大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される賤ヶ岳の戦い。
いざ合戦が始まったばかりの頃は、羽柴軍も柴田軍も迂闊に動けず、睨み合いが続いたとされます。
なぜか?
両軍ともに数多の陣を山中に作ったため、攻め込む方が不利となり、双方ともに手を出しにくい状況となったのですね(以下の地図をご覧ください)。

賤ヶ岳の戦い両軍の陣図
しかし、です。
佐久間盛政が中川清秀を討ち取り、戦局を一変させた“大岩山砦”は割とアッサリ陥落しています。
実は、ここに賤ヶ岳の戦いのポイントがありまして。
天正十一年(1583年)3月から4月にかけて、付近の山中一帯では何が起きていたか?
当時を振り返ってみましょう。
図面は立派だが土量は乏しい羽柴の陣城
羽柴と柴田の両軍が、賤ヶ岳に設置した陣城は一体どんな作りだったのか?
堀や土塁、虎口など、当時最新の設計である織豊系城郭の要素は一通り揃っていて、図面を見る限りは非常に立派。
しかし、いざ現地で遺構を確認してみると「なんだか様子がおかしい」と評されるのです。
一体どういうことか?
というと「土塁は薄くて低く、堀は浅くて狭い」など、図面の見た目に対して土の量がまるで足りていなかったりします。
城郭研究者の中井均氏は著書『秀吉と家臣団の城』の中で、縄張りは高度でも実際にそこで本格的な戦争をする気はなく、夜襲を防ぐ程度の軍事機能しかなかった、と指摘しています。
天下分け目の対陣だというのに、本気で守るための造りではなかったというのですね。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
例えば、収容人数からしてそう。
最重要拠点の主郭(しゅかく・本丸のこと)ですら数十人程度で、ほかの曲輪は虎口を守るための空間に過ぎなかったりして、とても大勢が寝起きできる場所ではない。
重臣たちの司令部だけが整備されていて、最初から数万の軍勢を収容する構造ではなかったんですね。
では、大勢の足軽や雑兵はどこにいたのか。
城の外です。
周囲に続く緩やかな山の尾根に数多の小屋が設置され、兵たちはそこで寝起きしていました。
秀吉が弟・秀長に宛てた書状には「小屋を壊す」ような指示が残されていますが、それこそ兵たちの寝床に他なりません。
もちろん、これでは城の守りは万全と言えません。
そこで秀吉が力を入れたのが「惣構(総構え)」でした。
秀吉が本気で築いたのは街道の封鎖線
北国街道が狭くなる場所に「堀と土塁」を築いて街道を通行止めにして、人の往来をストップさせる。
秀吉の狙いは城の守りというより、交通の遮断でした。
以下の地図のように

賤ヶ岳の戦い両軍の陣図
堂木山砦と東野山城の間で一直線に引かれている青い線です。
東野山の山麓には、今も当時の痕跡が残っています。
そして秀吉は4月3日、秀長へこう書き送りました。
【意訳】惣構の堀より外へ鉄砲を撃つことはもちろん、草刈人夫に至るまで、一人も出してはいけない。
【原文】惣構の堀外へ鉄砲放候事ハ不及申、草かりふせいに至まで、一人も出され間敷候事
鉄砲どころか、草を刈りに行くことすら厳禁としています。
※「草」は忍びを指す言葉としても使われますが、ここは馬の飼葉や普請の材料などを指しています
敵を挑発せず、一歩も外へ出るな——迂闊に先制攻撃を仕掛けることを強く諌めているのです。
玄蕃尾城だけが別格な理由
しかし、全陣城の中で一つだけ例外がありました。
柴田勝家の本陣・玄蕃尾城(げんばおじょう)です。

玄蕃尾城の主郭(本丸)
主郭の隅には礎石が点在しており、天守台だったと考えられ、正面と背面には見事な角馬出も設置されていました。
大手側は虎口曲輪を何重にも重ねた複雑な構造となっており、搦手側には主郭より広い扇形の曲輪まで控えている。
土塁も分厚くて高く、前面の横堀は深くて広い。
他の陣城とは、まるで別物……。
なぜ勝家だけが、これほどの城を持っていたのか?

柴田勝家/wikipediaより引用
答えは「清須会議」まで遡ります。
織田家宿老の話し合いにより長浜城を得た勝家は、甥で養子の柴田勝豊を城主に据えました。
しかし勝家の居城・北庄城と長浜城の間にはかなりの距離がある。
そこで両城をつなぐため「繋ぎの城」として玄蕃尾城を建てたのではないか?というのが城郭研究者・中井氏の見解です。
中井氏は、玄蕃尾城のことを近世城郭そのものの縄張りであり、土造りの城として最高峰に近いものと評価しています。
だからこそ不思議なことがあります。
そんな強固な城があるなら、閉じこもって兵数の多い羽柴軍を消耗させればよいのに、なぜ柴田軍の佐久間盛政が打って出たのか?
それは、盛政が奇襲を仕掛けた大岩山砦が、かなり脆弱だったからかもしれません。
脆弱だった大岩山砦
中川清秀が奇襲を受け、討死してしまった大岩山砦。
城郭研究者・高橋成計氏の著書『織豊系陣城事典』によると、大岩山砦の規模は50m×15mというサイズで、賤ヶ岳の主な陣城のなかでは突出して小さいものでした。
土塁が整備されたのは一部だけで、あとは山のかたちのまま陣を張っていたとされます。
隣の岩崎山砦(高山右近)も同様。
山頂の曲輪は東西25m×南北20mほどで、100m離れた場所に17mの低い土塁があるぐらい。
なぜ、この両砦だけ、さほどに脆弱だったのか。
地図をご覧いただければわかりますが、

賤ヶ岳の戦い両軍の陣図
西に賤ヶ岳砦、北には余呉湖と岩崎山砦があり「直接攻撃される危険性は低い」と高をくくっていたのでは?と推測されます。
大岩山砦は、あくまで第二防衛線。
前に第一線があり、西と北も味方と湖で塞がっているため「そもそも敵など来ない場所だよな」と思われていました。
軍記物では大岩山のことを「土塁がまだ乾いていない」とまで書いており、油断しきっていた可能性は否めません。
柴田方は道を重視
ここで再び柴田方の陣城に目を戻します。
玄蕃尾城は立派だったのに、なぜ他の陣城は簡素だったのか。
答えは、七本槍の一人・脇坂安治の家に伝わった古戦場図にありました。
【意訳】柴田勝家の本陣から佐久間盛政の陣までは、尾根づたいに幅三間(約5.4m)の道が通してあった。
【原文】此内中尾山より、行市山の佐久間が陣所あたり一里余りの間、峰通を幅三間の道を造れり
地図の上のほう、勝家本陣・玄蕃尾城と盛政の陣・行市山を結ぶ茶色い線のことですね。
中井氏によると、柴田軍は、山中を大軍で進軍するための軍道確保を重視していたと指摘します。
それを彷彿とさせるのが佐久間盛政の奇襲ですね。
なぜ盛政は、羽柴軍の中でも奥のほうにある大岩山砦へ攻撃を仕掛けることができたのか?
もう一度、地図をご覧ください。

賤ヶ岳の戦い両軍の陣図
秀吉の第一防御ラインは、東野山から堂木山、神明山へと東西に並んでいます。
北国街道を塞ぐ配置ですね。
行市山から大岩山へ最短で向かうには、この両砦の真下を通ることになりますが、敵軍ド真ん中で事実上不可能ですので佐久間盛政は通っていません。
代わりに選んだのが、余呉湖の西岸です。
当時は湖のすぐ際ではなく、山裾のやや高い場所を道が走っていました。
そこから南へ回り込めば、賤ヶ岳の下に出る。
周囲6.7kmの湖を、3分の2ほどぐるりと回る行軍でした。

賤ヶ岳の戦い両軍の陣図
そして、この迂回にはもう一つ仕掛けがあります。
前田利家です。
利家・利長父子は2000の兵を率いて別所山を出ると、神明山砦の西南700mほどの地点「茂山」へ移りました。
ここに壕を掘り、壊した民家の古材を並べて防御壁を築き、堂木山と神明山から敵が押し出してくるのを防ごうとしていたのですね。
そして夜が明けるころ、盛政の軍は尾野呂浜に到達します。
大岩山砦から、真っすぐ下りたところにある湖岸で、砦との高低差は約150m。
佐久間盛政の部隊は、中川清秀の守る大岩山砦めがけて一気に駆け上がり、見事、清秀を討ち取るのでした。
まとめ
賤ヶ岳の戦いで、羽柴軍と柴田軍は数多の陣城を構築。
両軍ともに迂闊に動けなくなり、最終的には佐久間盛政の奇襲が成功するも、美濃から急遽戻ってきた羽柴軍が押し返して、秀吉の勝利となりました。
これにより秀吉の天下取りが大きく進むわけで、城郭研究者の中井氏が「合戦史上最大の築城戦」と評するのも頷けますが、個々の陣に注目すると色々と細かい、意外なことが浮かんできます。
◆陣城は司令部であり、兵は城外の尾根で野営していた
◆秀吉が力を入れたのは街道を塞ぐ惣構(そうがまえ)だった
◆合戦前に築城された柴田勝家の玄蕃尾城だけは別格だった
◆柴田方は城の整備より大軍が通れる軍道を優先した
◆佐久間盛政は塞がれた街道を避け、山を9km回って大岩山を急襲した
◆大岩山砦は、土塁が一部にあるだけの極めて簡素な陣だった
色々と細かな点を見てきましたが、一番の注目は勝家が築いた玄蕃尾城でしょうか。
戦後は人も入らず手も加えられなかったことから、保存状態はかなり良いまま当時の遺構が残っており、現地を訪れたくなりますね(ただし現地までは徒歩で険しい山道もあり)。
なお、いったん戦場から離れて美濃へ向かった秀吉が、どうやって賤ヶ岳まで戻ってきたのか?という考察記事は以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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秀吉はなぜ賤ヶ岳へすぐに戻れた?大垣から52kmを駆けた美濃大返し
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【参考文献】
- 中井均『秀吉と家臣団の城』(2021年 KADOKAWA)
- 高橋成計『織豊系陣城事典』(2017年 戎光祥出版)
- 楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』(2002年3月 毎日新聞社)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)

