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【原田直政(塙直政)】
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興福寺大乗院の前で一揆衆を虐殺
天正三年7月、信長は自分の官位昇進を断り、主だった家臣に官位や賜姓を願い出ました。
『信長公記』には載っていないのですが、このとき直政も備中守の官職を授けられたと考えられています。
この時期を境に、文書上で「原田備中守」と呼ばれるようになるからです。
他には武井夕庵や松井友閑なども、このときに官職を授かっていました。信長にとって、直政が彼らと並ぶ重要な家臣であったということが、ここからもわかります。
少々苛烈な手段を取ることもありました。
同じく天正三年8月、信長が越前一向一揆討伐のため出陣した際、直政も従ったのですが……。
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この頃、大和の興福寺大乗院の僧侶・尋憲(じんけん)が、現地へやってきていました。
大乗院の領地が越前にあったので、信長に安堵してもらおうとしたのです。
尋憲は信長に自領安堵の件を話した後、大和守護を兼任している直政にも挨拶。このとき直政は、尋憲の目の前で、200余人におよぶ一揆衆の首をはね始めたといいます。
もちろん尋憲は驚き、止めにかかりました。父の二十五回忌にあたる日なので、殺生をやめてくれるようにと頼んだとか。
この話だけ見ると残酷に思えますが、これまでの織田家が一向一揆にいかに手を焼いてきたかを考えると、厳しく釘を差しておくのもやむを得ないところがあります。
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ここで反抗的な者を取り逃がせば、いつか再起されてしまう。そのたびに出陣していてはきりがなく、いずれ織田政権そのものが崩壊しかねません。
強引な手段を使ってでも悪循環を絶たなければ、解決できない問題でした。
直政がただ残酷な人物だったのなら、ここで尋憲の願い出など一切聞かずに一揆衆を皆殺しにして、さらには尋憲も殺していたかもしれません。
そうなれば興福寺との関係や心証も悪くなっていたでしょう。
しかし、この翌年にあたる天正四年2月、直政は興福寺の薪能を見物しています。その他にも支障は出ていないので、大きな問題にはならなかったと思われます。
その後の直政は、多聞山城の修築などを行うなど、大和守護の役目も無難にこなしていました。
前述した法隆寺の東寺・西寺の争いについても引き続き関わっており、松井友閑が法隆寺方の訴えに対し、
「大和のことはまず原田直政の意向を聞くように」
と告げたこともあるほど。
松井友閑もまた地味ながら、外交における信長の右腕のような人ですから、その彼に信用されていた直政の能力も高いものだったと言えるでしょう。
派手な合戦と違い、日常の政務能力は記録に残りにくいので、憶測の域を出ないのがもどかしいところです。
しかし……。
近畿支配の一角を担ってきた直政ですが、天正四年(1576年)に突如、最期の時が訪れます。
石山本願寺との戦いで戦死
天正四年4月、信長は石山本願寺への攻撃を本格化。
直政も、荒木村重・細川藤孝・明智光秀らと共に本願寺包囲の一角に加えられました。
本願寺の南にあった天王寺砦を修築し、ここを拠点として戦に臨んだのです。
石山本願寺と信長が対立して既に6年ほど経っており、これほど問題が長引いた主な要因をピックアップしますと……。
1.石山本願寺自体が堅牢な要塞である
2.河川と近く、水路・海路からの補給や援軍の受け入れが容易である
3.足利義昭や浅井・朝倉氏など、反信長勢力と連携していた
4.長島や越前などの一揆衆にも指示を出しており、信長が石山に専念できないようにしていた
すでに3と4の問題については解決済みであり、いよいよ1と2、つまり最終決戦に取り掛かろうという場面でありました。
毛利からの補給線を絶ち、石山本願寺でこれ以上の籠城戦をができないように厳重な包囲を敷くという戦術です。
そこで信長は、直政と三好康長に敵拠点の一つ・三津寺の攻略を命じました。
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かくして天正四年5月3日、直政は大和・山城衆を率いて三津寺攻撃を開始。
和泉・根来衆を率いた康長が先陣を務めました。
これに対し、本願寺方は1万もの兵と数千丁の鉄砲で迎撃します。
本願寺には傭兵集団として知られる雑賀衆の鉄砲部隊がおり、大河ドラマ『麒麟がくる』でも光秀がその恐ろしさを語っていましたね。
彼らの攻撃は想定以上に激しく、まもなく三好康長軍が崩れてしまいます。
当然ながら直政軍もこれを支えようとします。
が、両軍共倒れとなってしまい、その混戦の最中に直政も討死したといわれています。
他の織田方も多くが戦死し、勢いづいた本願寺軍は逆に天王寺砦を包囲しました。
この砦に残っていた光秀らが援軍を要請し、急遽、信長自らがやってくるのですが、それはまた別のお話。
問題はその後です。
信長から数々の非情な処置
信長は、直政の一族郎党に対して苛烈な処置を下します。
まず直政の腹心だった丹羽二介・塙孫四郎が、罪人として捕らえられました。
さらには、大和の筒井順慶に命じて、直政や縁者から預かった物を提出させたり、彼らに宿を貸すことを禁じるといった命令が出されるのです。
なぜこのような非情な処理がなされたのか?
残念ながら明確な理由はわかっていません。
織田家は石山本願寺に散々苦汁をなめさせられているので、その怒りが向かったか。
直政の家臣が捕らえられ、預かり物の没収が命じられていることから、そこに何らかの因縁があったか。
あるいは、石山本願寺の攻略に手こずった佐久間信盛も後に追放という憂き目に遭いますので、やはりその辺りでしょうか。
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その一方で、直政の息子は生き残ったという話が伝わっています。
真偽の程は不明ですが、名を安友といい、父の死後は信長の下を離れていたそうです。
本能寺の変後、佐々成政・豊臣秀吉・田中吉政といった人々の下を渡り歩き、最終的には江戸で医者になっていたとか。
父が討死し、主家を離れたおかげで生き残れたと見ることもできてしまいますね。
吏僚に近かった直政がいきなり最前線に出されたことや、死後の処置など、なんともすっきりしないところがあります。
新史料発見の余地がある……と考えることにしましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
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