絵・小久ヒロ

立花・高橋家

立花宗茂―戦国最強と讃えられた猛将 浪人から大名へ復活を遂げる

立花宗茂は永禄十年(1567年)に九州の雄・大友宗麟の家臣だった高橋紹運(じょううん)の長男として生まれました。

月日ははっきりしていませんが、伊達政宗真田幸村真田信繁)と同い年だとされています。
まだ【耳川の戦い】などで大友家が下火になる前なので、将来主家を支える人物として、また長男として育てられました。

が、小さい頃から優秀すぎて、とある人物から目をつけられます。

同じ大友家臣の”雷親父”こと立花道雪。この人については以前ご紹介していますので、よろしければ合わせてご覧ください。

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彼には跡取りになる息子がいなかったので、婿養子を取って家を継がせたいと考えていました。そして日頃から付き合いのあった紹運の息子が素晴らしい、という話を聞いて、ぜひ貰い受けたいと申し出たのです。

高橋家だって跡継ぎがいなければ困りますので、父・紹運は最初この話を断ります。
ですが道雪がその程度で引き下がるはずもなく、繰り返し懇願されてついに承諾しました。気前いいな。

こうして宗茂は立花家に入ることになったのです。ちなみに高橋家は弟が継いで丸く収まりました。めでたしめでたし。

 

雷オヤジの半端なく厳しい教育で10代から大活躍

たぶん高橋家でもそれなりにしつけられていたと思うのですが、立花家に入ってからは”雷親父”の容赦ない教育が始まります。

それでも生来の気性なのか、心臓に毛が生えていたのか、宗茂は「お坊ちゃん気質」ともいうべきいい意味でののんきさを失うことはありませんでした。これはまた後述しますね。

初陣は14歳のときのこと。

立花道雪/wikipediaより引用

実父と義父に後ろ盾されてではありましたが、翌年には城を一つ落とすほどの武将に成長しており、スパルタ教育の成果がうかがえます。
17歳の頃には遠征に向かう人々の留守を預かっていたりと、既に大友家中でも重きを成すようになっていました。

「のんき」とは書きましたが、彼も武将ですから締めるべきところはしっかり締めていて、謀反の兆しがあった家臣は容赦なく粛清しています。この辺のギャップはまさに戦国時代の人という感じがしますね。

 

義父と実父を失い揺らぐ大友家

しかし、道雪が病死し、その翌年紹運が島津家との戦で華々しい討死を遂げると、大友家は少しずつ揺らぎ始めます。

大友家が耳川の戦いでボロ負けした上、

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道雪と紹運の二人を始めとした優秀かつ忠実な家臣が次々といなくなってしまったからです。

そのときの展開を四行でまとめるとこんな感じです。

①実父である高橋紹運の岩屋城と実弟の宝満城が島津3万の兵に囲まれて玉砕

②島津軍はそのまま立花城を包囲

官兵衛らの秀吉軍が九州に渡海したために島津軍は包囲を解き熊本へ撤退

④宗茂は撤退する島津軍をわずか500の兵で追撃し、数百の首を取った上で岩屋、宝満の2城を奪還

苦しい状態の中で父の弔いと功績を挙げたことに対し、主・大友宗麟も感激したようで、豊臣秀吉へ「ウチの宗茂は義理堅くて優秀なヤツですから、ぜひ直接召抱えてやってください」(超訳)とまで言っています。

 

いきなり13万石の大名にレベルアップ

その後、大友宗麟の要請を受け、秀吉が九州征伐へやってくると、その軍に加わり宗茂は再び活躍しました。

直接宗茂の働きを見た秀吉も大喜びし、「宗茂は忠義も武勇も九州一よ!」(超訳、本文は「九州の一物」)とベタ褒め。
この時点で大友家臣ではなく一国の主として認められ、筑後柳川(現・福岡県柳川市)13万石の大名に取り立てられます。

さらには一揆の鎮圧や小田原征伐でも活躍。

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すっかり気に入られて羽柴・豊臣の名乗りを許され、従五位下・侍従という官位も貰えました。

領主としては無難にやっていたようで、領民からの信頼も上々だったためか、朝鮮の役まで彼に関する記録はそう多くありません。

そしてその朝鮮の役では、味方の救出に行って自ら刀が鞘に収まらなくなるほど奮闘し、それを伝え聞いた柳川の人々からも「鬼将軍」とまで言われたそうですが、何故か島津義弘のような悪評は立っていないようで。

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そもそも大陸側の資料に「鬼」と人名が付いた評価はないらしいので、日本の中で故意に義弘を貶めるためアレコレ言い出したのかもしれません。

 

運命の関ヶ原で大舞台に立てず

話を宗茂に戻しまして、その後の大きな出来事といえばやはり関が原です。

秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」とまで評した人物ですから、当然、徳川家康もその武勇を脅威と感じ、東軍へ引き入れようと画策しました。

が、この時点で家康は宗茂に敵視されていたようで、「太閤殿下のご恩を忘れて徳川に付くなんてできません(キリッ」と断られています。直接の交流がどれほどあったかはわかりませんが、たぶん石田三成についてもそんなに悪く思ってなかったんでしょうね。

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ただし……。
大津城という城を攻めている間に関が原本戦が終わってしまい、宗茂が活躍する間もなく趨勢が決まってしまいました。

当然のことながら納得行かず、彼は大坂城へ入って(一応)西軍のトップだった毛利輝元へ「まだやれます!」と進言したのですが、輝元は元々やる気がなかったので無駄足になってしまいました。

こうなると家康が大喜びで処分を決めるのも当然の話で、宗茂は領地を取り上げられて浪人になってしまいます。

一時はお寺に厄介になり、家臣たちが方々で日銭を稼いで主を養っていたといいますから、涙ぐましいというかそこまでさせるほどの人格者であったことがよくわかります。
当時のエピソードとしてこんなものがあります。

 

いくら飢えてもあんまり細かいことは気にしないのだ

その日暮らしをしていた宗茂一行は、当然のことながら食べるものに困ることもよくありました。

そのため少しでも炊いた飯を長持ちさせようと、家臣たちは飯を天日干ししておきました。しかし彼らの留守中に雨が降ってきてしまいます。そのままにしておけば当然濡れてしまって台無しになりますよね。

しかし、留守を預かっていた宗茂は取り込もうとはしませんでした。普通の人ならここで怒りますよね。

ですが家臣たちは「さすがうちの殿! 細かいことはお気になさらない! そこに痺れる憧れるゥ!!」(超訳)と泣いて喜んだといいます。

他にも、家臣が米の消費を少しでも緩やかにするため、粥にして宗茂に出したところ「汁は自分でかけるから、お前たちがそこまで世話を焼かなくてもいい」と言ったなんて話もあります。
どちらも宗茂と家臣たちの心温まる話……なのですが、九州男児の感覚が摩訶不思議すぎる件について(´・ω・`)

宗茂の人柄は敵将だった徳川家の人々にも惜しまれ、多方面で援助を受けることができました。

上記の通り武勇を並び称された本多忠勝は、浪人になっても宗茂についてきた家臣たちと本人をまとめて面倒見ています。もしかすると、頭を冷やす時間を与えて動向を見ようとしたのでしょうか。
そして一年ほど経ってから忠勝の口利きで幕府に仕えるようになります。

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家康・秀忠もこれを認め、近衛隊長のような仕事をした後、陸奥棚倉(現・福島県南部)1万石で大名に復帰させました。
この恩あってか、宗茂は大坂の役では「豊臣家への恩は関が原のときに返しましたし、今の私は徳川家臣です」(超訳)といって秀頼につくことはありませんでした。

 

旧領復活も果たし、島原の乱でも活躍

そして大坂夏の陣から五年後――。
旧領・柳川を再び与えられて文字通り復活します。

関が原の後に許された西軍大名は何人かいますが、宗茂は旧領をそのまま与えられた唯一の例です。
日頃の行いってホント大事ですね。

この辺でだいたいの戦国武将はこの世からお暇するか、悠々自適な隠居生活に入るかどちらかになるのですが、宗茂の活躍はまだ続きます。

なんと寛永十四年(1637年)の島原の乱に参戦しているのです。

既に70歳を超えていたはずですが、城攻めの時には往年と変わらぬ活躍を見せ、若い大名達を大いに鼓舞したとか。また、”知恵伊豆”こと松平信綱にもいろいろとアドバイスしていたそうです。生涯現役にも程があるやろ。

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とはいえさすがに寄る年波にいつまでも抗うことはできず、島原の乱から6年後に江戸藩邸で静かに世を去ったのでした。

彼の人生は決して順風満帆ではありませんでしたが、上記の通りいろいろな面で無敵だった戦国武将として類稀な存在です。

唯一うまく行かなかったのは正室である立花道雪の娘との関係くらいなもので、こちらもいろいろ逸話に富んでいるのでまた改めてお話しますね。

逸話も多いですし人格的にも申し分ないですし、小説や伝記もたくさん書かれているんですがなぜ大河の主役になってないんでしょうか。

戦闘シーンの予算のせい?
それとも巷で囁かれるように半島での活躍が派手すぎたせい?
なお、時系列的に立花宗茂の生涯をまとめた記事は次ページへ!

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