大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題となった桶狭間の戦い。
今川義元の首を取った毛利新介(良勝)と共に戦場へ繰り出した服部小平太(春安・一忠)を覚えているであろうか?
義元へ一番槍をつけたのは小平太だった。
しかし翌日の論功行賞では新介だけが褒美を与えられ、小平太のことなどすっかり忘れ去られていたが、先の展開を考えれば、もう少し注目しておいても損はないだろう。
なぜならこの小平太、秀吉のもとで「黄母衣衆」に取り上げられ、その後、3万5千石の大名にまで大出世!
そうかと思えば、最終的に切腹へ追い込まれる、なかなか浮き沈みの激しい運命を背負っているのだ。
一体なぜそんなことになったのか?

歌川豊宣『尾州桶狭間合戦』/wikipediaより引用
史実における服部小平太の生涯に注目してみよう。
一番槍の評価は?
服部小平太の生まれは尾張津島村の服部氏とされる。
父は服部平左衛門(康信)。
織田家内でのポジションは、毛利新介と同じく信長の馬廻衆だった。

歌川豊宣『尾州桶狭間合戦』/wikipediaより引用
しかし、桶狭間の戦いで実際に首を取った新介がその後「黒母衣衆」の一員となり、さらには信長の側近へと出世していくのに対し、小平太にはそうした形跡が見られない。
一体どうしたことか?
『信長公記』には、小平太が「最初に義元へ斬りかかり、逆に膝口を斬られて倒れた」ことが記されている。
そしてその後に毛利新介が「義元を斬り倒して首を取った」と続く。
義元の体力が、最初の激しい戦闘で奪われた可能性は高い。
ならば小平太も評価され、織田家で出世してもよさそうが、そうならなかった理由は不明。
ただ、そのために新介は本能寺の変で討死という最期を迎え、小平太は豊臣政権のもとで大名になるのだから運命というものはわからない。
桶狭間の戦いの詳細については別記事「図解でわかる桶狭間の戦い」へ譲り、この先は小平太が歩んだ道を見ていこう。
親兄弟三人で出仕
桶狭間の戦いから1年後の永禄四年(1561年)5月14日、織田家と斎藤家の間で「森辺の戦い(森部の戦い)」が勃発した。
前田利家が、「首取り足立」こと足立六兵衛を討ち取ったことで知られるこの一戦。
利家は、信長お気に入りの茶坊主を斬った一件で出仕停止を言い渡されていたが、勝手に戦へ参加し、そして今回の活躍で復帰を許された。

前田利家/wikipediaより引用
ゆえに森辺の戦いといえば利家ばかりが注目されるのだが、敵の荒武者を討ち取った武将は他にもいる。
『信長公記』に記された以下の三名だ。
・恒河久蔵(つねかわきゅうぞう)→日比野清実を討ち取る
・河村久五郎→神戸将監(かんべしょうげん)を討ち取る
・服部平左衛門→長井甲斐守を討ち取る
注目は最後の服部平左衛門――実はこの名前、本記事の中ですでに一度出てきている。
そう、服部小平太の父親だ。
つまり当時は親子で出仕していた時期であり、他にも弟の服部小藤太(ことうた)が信長の馬廻衆にいた。
(父)服部平左衛門
(兄)服部小平太
(弟)服部小藤太
なお、義元への一番槍は小藤太という説があり、さらには家督も弟の小藤太に譲られたというから、もしも事実であれば穏やかではない状況も浮かんで来そうだ。
そんな三人の運命を激変させたのは天正十年(1582年)6月のことであった。
三万五千石の松坂城主
天正十年(1582年)6月2日、明智光秀による本能寺の変が勃発。
二条御所の織田信忠と共に毛利新介が討たれたことは前述通り、この戦いで弟の服部小藤太も討たれてしまう。

織田信忠/wikipediaより引用
父・平左衛門について特に記録がないのは、既に老齢で合戦にできないか、亡くなったという状況なのだろう。
では兄の服部小平太は、本能寺の変後はどう生き抜いたか?
というと『信長公記』には何も記述はない。
注目は小瀬甫庵の『太閤記』――そこには秀吉の「黄母衣衆」に選ばれたことが記されている。
「黄母衣衆」とは、織田信長のエリート馬廻衆である「黒母衣衆」と「赤母衣衆」を模倣した部隊であり、秀吉としては「箔をつける」ため小平太を選んだのかもしれない。
実際、秀吉が、織田信雄・徳川家康連合軍とぶつかった「小牧・長久手の戦い」では、撤退戦で戦功を挙げたとある。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
さらには北条氏政・北条氏直親子と対峙した天正十八年(1590年)小田原征伐に参戦。
その翌年加増されて3万5千石の松坂城主にまで出世を果たすと、同地域を支配していた豊臣秀次の傘下に入ることとなった。
豊臣政権での足場を着々と固め、順風満帆にも見える。
しかし、天正十九年(1591年)には、秀吉を支えていた豊臣秀長も亡くなり、政権そのものが危うい道へと歩んでいく。
翌年、秀吉はついに朝鮮半島へ兵を送り込み、文禄・慶長の役が始まったのだ。
秀次事件の連座で切腹
朝鮮と明に多大なる損害を与えるだけでなく、自らの政権基盤も危うくさせていく豊臣秀吉。
せっかく戦火が治まった翌年の文禄4年(1595年)7月、さらに激震が走る。
甥で跡継ぎの関白・豊臣秀次が突然、自害したのである。

豊臣秀次/wikipediaより引用
「秀吉から命じられた」とか「将来に悲観し秀吉に怒りを覚えた秀次が自ら切腹した」とか、切腹に至る経緯は不明ながら、この事件の真の悲劇は“その後”である。
秀次の妻子や家臣などまで処刑――そしてその中に服部小平太も含まれていた。
上杉景勝に預けられた上での切腹であり、子供たちは巻き込まれずに済んでいるが、他に目を向ければ
「まだ秀次に会ったともない輿入り直前の駒姫まで処刑される」
など、あまりに惨たらしい展開には、秀吉の異常性を感じてしまうほど。
果たして『豊臣兄弟』では、どこまで描くのか。
弊サイトでも別記事「駒姫」や「豊臣秀次」にその詳細はあるが、服部小平太はキーパーソンの一人なのかもしれない。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
藤本正行『【信長の戦い1】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(2008年12月 洋泉社)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
【TOP画像】歌川豊宣『尾州桶狭間合戦』/wikipediaより引用

