大友家

吉弘鑑理は戦国最強・宗茂の祖父にして大友家を躍進! 豊後三老と称えられ

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【豊後三老】の一角として

永禄2年(1559年)には毛利氏と通じた筑紫惟門が博多を占拠。

これに呼応した国衆たちがまたもや蜂起します。

鑑理(あきただ)もこの鎮圧に参加しましたが、最大8か国の守護職を務める大友家の支配地域ではこうした反乱が頻発しておりました。

詳細は不明ながら、敵対する国衆を鎮圧するため、鑑理が戦場を駆け回っていたのは間違いないでしょう。

永禄元年(1558年)ごろになると、鑑理は大友家家臣の中で最高の役職である「加判衆」の一員に列せられるほどで、評価の高さがうかがえます。

なんせ鑑理は、

立花道雪
臼杵鑑速(うすきあきすみorあきはや)

と並び【豊後三老】の一角として数えられるほど。

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その名に劣らず宗麟の側近として大友家の領土拡大に貢献し続けました。

永禄5年(1562年)には、毛利氏の手に落ちてしまった豊前(現在の福岡県)地域を奪還すべく遠征を敢行し、立花道雪とともに門司城の城兵を多数討ち取るという功績も挙げています。

ただし、このときの敵は謀将として名高い毛利元就。城そのものを得ることはできず、元就の巧みな外交手腕に翻弄され、なかなか講和もまとまりません。

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そうこうしているうちに、宗麟が信頼を置いていた家臣に裏切られるという大きな事件が発生してしまいました。

大友家の岩屋城・宝満城の管理を任されていた高橋鑑種(あきたね)です。

 

立花城を占拠

岩屋城・宝満城の高橋鑑種は、永禄5年ごろから毛利氏と密かに協力関係を築いておりました。

鑑種は目立たぬように周辺勢力の国衆を味方につける工作を進めていたのですが、この知らせを耳にした宗麟は嘆き悲しみます。

この一件で猜疑心を煽られたのでしょう。宗麟はさらなる寝返りを警戒しました。

立花鑑載(あきとし)です。

高橋鑑種に続かれてはたまったものではない。

そう考えた宗麟は永禄8年(1565年)、鑑理と道雪に命じて立花城を占拠させ、立花鑑載の動向を絶えず監視することにしました。

事態が動いたのは永禄10年(1567年)のこと。

高橋鑑種が兵を挙げ、筑紫広門(つくしひろかど)や龍造寺隆信が呼応する動きを見せました。

岩屋城から宝満城に移動して立てこもる鑑種を鎮圧するため、吉弘鑑理・立花道雪・臼杵鑑速の三老全員が派遣され、城に圧力を加えたものの、抵抗は根強く攻め落とすまでには至りません。

すると高橋鑑種の動きに乗じる形で、先に攻め滅ぼしていた秋月文種の息子・秋月種実が挙兵し、鑑理らはそちらにも対応せねばならなくなりました。
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