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【中川重政】
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宗教とカネ
例えば目をヨーロッパや幕末に向けて考えてみます。
あるいはヘンリー8世とカトリック。]
いずれも資金力豊富な勢力に対して権力が絡んでいった事例です。
日本でも、幕末の新門辰五郎親分に注目。
テンプル騎士団は、利子を取って「金貸し」をすることができ、カトリックは免罪符での収入がありました。
新門の親分は、寺銭で床が抜けるほど。
メイクマネーは、古今東西、どこでも非常に重要な存在です。
特に宗教権威ともなれば、全国のネットワークを考えれば資金力はダントツ。
襲撃すれば金があるだけではなく、うまみのあるビジネスチャンス(荘園)を獲得できるのです。
信長と比叡山の対立も、どうしたってお金が見えてきてしまう。
そしてそのことをハッキリと浮かび上がらせているのが、中川重政の運命でした。
戦国時代だって、金銭トラブルは危険です
比叡山焼き討ちにより、丹羽長秀と重政に御料所舟木荘が与えられました。
宗教的な意味がある土地であり、ただの加増ではありません。
ともかく収益の高いおいしい加増だったのです。
それは丹羽長秀という、信長に重宝された家臣と共に与えられていることから、中川重政への期待の高さもご理解いただけるでしょう。
しかしそれだけで済まされないのが、辛いところです。
元亀3年(1572年)、重政と柴田勝家の間に、長命寺の中間銭を巡り争いが起きていたことが確認できます。
この小競り合いが、徹底的な決裂を引き起こします。
同年8月、重政の実弟・津田隼人正が、勝家の代官を斬殺してしまったのです。
非を咎められた兄弟は、揃って改易となり、重政は剃髪して土玄と名乗りました。
以降、彼の名は、信長周辺の記録から消え去ります。
かなり時が進んで天正7年(1579年)、茶会に参加した記録はありますが、かつてのように合戦や内政でその名を連ねることはありませんでした。
本能寺の変後は織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは犬山城の守備で池田恒興に攻略され、その後は、史料に名を見せなくなるのです。
利家の婿は重政の子
では、中川家はそこで滅びてしまったのか?
というと、そうではありません。
前田利家の婿である中川光重は、重政の子とされています。
数多の一族が戦国史に登場しては消え去っていく時代。
加賀藩に仕えたとなれば、はるかに恵まれているように思えます。
ただし、信長が飛躍していった時期の織田家トップ10に入っていた中川重政が、土地争いを発端にフェードアウトしてしまったことは確か。
討死でもなければ、出奔でもなく、金銭トラブルで干されてしまった。
なんとも悲しい運命の一人といえましょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
『国史大辞典』
他