戦国時代の「かぶき者」と言えば、何といっても「前田慶次」だろう。
マンガ『花の慶次』で、広く知れ渡った人物である。
天下人の前でも己を曲げることなく、誰よりも優しく、そして強い。まさに男が惚れる男として描かれていた。
しかしながら、歴史上の「前田慶次郎利益」を調べると、どうもマンガのような人ではなかったらしい。
なにしろ、資料によって生没年が違うため、正確な年齢さえ不明なほどである。
武功としては長谷堂撤退戦が、記録に残るほぼ唯一のものだろう。あとはほとんどのことが、分からずじまいである。

絵・富永商太
だが、ここで「やっぱり、あんな男いるはずないよね」と思われるのは、まだ早い。
実在する戦国武将でも、まるでマンガのような活躍をした人物は、確かにいた。
その名も水野勝成という。
一般への知名度は低いが、その武功の数々は、驚くばかりである。
この男の人となりを『名将言行録』では
「倫魁不羈(りんかいふき)」
と記している。
「あまりに凄すぎて、誰にも縛りつけることはできない」という意味である。

水野勝成/wikipediaより引用
その通り、勝成は戦国の世で、我を貫き通した。
勝成を雇った家は水野家の敵である
水野勝成は三河刈谷の領主・水野重忠の長男として生まれた。
血筋としては、天下人・徳川家康の従兄弟にあたる。
齢十六の時、勝成は高天神城での戦いで、幾つもの首級を上げ、織田信長から感状を受けた。
同時に永楽銭の旗印まで貰っているほどなので、よほどの活躍ぶりだったのだろう。

織田信長/wikipediaより引用
続く【天正壬午の乱】でも、勝成は大暴れした。
徳川本軍の裏をかいて攻めてきた北条勢一万に対し、手駒数百名のみを引き連れ、抜け駆けで攻め込んだのである。
北条勢は大混乱に陥り、潰走――勝成は獲った首級三百を道に吊るし、敵の士気を完全に削いだという。
小牧・長久手の戦いでは、目を怪我していたらしく、兜を外して出陣した。
それを見た父・忠重は、勝成を叱った。
だが勝成は「うるせえ、黙って見てろ!」と言い残し、馬で駆け、一番首を獲って帰ってきた。
もう、メチャクチャである。
そして、ついに勝成はやらかしてしまう。
ある時、父親の部下といさかいを起こし、怒りにまかせてつい斬り殺してしまったのである。
当然、父・忠重は大激怒。勝成を【奉公構え】としてしまった。

水野忠重/wikipediaより引用
奉公構えとは、「追放」プラス「他家への出仕禁止」という重い処分であり、現代で言えば「破門状」に近い。
「勝成を雇った家は、水野家の敵である」という宣言なので、徳川家康さえ庇うことはできなかった。
結果、勝成は徳川方を出奔することとなった。
こうして、勝成の流浪人生が始まった。
成政から行長、清正、官兵衛と、大大名を流転し…
まず勝成は豊臣秀吉のもとに行ってみた。
ちょうど四国征伐中であったため、陣に潜りこみ、七百石の扶持を得た。
が、何をしでかしたのか、勝成は秀吉の勘気をこうむり、慌てて逃げ出した。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
旅の途中、体の垢を丸めた物を「妙薬だ」と騙して子供に飲ませるなどしながら(ひどい逸話だが、本当に『名将言行録』に書いてある)、九州へと赴く。
その頃、肥後には佐々成政がいた。
勝成はそこで千石の扶持を得る。
肥後は国人一揆の最中であり、勝成は大暴れ。
当然、数々の武功をあげたが、成政は一揆の責任をとり切腹させられてしまった。そのため、手柄は全て無しになってしまう。
仕方なく勝成は、新領主の小西行長に仕えた。
そこでも一揆などを潰していたが、やがて加藤清正に仕えることとなった。
だが、すぐにそこも辞し、次に立花宗茂、そして黒田孝高(黒田官兵衛)に仕えた。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
どこに行っても千石以上で雇ってもらえたようなので、やはり腕が立ったということだろう。
ところが、黒田孝高の長男・黒田長政の大坂行きの船に随伴している最中、勝成は唐突に姿を消してしまう。
理由は不明。戦ばかりの生活に飽きたとも、大坂で待つ秀吉を恐れたものとも言われている。
行方をくらますこと約六年。
なぜか勝成は、備中の国人・三村親成の食客となった。扶持はわずか十八石だったという。
もっとも、そこでも茶坊主を斬り殺すなどの事件を起こしている。
どこまでいっても、人間はそう簡単に変われぬものらしい。
そんな折、天下人・豊臣秀吉が薨去し、世は騒然とし始める。
勝成は、さっそく徳川家康のもとへと馳せ参じた。
が、いまだ「奉公構え」の最中なので、名乗ることもできず、仕方なく勝手に城の門番などをした。
それでも、やはり目立っていたのだろう。あっさり正体を見破られてしまう。
そこで家康は、強引に水野親子を仲直りさせた。
こうして、勝成の十五年もの放浪生活は終わりを告げたのであった。
奸臣・光秀の官位を喜んでもらい受ける
ところが、和解もつかの間、なんと父・忠重は石田三成の手により暗殺されるという事件が起こってしまう。
関ヶ原の戦いを目前にひかえ、勝成は刈谷三万石を継ぐこととなってしまったのである。
水野家当主となった勝成は、大垣城攻めという見事な武功を上げた。
戦後、勝成は従五位下に叙任され「日向守」の官位を受けた。
実は、この日向守は奸臣・明智光秀が名乗っていたため、欲しがる者がいなかったのだが、勝成は喜んで貰い受けたという。
以後、彼はその勇猛さから「鬼日向」と呼ばれることとなった。
勝成は、大坂の陣でも活躍した。
まずは前哨戦、道明寺の戦いで猛将・後藤又兵衛を軽くひとひねり。

後藤又兵衛/Wikipediaより引用
本戦では家康から、「絶対に一騎駆けはするなよ!」と言われていながら、やっぱりしてしまい、見事、大阪城一番乗りを果たした。
このとき齢五十二。何一つ人生を反省しない男であった。
どうして世に広まらないのか
その他、家康が風紀を乱すと禁止した歌舞伎興行を、勝手に京都でおこなったり(つまり、本物の傾奇者である)。
大坂の陣では剣豪・宮本武蔵を配下にしていたり(『大坂御人数付 水野家分限帳』という書に名前がある)。
七十五歳になっても島原の乱に参戦していたり(本州から唯一の参陣)。
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他にも凄まじいエピソードが目白押し。
なぜ、この人の名が世に広まらないのか、本当に不思議に思うくらいである。
本多忠勝や井伊直政らと比べて、ほんの少しだけ世代が若いことや、徳川家の大事なときに全国を放浪していたことが影響しているのだろうか。
・本多忠勝(1548年生まれ)
・井伊直政(1561年生まれ)
・水野勝成(1564年生まれ)
そこで自分は、水野勝成の人生を『天を裂く 水野勝成放浪記(→amazon)※Kindle読み放題対応』として、一冊の小説にさせていただきました。
現在、学研パブリッシングからが発売中であり、どうかよろしくお願いいたします(以上、宣伝です。失礼しました)。
最後に。
初代福山藩主としての水野勝成は、名君として知られている。
政治手腕は確かであり、上水道の整備や治水工事、税の免除など、多数の功績が残されている。
「全ての武士に貴賤はない。主君も家臣も、互いに頼り合ってこそ、世は成り立つ習いである。そなたたちは、私を親と思われよ。私も、そなたたちを子と思おう」
家臣には常に、そのように言っていたという。
若い時にした苦労が、勝成を大器として成長させたのだろう。
現在、福山の地に伝えられる勝成は、「優しいお殿様」のイメージだという話である。
※編集部注:本書は、史実ベースで描かれた小説『天を裂く: 水野勝成放浪記(→amazon)』の著者・大塚卓嗣氏にご寄稿いただいたものです。
同書でリアル傾奇者の生き様、底抜けのバカさに涙してください。
著:大塚 卓嗣
監修:武将ジャパン
大塚卓嗣氏の作品掲載
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