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【荒木村重】
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秀吉に仕えてからもドン引きの言動
【本能寺の変】で信長が斃れるまで(1582年)。
村重は尾道に隠れ続けていたと考えられています。
信長の死後は堺に移り、千利休に茶の湯を学んで、その縁で豊臣秀吉へ仕えました。
秀吉からしても、あまり気持ちの良くない相手だったでしょうに……。
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村重も改心していたとは言われますが、その後、妻子に起きた悲劇など知らぬ存ぜぬ、と言わんばかりの言動も伝わっていて、どうにもモヤモヤした気分にさせられます。
例えば、高山右近がキリシタンであったことから、右近だけでなく小西行長を讒訴して秀吉に叱責されたり。
秀吉の留守中に秀吉の悪口を言って、北政所(秀吉の正室・ねね)にバレて逃げ出し、出家したり。
現代人から見てもドン引きですが、当時の人だって呆れ果てたでしょう……。
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ただ、やはり当人は悪運が強かったのか、信長が亡くなると、村重を処罰するための正当な理由もなくなります。
そのため誰も処刑しなかっただけのことであり、ほとんどの人は近寄りたがらなかったのでは?
天正十四年(1586年)5月4日、村重は堺で亡くなっています。享年52。
この態度からすると、どこぞで恨みを買って殺されたのではないか……と思ってしまいます。
せめて妻子らの処刑の直後に出家し、菩提を弔って余生を過ごすなどをしていれば、自責の念も見えようというものですが。
村重謀反の理由は?
村重謀反の理由は、前述の通り現代になっても不明なままです。
ざっと候補をまとめると、以下のような説があります。
・信長の側近と軋轢があったから
・黒田孝高と結託し、信長を暗殺しようとしていたから
・佐久間信盛や羽柴秀吉が西日本での重要な作戦を任されるようになり、将来に希望が持てなくなったから
・摂津の国衆や百姓が織田家の方針を嫌ったため、織田家から離反したほうがうまく統治できると考えたから
他、絵本太閤記などに少々感情的な理由が挙げられていますが、ここでは割愛。
また、徹底的に追跡された村重の子孫ですが、わずかに生き延びた人もいました。
俗説の類を除くと、有岡城落城の際、善兵衛という村重の幼い息子を細川忠興が預かり、手元で育てて細川家臣にしています。
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なぜ細川家が信長の目を免れたのかは、定かではありませんが……有岡城の件の前に、村重は妻の一人である明智光秀の娘を送り返していますので、これが関係あるかもしれません。
忠興の正室は、今日でも有名な光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)。つまり、村重と忠興は明智氏を通して相婿の関係です。
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また、忠興が信長に気に入られていたことも、目が届きにくかった理由かもしれません。もしもバレれば、忠興だけでなく父・藤孝、そして細川家全体が危なかったでしょうね。
後半生を知れば知るほど、苦虫を噛み潰したような顔になってしまう人物。
それが荒木村重です。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)