真田昌幸時代の上田城古図(上田市デジタルアーカイブポータルサイトより)

真田家

第一次上田合戦で昌幸の策略が的中しまくった理由【真田vs徳川】

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第一次上田合戦 真田が勝てた3つの理由

1つ目は徳川方の油断です。

これは徳川家に限らず、大国が小国を攻めるという状況だけでも油断が生じます。

さらに誰もが想定する第一防衛線と考えていた神川に敵兵がおらず、敵の真田は「士気が低い」と考えます。
そしてなだらかな下り坂は物理的に勢いが自然と付きます。

この戦いで徳川方の兵は統率が乱れていたと云われています。
統率を乱して我先にと城へ殺到する心理的要因が、上田に下っていく地形と、それを利用した昌幸の作戦から引き込まれたのではないでしょうか。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160320-9

2つ目は真田家が上田の地形を熟知していたことです。

偶然か、計画的に整備したのか。
真相は不明ながら、砥石城方面から上田城に向かって流れる川が、神川のようにちょうど台地の谷を流れています。徳川方が本陣を置いた国分寺あたりからは完全に死角に入るのです。

谷筋に身を隠して進み、敵本陣を襲撃する戦いで有名なものが信長の「桶狭間の戦い」です。

昌幸に戦史を勉強する機会があったかどうかも不明ですが、まさに桶狭間のときの織田信長のように、真田信幸を密かに進軍させています。

上田城の真田石

最後の一つは砥石城の存在です。
上田城は河岸段丘の要害に築城されたとはいえ、この頃はまだ未完成で、しかも城の正面を変更したばかりで防御力はさほど強化されていませんでした。

それでも上田城で迎え討つ準備ができたのは、要害にして、詰めの城・砥石城が健在だったからではないでしょうか。

砥石城には武田信玄でも落とせなかったという十分過ぎる実績があります。
仮に上田城が奪われても、その西方に複数連なる上杉家の後詰めの城と、北にある砥石城の防御力で、徳川方は苦戦を強いられたことでしょう。

あくまで結果からの推察にはなりますが、上田城の坂下の城という不利な条件を利用し、昌幸は最初から自分自身と上田城を囮に敵を引きつけ、砥石城の別働隊で敵を殲滅する作戦だった気がしてなりません。

この作戦のコンセプトは、第二次上田合戦のみならず、真田信繁による大坂の陣での【真田丸の戦い】でも応用されます。

 

北条の攻撃も退けた真田は秀吉に従属する

真田丸の戦いでは、真田丸の目の前にあった篠山という高台を簡単に敵に占拠させることで油断させ、真田丸に殺到したところを反撃しています。

小諸まで撤退した徳川方は、重臣・石川数正羽柴秀吉方に離反するという重大な出来事もあって、上田攻めを一旦放棄。
真田家に対しては力攻めではなく、懐柔して味方につける戦略にシフトします。

昌幸にとっても、上田と沼田の領有さえ認められれば反抗する意思はありません。

家康は、本多忠勝の娘・小松姫を真田信幸に嫁がせるなどして真田家を味方に抱き込もうとしました。

一方、沼田城に侵攻する北条方の攻撃も退けて、沼田城も死守し続けます。

この後、徳川家康に従属するかと思いきや、真田昌幸は息子の真田信繁(真田幸村)を人質として秀吉の下へ送ります。
これによって、豊臣方の臣下となり、上田&沼田の大名としてちゃっかり列席することになりました。

真田家が一地方の国人衆としてではなく、戦国大名として天下にお墨付きを得たことになります。

しかし結局、係争地とされた沼田城は北条家に割譲。
昌幸にはその支城の名胡桃城周辺しか与えられませんでした。

この後に秀吉小田原征伐の原因となる名胡桃城の事件が起こるのですが、ここは本題ではありませんのでまたいつの日か。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 



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