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【原田直政(塙直政)】
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法隆寺のトラブルとは
閑話休題。
実は直政が、戦で功績を上げたという記録はありません。
元亀年間は、織田家の戦国史が大きく動いた期間です。
浅井長政と決裂した【金ヶ崎の退き口】や【姉川の戦い】、そして足利義昭との最終決戦となった【槙島城の戦い】、はたまたその直後に行われた浅井・朝倉との決着など、多くの合戦が行われました。
しかし、戦場で華々しく直政の名が出てくることはありません。
軍事的には馬廻衆の一員だったようで、その代わりに政治・外交面では立場も向上していたのでしょう。まだ足利義昭との対立が決定的ではなかった元亀四年(1573年)初頭には、信長と義昭の間で使者を務めています。
ただ残念なことに二回目の使者に行こうとしたところ、眼病を患い、松井友閑らに代わられてしまいました。
眼病は深刻なものではなかったようで、すぐに職務に復帰。
義昭との関係を改善するため直政は、信長が差し出そうとした人質(信長の息子)に付き添い、上洛します。
この人質提出は義昭との交渉が決裂したために成立しませんでしたが、直政には次の仕事がありました。
法隆寺の東寺・西寺の争いです。
戦国史ではあまり注目されませんが、法隆寺内では「学侶」と「堂衆」の対立が発展し、数十年にわたって険悪な関係が続いていました。
「学侶」というのは、仏教関連の学問や祈祷に専念する僧侶のこと。公家や武家などのうち、身分の高い家から僧侶になった人が多数派でした。
一方の「堂衆」は、学問の他に寺院の運営や実務も担当する僧侶です。学侶よりも身分の低い家の出身者が多かったとされています。
いかにも対立が生まれそうな構図ですね。
学問も実務も寺院にとっては大切な存在ですが、法隆寺では東寺と西寺における役割が明確ではなく、戦乱の最中にどんどん険悪になってしまったのでした。
そんな折に信長が上洛し、畿内随一の勢力を築きつつあったことで、東寺・西寺双方から訴えが届いたのです。
信長は双方に担当者をつけて問題解決を図り、直政は東寺担当の一人となりました。
長年に渡りこじれた問題ですから、もちろんそう簡単には決着しません。ただ、難問を任された直政の立場が相応のものだったことは明確ですね。
光秀や貞勝らと共に山城守護へ
元亀四年(1573年)4月、足利義昭と信長は一時的に和睦を締結。
義昭の側近から信長の家臣たちに向けて、起請文が提出されました。
その宛先が直政と滝川一益・佐久間信盛の三人になっており、やはり当時の直政が重要な立ち位置とみなされていたことがわかります。
しかし程なくして義昭は【槇島城の戦い】に敗れて京都から追放され、浅井・朝倉両氏が滅びると、直政は織田家吏僚(官僚)としての面をさらに強めていきます。
大舞台としては、天正二年(1574)3月に信長へ蘭奢待切り取りが許されたとき、奉行の一人に任じられたほどです。
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切り取り自体は3月27日に行われたのですが、直政は21日から現地に赴いています。事務手続きや諸々の手配を受け持っていたのかもしれません。
ほか岐阜にやってきた津田宗及に信長の命令を伝えたりもしています。
仕事をきちんとこなしてきたことが評価されたのか、直政は同年5月、山城守護に抜擢されました。
任地は槙島城。義昭が追放直前に立てこもっていた場所です。
守護という名ではありますが、直政の職権は山城全域ではなく、宇治川以南に限られていました。これは京都市中の政務が村井貞勝に任されていることからもわかります。
そのため、直政は宇治川以南の国人たちに本領安堵などをしており、京都市中のことについては実権がなかったと思われます。
余談ながら、山城北部については明智光秀が支配権を持っていました。
山城では北から
・光秀
・貞勝
・直政
というように、主な担当者が分かれていたのですね。
桂川以西については細川藤孝が支配権を持っていたため、彼との関わりもたびたびみられます。
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人の多い場所ほど、政治的な対立だけでなく、日常のトラブルや訴訟も多くなるもの。
信長は、彼ら四人の職権が及ぶ範囲を限定することで、できるだけスムーズな政務処理を狙ったと思われます。
大和国の守護も兼務することに
天正三年2月、直政は大和国の守護も兼務するように命じられました。
その直前に信長は、細川藤孝宛てに「石山本願寺との戦に備え、丹波の地侍を動員するように」と命じていますので、直政の大和守護就任も石山本願寺対策の一環でしょう。
といっても、大和は非常に複雑な土地です。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも【松永久秀vs筒井順慶】の対立が描かれておりましたが、もともと大和は興福寺その他の有力門徒たちが武装化・乱立していたという特殊な土地です。
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彼らの所領を強引に奪おうとすれば、本願寺と同時に大和全体と敵対することになり本末転倒。
そこで信長は、直政に所領よりも軍事指揮権を多く与えました。
筒井氏はこのころ(元亀二年)すでに織田家に従っていましたので、妙に刺激しなければ従わせることができる……と考えたのでしょう。
大和における最大勢力の筒井氏が従えば、その他の国衆も倣います。
松永久通(久秀の息子)も、後述する天王寺合戦の際、直政の麾下にいましたので、直政の下に置かれていたようです。
もっともこの大和では後に松永久秀が謀反を起こし、最悪の結果となってしまうわけですが……。
天正三~四年にかけては、信長の命で高屋城など河内国内の城を破却したり、徳政令や寺院への連絡などもしています。
河内については、佐久間信盛が支配権を与えられるまで、暫定的に信長直属といった状態でした。そのため、河内の隣国である大和守護となった直政が、一部の職務を受け持っていたようです。
その一方で、天正三年5月21日の【長篠の戦い】では、鉄砲奉行も務めています。
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これは佐々成政・前田利家といった、著名な武将と並ぶ役目でした。
直政のこれまでの立場からすると、大部隊を率いて前線に立ったのではなく、小さな部隊を一つ指揮するか、あるいは鉄砲の手配や整備などを主に受け持ったところでしょうか。
直政を俯瞰して見てみると、大舞台で華やかな活躍をするタイプではありません。
そのぶん物事の隙間やつなぎ目にあたるような部分を器用にこなせたようで、いわゆる縁の下の力持ち的な重要な立ち位置です。
ゆえに権利の複雑な大和や河内で要職を任ぜられたのでしょう。
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