像で記録することができませんから、書面に記録することで手柄を証明したわけです。
万が一、何らかの理由で他家へ仕えることになったときも、感状があれば有利に仕官することができました。この場合は現代でいう履歴書や、資格の証明書に近いイメージになりますね。
このときの戦功については『信長公記』でも
「池田元助・輝政の兄弟は15~6歳の若年ながらに、比類なき手柄を挙げた」
と記録されています。
『信長公記』とは、その名の通り織田信長の功績や逸話を後世に伝えるために書かれたものですので、他の武将について感情的な表現をされているのは珍しいケース。
著者である太田牛一も、次世代を担う若者の活躍に感じ入ったのでしょう。
甲州征伐からの本能寺
天正年間(1573~1592年)は、信長の息子世代が徐々に元服し、戦場へ出始めた時期でもありました。
信長にしても嫡子・織田信忠へ家督継承を済ませていましたし、池田家のように、家臣たちの家でも若い世代がどんどん戦場へ赴いています。
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天正十年(1582年)2月には、池田輝政も兄と共に甲州征伐へ参加していました。
武田勝頼を滅ぼした一連の戦で、父の恒興は摂津の留守居役に残っています。
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順当にいけば輝政も、そのまま信忠を支える重臣の一員として名を残していたことでしょう。
しかし、です。
この年6月2日、織田家に大激震が走ります。
本能寺の変です。
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ご存知、明智光秀が本能寺の織田信長に襲いかかった一大謀反であり、わずかな手勢で光秀の大軍に囲まれた信長は敗死。
輝政の父・恒興は【中国大返し】によって上方に戻ってきた羽柴秀吉と合流し、【山崎の戦い】に臨みました。
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恒興は信長の乳兄弟であり、その母(輝政からみて祖母)の善応院は信長の乳母になりますから、織田家の親族に準ずる立場です。
それを味方につけたのですから、この時点で秀吉は織田家内での序列を一段高めたといっても過言ではありません。
長久手の戦いで討死寸前
山崎の戦いで勝利を得た秀吉は、次に迎えた【清州会議】でも池田家を重宝します。
織田家の将来をめぐり柴田勝家と羽柴秀吉が覇権を争ったこの話し合いで、
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北条軍に敗れた滝川一益の代わりとして池田恒興を参加させ、流れを有利に運んだのです。
【清州会議メンバー】
・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・池田恒興
結果、信忠の息子であり信長の孫にもなる三法師が織田家の跡取りに決定。
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徐々に拡大していく秀吉の発言権に対し、危機感を抱いた織田信孝・柴田勝家はついに挙兵し、【賤ヶ岳の戦い】で羽柴軍と衝突しました。
輝政や池田家の活躍について、ここで特記されることはありません。
しかし、ずっと秀吉サイドにいたのは間違いなく、賤ヶ岳の戦いに勝利した後も加増され、
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程なくして起きた戦いで池田家は重大なピンチに陥ります。
天正十二年(1584年)3月に始まった【小牧・長久手の戦い】です。
と、その戦いを見る前に、一気にここまで来た流れを、いったん年表で整理しておきましょう。
【天正10年/1582年】
①本能寺の変
↓
②秀吉の中国大返し
↓
④山崎の戦い(秀吉vs光秀)
↓
③清州会議
↓
【天正11年/1583年】
④賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)
↓
【天正12年/1584年】
⑤小牧・長久手の戦い←NOW
本能寺の変から2年。小牧・長久手の戦いで池田家がピンチになったとは何事か?
というのも父の池田恒興と兄の池田元助が、同時に戦死してしまったのです。
小牧・長久手の戦いは、約8ヶ月に及ぶ大戦ながら、実際に激しい戦闘が起きたのは長久手の戦いぐらいで、その他のエリアでは睨み合い・小競り合いが続く耐久戦でした。
そんな戦況で焦りが募ったのでしょう。
序盤でヘマをした森長可と池田恒興が「家康の背後をつき、本拠地の三河を攻めましょう!」と秀吉に提言。
いわゆる【中入り】という戦術を強行したところ、これが家康にバレてしまい、長久手の地で迎撃を受け、父と兄が討死してしまったのです。
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輝政も長久手の戦いに参加しており、一時は父と兄の後を追って斬死しようとしていたとか。
激情的なエピソードが他にない人物ですが、さすがに父と兄を同時に失い、冷静ではいられなかったのかもしれません。
このときは家臣が「お父上と兄君は討ち死になさったのではありません、先に戦線を離れておいでです!」と強弁し、半ば無理矢理に輝政を逃した……なんて説もあります。
いずれにせよ輝政は、すぐ下の弟・長吉と共に戦線離脱に成功し、この後の池田家を二人で支えていくことになります。
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