関ヶ原の戦い

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

徳川家

関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ】

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東軍・幽斎の守る丹後田辺城

まずは慶長5年(1600年)7月の中頃。

西軍は、伏見城を攻略しつつ、細川藤孝(幽斎)の守る丹後田辺城(舞鶴市)にも攻めかかっていました。

細川幽斎(細川藤孝)/wikipediaより引用

兵力では西軍のほうが圧倒的でしたが、攻め手の中には幽斎を和歌の師としている者も多く、なかなか士気が上がりきらずに膠着します。

しかも幽斎は、朝廷や皇室にとっても失いたくない存在でした。

歌道の奥義である古今伝授の伝道者が幽斎しかおらず、もしも討ち死にとなれば永遠に失われてしまうからです。

そんなわけで、これまた幽斎の弟子だった智仁親王からも降伏を勧める使者が立ちました。

しかし幽斎は降伏を拒絶。

古今伝授や和歌の奥義書などを智仁親王に贈り、自身の覚悟を示します。

田辺城についてはもうしばらく後で結末を迎えるので、ここはいったん時間を進めましょう。

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西軍・織田秀信の守る岐阜城

三成らは岐阜城の織田秀信(信長の孫・三法師)を味方につけると、8月11日に大垣へ到着。

順調に東へ向かっていました。

一方、家康もその頃、小山で上方の戦況を聞いていました。さらにそれを会津征伐に同行していた諸将に知らせ、各自の去就を選ぶよう伝えます。

と、ここで豊臣恩顧の筆頭ともされる福島正則が、真っ先に家康方につくことを宣言。

福島正則/Wikipediaより引用

それに釣られるような形で、多くの大名・武将が同じように家康に味方することを決めました。

同じく秀吉に恩のある遠江掛川城主・山内一豊も、家康に以下のような協力を提案。

「進軍が早くなるよう、東海道に城や土地を有する者は家康殿に差し出してはどうか」

自ら真っ先に城を差し出したこともあり、小山にいた武将たちは軒並み家康に従うこととなりました。

こうして、東軍は一致団結。

対上杉家として伊達家などの東北諸将を残し、大部分が西へ。

家康はいったん江戸に戻ると、福島正則と池田輝政らが先鋒隊として西へ進みます。

彼らは尾張・清須付近に集結すると、8月22日、織田秀信の守る岐阜城へ攻め込みました。

岐阜城は翌日に降伏します。

これだけのスピード決着となったのは、かつて岐阜城の城主だった池田輝政が現地を知り尽くしていたことも大きかったと考えられます。

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岐阜城は、かつて稲葉山城と呼ばれた堅城です。

しかし、稲葉山城時代にも、同城を知り尽くしていた竹中半兵衛(重治)にわずか数名で乗っ取られたこともありました。

守る城方が有利になるのが籠城戦のセオリーですが、攻め手に構造を熟知されていたら、そうも言ってられないんですね。

もちろん秀信もただ籠もって負けたわけではなく、犬山城に援軍を求めつつ、各所に守将を置いてよく守っていました。

福島正則に「さすがは信長公の孫」と賞されるほどです。

なお、秀信が降伏後に出家すると、それでも処刑を求める声があり、正則が自らの戦功と引き換えに助命嘆願したとされます。

正則が嘆願に動いたのは、小牧・長久手の戦いの後、織田家を離れて福島家に仕えた者が多数いたという理由もあるようです。

その後の秀信については以下の記事をご覧ください。

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なお、秀信が援軍を求めていた犬山城(犬山市)も、東軍の手に落ちています。

犬山城には稲葉良通(一鉄)の子・稲葉貞通や、竹中重治(半兵衛)の子・竹中重門なども入っていましたが、彼らは井伊直政と密かに連絡を取り、東軍へ鞍替えしていたのでした。

そんな状態では、秀信への援軍など来ないのも仕方ない話ですね。

 


東北方面

この頃、三成らは沢渡まで到着していましたが、入れ違いに東軍が上方へ向かってはたまらない。

ということで、慌てて大垣に戻り、対策を考えます。

西軍・東軍それぞれの本隊以外の戦線を北から順番に見てみましょう。

家康が去った後の会津・出羽を中心とした東北の戦・慶長出羽合戦についてはかなり大規模なものだったため、以下の記事をご覧ください。

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北陸方面

次は北陸です。

ここでは東軍方の前田利長と、西軍方の山口宗永がぶつかる……かに見えました。

利長はそのまま越前を経て上方方面へ向かおうと考えていたのですが、弟・前田利正に反対されて金沢に戻っています。

これにより本戦にも間に合わず、前田家は戦後も一段下の立場になりました。

前田利長(利家の長男)/wikipediaより引用

 


伊勢方面

続いては伊勢方面。

伊勢上野城の分部光嘉(わけべ みつよし)は「この城では支えきれない」と判断。

近隣の安濃津城に入って城主・富田信高とともに戦いました。

一日程度で開城していますが、これは高野山の仲介によるもので、完全敗北というわけでもありません。

安濃津城の兵は1700程度で、攻め寄せたのは毛利秀元長束正家長宗我部盛親などなど西軍の名だたる大名たちでしたから、致し方ないところでしょう。

富田信高と安濃津城の戦い
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西軍の勢いを見た松坂城の古田重勝も、前後して降伏を選んでいます。

やはり彼我の兵力差を考えて「対抗し切るのは不可能」と判断してのことでした。

安濃津城に少ないながらも兵を送っているため、最初から戦うつもりがなかったというわけではないようです。

余談ですが、彼は漫画『へうげもの』の主人公で知られる古田重然(織部)と混同されることが多く、重勝が関ヶ原本戦に参加したかのように書かれたこともあります。

両者の関係は悪くなかったようで、織部の茶会に重勝が招かれたこともあるため、余計に混同されたのでしょう。

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