池田恒興

池田恒興/wikipediaより引用

織田家

池田恒興は信長の躍進を支えた乳兄弟で重臣だった 49年の生涯まとめ

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池田恒興
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小牧・長久手の戦い

勝家に勝利し、ますます勢い盛んとなる秀吉。

織田家の権力簒奪に奔走すると、天正12年(1584年)、今度は信長の次男・織田信雄と対立します。

信雄は父の同盟者だった徳川家康を味方につけ、大きな後ろ盾を得ました。

一方、上方にいた秀吉は西国の将を中心に自陣に加え、さらには美濃の諸将へも手を伸ばしていました。

三河駿河遠江を本拠地にする家康にとっても美濃は重要なエリアであり、恒興もまた双方から誘いを受けていたようです。

秀吉につくか、それとも家康か。

恒興は、娘婿の森長可と共に秀吉を選びました。

圧倒的軍勢の秀吉を敵に回すのは危険と判断したのか?と思ったら、なんでも家康との戦いに勝利したあかつきには、尾張一国を与えられる予定だったとか。

恒興と元助が犬山城を攻略すると、家康と信雄は小牧山に陣取り、砦や土塁による長期戦を辞さない構えを見せます。

秀吉も後から合流しましたが、小競り合いが繰り返されるばかりで、なかなか小牧山城の攻略までは至りません。

ならば……とばかりに恒興が献策します。

「家康の本拠である三河を攻め、背後をついてやろうではないか」

いわゆる【三河中入り】であり、まさに大河ドラマ『どうする家康』でも注目されたばかりの戦術ですね。

中入りで三河攻め! 秀吉vs家康の激突は奇襲から 日本史ブギウギ171話

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池田恒興は、森長可を従え、堀秀政や総大将の羽柴秀次らと共に岡崎の攻略へ。

しかし、これが家康に見破られてしまうという最悪の展開を迎えます。

背後をつくのは戦術の基本でもあり、家康ならば当初から予測していてもおかしくはなかったでしょう。

周辺地域の農民などからも情報を得ていたようですし、同時に斥候(偵察部隊)も用いたはずです。

 

次男・輝政は難を逃れ

かくして恒興たちは長久手の地で徳川軍と戦闘。

恒興は鞍に銃弾を受けてしまい、馬から落ちたところに徳川軍の永井直勝の槍を受け、討ち死にしたとされています。

天正12年(1584年)4月9日のことでした。享年49。

元助も同じく徳川家臣の安藤直次に討ち取られてしまっています。

安藤直次
家康の側近・安藤直次は地味だけど武功凄まじ~恒興と長可を討ち取る

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池田家の記録では、二人の討ち死にを知った家臣たちが追腹を切り、二十人以上も後追いしたとか……。

しかし次男の池田輝政は、家臣に説得されて戦線を離脱。

同じく参戦していた三男・池田長吉も、なんとかその場から離れることに成功しました。

当時の池田家にはまだ幼児だった四男の池田長政もいましたが、一歩間違えれば一族全滅の大惨事になるところです。

小牧・長久手の戦いの後、秀吉は恒興の母・養徳院へ宛てた手紙の中でこう記しています。

「恒興殿と元助殿が討ち死になされたのは非常に残念ですが、輝政殿と長吉殿が無事だったのは不幸中の幸いでした。

養徳院殿も善応院殿とともに彼らを支えてくだされば、恒興殿のご供養にもなるでしょう。

私も残された二人を取り立てるつもりです。

今は多忙のため直接お話できませんが、ひとまずお見舞いに浅野長政を向かわせます。

いずれご挨拶に参りますので、昔語りでもできればと思います」

秀吉は恒興個人だけでなく、池田家全体に一目置いていたからこそ、このように丁寧な書き方をしたのでしょう。

冒頭で述べたように、養徳院は信長の乳母でもありましたし、後述するように秀吉にとっても縁戚でしたので、その影響もあると思われます。

また、恒興の長女・せん(森長可の正室)には「女性ばかりの鉄砲隊を200人率いていた」という話もあります。

となると、その母(恒興の妻)である善応院の気性も推して知るべし……といっては失礼でしょうか。

最後に恒興の他の娘たちについても触れておきましょう。

 

女性が強い池田家

次女の若政所は天正11年に羽柴秀次(豊臣秀次)の正室として嫁いでいました。

夫婦仲に関する逸話が特にないので、問題もなかったのでしょう。

秀次といえば後の切腹により、妻子がことごとく処刑された連座事件も頭をよぎりますが、若政所はそれ以前に離縁されていたせいか、亡くなっていたようで難を逃れました。

秀次に連座して処刑された継室は、菊亭家出身「一の台」という女性です。

若政所本人の詳細はあまり伝わっていないので、比較的おとなしい感じの女性だったのかも知れません。

三女の天球院には、強烈なエピソードが伝えられています。

彼女は山崎家盛に嫁いだものの、何らかの理由で夫婦仲が悪く、子供もいませんでした。

そして関ヶ原の戦いで家盛が三成に圧迫されてやむなく西軍につくと、妻の天球院にこう告げます。

「人質として大坂城に入ってくれ」

状況的にはやむないことでも、日頃から仲の悪い夫にそんなことを言われれば腹が立つものでしょう。

しかも家盛は、自分の側室やその間に生まれた子供、そして義兄である池田輝政の正室・督姫(家康の娘)を逃していたそうで……。

日頃冷たくしている正室の天球院にだけ「人質になれ」とはあんまりな話です。

だからでしょう。激怒した天球院は、兄・輝政の城に行ってしまったのだとか。

彼女には化け物退治をしたという逸話もあり、心身ともに強い感じの女性だったようですね。

徳川四天王で有名な本多忠勝が後年話したところによると、

「自分たちの若い頃は人手が足りず、女も戦場に駆り出されたものだ。

男は血の匂いをかいだだけで具合を悪くするような情けない奴もいたが、女は毎月のことで血に慣れている者が多いのか、肝が座っていた」

なんて話もあり、戦国時代の女性が強いのは池田家に限ったことではないのでしょう。

だからこそ、実質的な女城主や女性武将の話が多く伝えられているはずです。

こうして見ると恒興個人にとどまらず、池田家全体に視野を広げて捉えたほうが面白いかもしれませんね。

実際、息子の池田輝政も生き残って活躍し、以降の池田家はさまざまに形を変え、現代まで存続していくことになります。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
武部健一『道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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