上杉景勝

上杉景勝/wikipediaより引用

武田・上杉家

上杉景勝の生涯|滅亡の危機をなんども乗り越えた謙信の甥にして後継者

2025/04/18

上杉と言えば?

そう問われて「景勝!」と即答される方はかなりの少数派でしょう。

誰だって「謙信」が真っ先に浮かんでしまうものであり、実際、それだけの戦歴を残してきたのも事実です。

しかし、本稿で注目する上杉景勝も、かなり優秀な戦国大名ではないでしょうか。

織田をはじめ、武田や北条、最上、伊達を相手に激戦を繰り返し、一時は120万石という大大名へ成長。

関ヶ原では敗者に落ち、30万石に大減封されますが、それでも米沢藩として家名は残しました。

1623年4月19日(元和9年3月20日)はその命日。

上杉景勝/wikipediaより引用

上杉景勝の生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

上杉景勝 謙信の「政敵」家系に生まれる

上杉景勝は、前述の通り弘治元年(1555年)11月27日、長尾政景の次男として生まれました。

政景は上田長尾氏の当主。

母は上杉謙信の姉として知られる仙桃院であり、出自からして上杉家中でもかなりの地位だったことがわかります。

実際、上田長尾氏は、謙信の出た府内長尾氏に次ぐ勢力であるとされ、政景は坂戸城を拠点に実権を握っていたといいます。

坂戸城は越後でも南に位置しており上野に対する需要拠点ともなりますね。

しかし、府内・上田の両家は最悪の関係に近いものでした。

府内長尾氏
vs
上田長尾氏

政景はもちろん、彼の父である長尾房長の時代から、形式上は府内長尾氏に服従を誓っているものの、隙あらば反逆というスタンス。

実際、謙信が、兄・晴景から19歳で家督を継ぐと、政景は「今だ!」と言わんばかりに反旗を翻し、武力行使にまで出てしまう有様です。

長尾政景と仙桃院/wikipediaより引用

当然、謙信も戦国大名としてこれを捨て置くことはできません。

すぐに自ら征伐に乗り出すと、その決意を悟った政景は即座に「すみません!」と全面降伏。

普通に考えれば、謙信に滅ぼされる場面ですが、許されています。

政景の妻が謙信の実姉・仙桃院であり、彼女の嘆き悲しむ姿を見てとどめを刺さなかった――という話が伝わっています。

こうした美談はなかなか怪しいもので、個人的には謙信がそこまで感情論で動くとは思えません

政景を処断し、上田長尾氏の勢力を敵に回すか。

政景を許し、なだめすかしながら重臣として扱うか。

両者を比較し、政策的な判断で導き出された結果ではないでしょうか。

事実、謙信はこの一件の後、政景を警戒しながらも重用しています。

上杉謙信/wikipediaより引用

こうした状況下で、政敵ともいえる政景の息子として成長していったのが上杉景勝でした。

幼少期からトラブルの香りが漂っており、後年の苦労はもはや宿命だったのでしょう。

 


父の不審死をきっかけに上杉の後継者候補へ

兄は既に他界しており、上杉景勝は実質的に政景の後継者として育てられました。

しかし、彼が10歳の頃、一族を揺るがす大事件が起こります。

永禄7年(1564年)7月4日のことです。

当日、政景は残暑を避けるべく、琵琶島城主の宇佐美定満を招き、野尻池で舟遊びをしていました。

宇佐美定満(宇佐美定行)・歌川国芳作/wikipediaより引用

大いに酒を飲み、ドンチャン騒ぎを楽しんだのでしょう。

二人して池に飛び込んでしまいます。

「酔っ払いの水泳」ですから、すでにピンと来られた方もいるでしょうか。

そう、二人は水から上がってくることなく、そのまま溺死してしまったのです。

この不審死については、さまざまな見解が残されています。

例えば『上杉家御年譜』という史料では、彼らのほかに4人の近臣も亡くなったとし、『国分威胤見聞録』という史料では、溺死した政景に切傷の跡があったと書き残されています。

政景の死は、事故なのか、暗殺なのか。

真相は不明ながら、少なくとも謙信にとっては政敵が消えるという明るいニュースでした。

そして、その後さまざまな「上田長尾氏の弱体化策」を講じ、最終的には坂戸城に直臣を入れて統率し、景勝を本拠・春日山城に引き取ったのです。

謙信にとってこの一件は「上田長尾氏の本拠と後継ぎを手中に収め、彼らを従えた」ことを意味しました。

景勝も非常に可愛がられ、習字の手ほどきを授けた程だったとか。

そして天正3年(1575年)、謙信は景勝を正式な養子とし、上杉の姓を与えて有力な後継者候補に位置づけたのです。

 

御館の乱 始まる

「政敵の息子」から「有力な後継者候補」へ。

一転してジャンプアップした上杉景勝には、後継者の席を巡って、強力なライバルがいました。

上杉景虎です。

景勝と同じく謙信の養子として位置づけられた景虎は、もともと北条氏康の七男であり、上杉氏と北条氏の講和に際して人質として上杉家へやってきました。

北条氏康/wikipediaより引用

問題は、謙信がこの景虎を大いに気に入ったことでしょう。

北条氏からの人質ながら正式に上杉家の養子となり、少なくとも関東管領の職を継がせてOKという意図があったとされています。

そして、その日は突然やってきました。

天正6年(1578年)3月13日、謙信が急死したのです。

謙信には実子が無く、残されたのは二人の養子。

景虎と景勝――どちらが後継者となるか。

謙信が明確に指示することなく亡くなってしまったため、上杉家だけでなく周辺勢力も巻き込んだ一大お家騒動【御館の乱】に発展してしまいます。

先に動いたのは景勝でした。

謙信の死を知るや「義父の遺言」と称して、春日山城の本丸を占拠。

春日山城/wikipediaより引用

朦朧としている謙信に対し、重臣・直江景綱の妻が「家督を継ぐのは景勝か?」と問いかけ、謙信が頷いたことを遺言としています。

真偽の程は……かなりアヤシイですよね。

なんせ、この御館の乱は、ここから約1年も続きます。

「◯◯の乱」というと激しい戦闘をイメージするかもしれませんが、実際はもっとスローテンポでした。

「家督の譲渡自体は平和的に行われた」という指摘もあるほどで、争いが過熱化するのは、上杉家全体と周辺勢力に謙信の死が伝わってから。

家臣団の分裂や外交合戦が本格化し、景勝と景虎のどちらが勝っても、国力の低下は避けがたい状況でした。

 

優位だったのは北条武田を味方にした景虎勢

元々は上杉憲政の居館として建てられ、後に春日山城下で政庁として使用されていた「御館」。

平城ともいえる強固な拠点です。

そこで景虎は上杉家古参の家臣団を取り込み、さらには実家である北条氏や、その同盟国である武田氏などを味方としました。

当初の情勢は景虎が圧倒的優位だったのです。

景勝
vs
景虎(北条・武田)

春日山城で孤立してしまった上杉景勝には、常識的に考えて勝ち目はありませんでした。

だからといって簡単に諦めるわけもなく、ここで方針を転換。

景虎サイドの強力な援軍だった武田氏との関係構築にシフトします。

要は、武田勝頼を自軍へ寝返りさせようと試みるもので、隙は十分にありました。

武田勝頼/wikipediaより引用

勝頼は、景虎への援軍を一向に出さない北条氏に不信感を抱いていたばかりか、長篠の戦いなど度重なる合戦での軍事費に苦しんでおり、景勝の提示した金銭に心を揺さぶられたのです。

かといって、武田にしても、いきなり景勝支持となり、景虎や北条を敵に回すわけにもいきません。

そこで勝頼が選んだのが“和睦”という折衷案でした。

景勝と景虎の両陣営に対し、和睦を斡旋し、強引に成立させたのです。

景勝

和睦案(武田)

景虎(北条)

しかしそんな折、武田は徳川家康の攻撃を受け、勝頼も軍を引き上げざるを得なくなり、和睦はすぐに決裂。

このタイミングで北条氏も、北条氏照に出陣を命じて、景勝方の拠点である坂戸城に攻め寄せます。

以下の地図をご覧ください。

坂戸城は上野(群馬県)から越後(新潟県)に入った山間の地域にあり、そこを抜けることができれば長岡辺りから新潟を目指すこともできる。

春日山城への大事な通過拠点でした。

つまり同時期の景勝は「武田との同盟が成立した!」と大袈裟に喧伝はしていたものの、実質、孤立化していたのです。

景勝
vs
景虎(北条氏照が坂戸城を攻撃)

徳川に攻められた武田は越後から戦線離脱

事態が二転三転してピンチを迎えた景勝。

しかし天は、景勝に味方しました。

季節が冬を迎えつつあったのです。

豪雪地帯の越後エリアで、いったん雪が降り始めれば、今度は攻め込んだ北条氏が退路を断たれ、孤立します。

仕方なく北条軍は10月になると一部の兵を残して関東へ引き上げるしかなく、次は雪解けを待って再侵攻に賭けるしか術はありません。

結果、これまで耐え忍んできた景勝にとって、千載一遇のチャンスとなったのでした。

 


御館の乱後も家中の争い止まず

戦局は、景勝vs景虎の直接対決へ。

本格的な冬を迎え、北条の援軍も期待できない景虎軍は、やがて御館で孤立します。

そして年が明けた天正7年(1579年)、上杉景勝は自らが出陣して士気を高め、将兵不足の景虎軍にとって救世主とも言えた北条景広(きたじょうかげひろ)を討ち取ります。

もはや景勝の絶対的優位は確立されたと見てもよいでしょう。

周辺の支城をことごとく奪還し、最後は総攻撃によって御館を陥落。

和議を申し入れようとした上杉憲政や、景虎の子・道満丸も斬殺しています。

追い込まれた景虎は、関東で再起を図るべく堀江宗親が守る鮫ヶ尾城に入りましたが、時既に遅し。景勝に先手を打たれており、自害となりました。

それが天正7年(1579年)3月17日のこと。

謙信が亡くなったのが天正6年(1578年)3月13日ですから、丸々一年、内紛に費やされたことになりますね。

戦乱はようやく一区切りとなり、景勝は景虎方の残党を処理して戦いを終結させました。

戦後、景勝はこの機会を利用して、直臣である上田衆の地位を向上させ、常に彼らを悩ませてきた強力な国衆の力を弱体化させていこうとしました。

また、自身の側近として「愛一文字」でお馴染みの直江兼続を取りたて、中央集権化による権力の集中を試みます。

しかし……。

越後国内は、とても平和とは言えませんでした。

旧来の家臣たちはこの処遇を快く受け入れられません。

特に不満が大きかったのは、御館の乱で活躍するも、恩賞を与えられなかった新発田重家など。

新発田重家/wikipediaより引用

彼らは源頼朝の挙兵に従った佐々木盛綱を祖としており、あくまで関東管領の上杉氏に従う勢力でした。

新発田氏は、謙信が関東管領の職を引き継いだことで越後長尾氏に仕えたものの、譜代の家臣とはいえない続柄です。

要は、生存戦略として上杉氏に仕えていただけで、その保証が揺らげば、反旗を翻すのも当然でしょう。

しかも、この反乱は上杉家の存亡危機へと発展します。

なぜなら新発田氏の背後には、織田信長がいたのです。

 

新発田重家の乱 背後に信長

実は、御館の乱が勃発する裏で、織田信長は着々と上杉領内への侵入を進めていました。

越後攻略の足がかりとして越中に兵を進め、主に信長と柴田勝家の手で攻略作戦を開始。

織田信長/wikipediaより引用

荒木村重の反乱もあり、一時的に危機は去っていましたが、越中の有力武将・河田長親が病死すると、織田軍は攻勢圧力を強めていきます。

そんな織田家の先にあったのが「敵の敵は味方」理論で結ばれた新発田重家でした。

かくして【新発田重家の乱】が始まります。

景勝の家臣である竹俣慶綱の領土を重家が横領すると、御館の乱で疲弊した上杉家には、その攻撃をしのぐ体力がありません。

しかも、家臣同士の揉め事も絶えず、春日山城で景勝の側近二人が斬り殺される事件が起きます。

家中はまさにバラバラ。

景勝はまたもや追い込まれていきました。

その苦しさが垣間見える記録も残されています。

家臣たちが「今日までなんとか城を守ってきましたが、もはや滅亡の覚悟はできました」と語れば、景勝自身も佐竹義重に送った書状で、以下のように悲壮な覚悟を表しています。

「私は良い時代に生まれました。六十余りの州を越後一国で相ささえて滅亡すれば、死後の思い出にもなりましょう」

周囲の状況も絶望的でした。

天正10年(1582年)3月、あの強力なライバルだった武田氏(武田勝頼)が呆気なく織田家に滅ぼされてしまったのです。

これでは景勝が悲観的になるのもやむを得ないでしょう。

武田に続いて上杉も……。

と、迎えた天正10年6月2日、上杉家にとっては奇跡が起きます。

本能寺の変、勃発。

ご存知のように織田信長が、重臣・明智光秀に攻められ敗死。

明智光秀/wikipediaより引用

上杉領に進出していた織田軍も景勝と戦っている場合ではなくなり、兵を退いていきます。

結果、孤立した新発田重家を討ち取ろうと景勝も兵を挙げますが、裏で糸を引く蘆名氏の支援や、新発田勢の粘り強い抵抗があり、勝負を決めきられませんでした。

 


賤ヶ岳の戦い

それでも信長の死後、事態は目まぐるしく推移します。

織田家の重臣たちは骨肉の後継者争いで加熱し、周辺の諸大名もいずれの味方に付くべきか判断せねばなりません。

簡単に、織田家中を確認しておきますと。

信長の次男・織田信雄と、三男・織田信孝が対立し、それぞれの支持者として羽柴秀吉と柴田勝家が争いました。

柴田勝家(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

景勝は、いち早く秀吉との同盟関係を築き、秀吉・勝家の間で勃発した【賤ケ岳の戦い】では勝者サイドに滑り込みます。

しかし、状況は良好とは言えませんでした。

徳川や北条の勢力が、迫り寄っていたのです。

一方、同盟を結んだ秀吉からは援軍の要請が届きますが、万が一、自国を攻められてはそれも無視するしかありません。

すると、その態度に秀吉が「誓約違反だ!」とブチ切れ。

一時は同盟の白紙撤回を通告されますが、四面楚歌の景勝にとって秀吉との同盟は欠かせないものであり、失態を詫びながらどうにか同盟継続にこぎつけます。

 

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)3月から始まった【小牧・長久手の戦い】でも、当然、秀吉サイドにつき佐々成政と敵対しました。

佐々成政/wikipediaより引用

小牧・長久手の戦いは、実はかなり広範な戦いと言えます。

最前線で睨み合った羽柴vs徳川の当事者だけでなく、全国の諸勢力も参加し、戦いは長きに渡ったのです。

そして同年11月、ついに家康が秀吉への服従を表明。

勢いづいた景勝は、秀吉から新発田征伐の協力を取り付け、天正15年(1587年)にようやく新発田氏を滅ぼし、越後の統一を成し遂げたのでした。

天正6年(1578年)3月に謙信が亡くなってから約9年が経過しており、景勝はようやく一息つくことができたのです。

景勝は、天正16年(1587年)に上洛、秀吉と面会し、羽柴姓や在京料の一万石、従三位の地位などを手にします。

豊臣家臣の有力大名として位置づけられ、後に「五大老」の一角にまでなりました。

秀吉にとっても上杉は大きな存在です。

軍神・謙信公という名門の威光。

それに加えて、実入りも凄まじく、平定した佐渡から兼続を代官として大量の金が秀吉政権に運び込まれています。

秀吉の“黄金好き”を支えていたのは、佐渡の金といっても過言ではないでしょう。

一方、関東で幾度も争いを続けてきた北条氏は、名胡桃城事件をキッカケとする小田原征伐に遭い、滅亡に追い込まれました。

このとき景勝は、北条征伐軍の一員として配下の城を攻略する戦果を挙げ、秀吉の大勝に貢献しています。

北条攻めを通じて伊達政宗も降伏し、秀吉の天下統一事業は完遂されました。

伊達政宗/wikipediaより引用

すると今度は、諸勢力の配置見直しが始まります。

北条氏の遺領である関東へ徳川が鞍替えし、景勝は出羽・庄内の三郡を手にしました。

結果、上杉家は91万石の領地を有する最大規模の大名に成長したのです。

 


家康を激怒させた『直江状』

親秀吉派の大名として石高を増やしていった上杉景勝。

その後も太閤検地や普請工事などに協力し、朝鮮出兵にも付き従いました。

慶長3年(1598年)には会津への移封が決まり、120万石に上る莫大な領土を手にします。

実は会津は、東北の玄関とも言える重要なエリアです。

歴史上の会津は、幕末における会津戦争のイメージが強いかもしれませんが、伊達政宗も執拗にこだわった土地であり、上杉が秀吉からいかに信用されていたかがわかります。

それだけに慶長3年(1598年)8月18日の秀吉逝去は上杉にとっても痛手でした。

ご存知、関ヶ原の戦いまでは2年ほどの期間があります。

その間に各大名と姻戚関係を結んだりして、豊臣政権の五奉行・五大老へプレッシャーをかけていった徳川家康。

徳川家康/wikipediaより引用

当然ながら、その筆頭である上杉家にも家康の触手は伸びてきます。

そして家康のもとに「景勝、叛乱の兆候あり」という知らせが舞い込みます。

家康は「大坂に上って私に弁明せよ!」と景勝に圧力をかけますが、上杉にしてみれば、亡き太閤の約束事を破り、豊臣政権を私有化しているのは徳川のほう。

家康の言葉を無視し、領国の整備に専心します。

それでも一向に引く気配はなく、「お前ら、国内の軍備を整えて戦争するつもりか?」と圧力を強めてくる家康。

いい加減、その態度にキレた上杉は、あの有名な【直江状】を送りつけるのです。

直江兼続/wikipediaより引用

かなりザックリ、現代風に描くとこんな感じでしょうか。

「領民のために内政しているだけっすw 謀反なんてあるわけないでしょwww 無礼は許してね♪」

直江状は写本しか現存しておりませんが、おおむね家康を激怒せる内容だったということは間違いなさそうです。

それが慶長5年(1600年)4月14日のこと。

ブチ切れた家康は同年6月、会津へ向けて進軍します。

俗に【上杉征伐】とか【会津征伐】と呼ばれる軍事行動を起こし、一方、上杉景勝も会津領の防衛を基本戦略として合戦に臨みました。

 

関ヶ原の戦い

戦いは、意外なカタチへ展開します。

家康が出陣した隙を見計らって石田三成らが挙兵。

徳川軍も踵を返して上方へ向かったのです。

ご存知、関ヶ原の戦いですね。

石田三成/wikipediaより引用

ここでふと疑問に思いませんか?

なぜ上杉景勝は、徳川軍を追撃しなかったのか。

他ならぬ直江兼続も、徳川を挟み撃ちにする戦略を提言していますが、不可解なことに景勝は動きませんでした。

真意は不明ながら、おそらく「動くに動けなかった」のでしょう。

周囲には伊達や最上といった家康派の勢力が多く、それを野放しにして徳川を追えば、本拠地を落とされる危険性もありました。

そして実際に始まったのが【慶長出羽合戦】です。

最上と伊達が組めば、さすがの上杉も負けるのでは?

そんな風に思われるかもしれませんが、軍事の兵数は基本、石高に左右されます。

単純に石高を比べると

上杉120万石
vs
最上24万石
伊達58万石

と、上杉が圧倒的です。

実際、上杉軍は猛スピードで最上家の城を落としており、あとは長谷堂城を攻め落とせば最上の本拠地・山形城は目の前!

そんな絶好のタイミングで、景勝にとっては絶望的な知らせが届きます。

関ヶ原で三成敗戦――。

こうなっては長谷堂城を攻める理由はなく、今度は逆に命からがらの撤退戦を強いられました。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

最終的には戦を中断して家康に下ることを決め、使者として重臣の本庄繁長を派遣します。

景勝も、まさか半日で関ヶ原の大戦が終わるとは思わなかったのでしょう。

 

領地4分の1に削減も家名は繋ぐ

上杉家の存続は、風前の灯にありました。

西軍に味方した、あるいは事態を静観した大名は、毛利家や長宗我部家を筆頭に領地の大幅な削減や改易処分を喰らっており、上杉家の影響力を考えれば寛大な処分は望めません。

改易だった十分にありえます。

結果、彼らは大名家としての存続は許されました。

ただし、領土は4分の1である30万石へ減封し、本拠地も米沢へ移動。

なぜ許されたのか?その理由は

・そもそも、西軍の中心的な勢力ではなかったこと

・繁長を素早く派遣したこと

・家康の側近である本多正信らが助命に尽力したこと

などが挙げられます。

本多正信/wikipediaより引用

この屈辱的な処分を聞かされた景勝は、兼続に対し「武名の哀運今においては驚くべきに非ず」と語ったと伝わります。

領地が4分の1になったということは、上杉家の規模をすべて4分の1にしなければなりません。

現代の会社であれば、当然リストラの嵐が敢行されるはずです。

しかし、景勝と兼続は積極的なリストラを行使せず、望む者はすべて雇用を続けました。

むろん給料は大幅に減らされ、住む家が足りなくなった家臣たちは、何世帯も同居する有様となりますが、それでも景勝らに付き従ったのです。

美談ではあります。

ただし現実は厳しく、米沢藩は恒常的な財政難に苛まされることになり、直江兼続を中心にとにかく収入増に務めるほかありません。

もちろん徳川への忠誠も他家以上に求められます。

14年後の大坂の陣では、徳川方の最前線で働き、戦後に徳川秀忠から激賞される活躍を見せました。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

そして太平の世が始まりつつあった元和5年(1619年)。

直江兼続が60歳でこの世を去ると、景勝もその後を追うようにして、元和9年(1623年)3月20日、その生涯に幕を閉じるのでした。

享年69。

 

「寡黙で厳粛な将」上杉景勝の評価は?

上杉景勝という男の性格は、寡黙で厳正なものであったとされます。

ほとんど言葉を発さず、感情も読み取れない人物であり、一方で上杉家を守るためとあらば、たとえ家臣でも身内でも容赦はなかったと伝わります。

しかし、景勝の生涯を評価するのは極めて難しいと言わざるを得ません。

なぜなら彼の成し遂げたことは「否定的にも、肯定的にも評価できる」性質のものが多いからです。

例えば、御館の乱を引き起こして家中を分裂させ、上杉家を滅亡寸前まで導いたのは事実。

しかし、御館の乱を通じて家中の反乱分子を一掃し、より近代的な中央集権体制を構築したのもまた事実でしょう。

会津征伐に関しても同様です。

誰よりも早く秀吉と結び、会津120万石の地位を手に入れたのも景勝ですし、情勢を読み違えてその領地を30万石に減らしてしまったのもまた景勝でした。

正直に言って、私は景勝が優秀であったかどうかを判断できません。

ただ、一つだけ言えることは、上杉謙信という偉大な義父の跡を継ぎ、分裂する家をまとめ上げ、まかりなりにも家名を後世を残したのも景勝です。

上杉家といえば、すなわち謙信ですが、もう少し景勝も注目されてよいのではないでしょうか。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考文献】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
乃至政彦/伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』(→amazon
三池純正『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(→amazon
花ケ前盛明編『上杉景勝のすべて』(→amazon
鈴木由紀子『直江兼続とお船』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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