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【関ヶ原の戦い】
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関ヶ原の決着は第二の裏切りから
家康としても余裕などなかったことでしょう。
何より戦況が膠着するのを恐れていたはず。
確かにこの時点では「秀頼や朝廷の後任を受けて会津征伐に向かった家康」を「公的な許可もなく私情で討とうとしている三成」という構図ではあります。
建前的には、家康のほうが圧倒的に有利かもしれません。
しかし、戦に負けてしまえば、そんなことは関係なくなる。
東軍が敗れれば、人柱同然になった鳥居元忠らの奮闘も、本能寺の変から18年も忍耐を重ねてきた家康の艱難辛苦もすべて水の泡。
手段など選んではいられません。
と、そこで小早川隊がついに動きます。
家康が鉄砲を撃って小早川秀秋の裏切りを促したというエピソードについては、現在、疑問視されています。
裏切ったタイミングも定かではありませんが、ともかく小早川隊が松尾山を一気に下って西軍の大谷吉継へ攻めかかったのは事実。
小早川隊の動きを不審に感じていた吉継も、その動きに備えていたため、当初は持ちこたえるかに見えました。
しかし、思わぬことが起きます。
周辺に布陣していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保までもが東軍に寝返り、壊滅へ追い込まれます。
吉継は病気で崩れてしまっていた顔を晒すまいと後退し、戦線から少し離れた場所で自害した後、家臣に首を埋めさせた……とされています。
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続いて小西隊や宇喜多隊も崩れ、石田隊も防ぎきれず壊滅。
三成は伊吹山へ逃れ、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となりました。
島津の退き口
敗戦が確定した西軍で、思いもよらぬ活躍を全国に披露したのが島津義弘隊でしょう。
島津隊は、あろうことか敵陣である東軍の真っ只中を突っ切って、戦線離脱を図ったのです。
【島津の退き口】として今なお戦国ファンにはお馴染みですね。
実は島津隊、関ヶ原の本戦では、ほとんど戦闘をしていませんでした。
その理由は諸説あり、講談などによって脚色されたものも多いので判然としませんが……三成ら西軍の中心人物が、”鬼島津”とまで呼ばれた義弘を活かしきれなかったのは悲しい事実でしょう。
皮肉にも、この一件で島津の名はさらに高まります。
「捨て奸(がまり)」という壮絶な戦術を用いて、関ヶ原からの撤退を成功させてしまうのです。
捨て奸とは
・少数の部隊に鉄砲を持たせて、追撃してくる敵を足止めし
・その部隊は全滅するまで踏みとどまって戦い
・繰り返す
という凄まじいものでした。
要は、死を覚悟した味方に時間を稼いでもらい、その間に脱出するという戦法ですね。
数千人いた島津隊のうち、生きて戦線を離脱したのは、義弘を含むたった数十名。
犠牲になった者の中には、義弘の甥・島津豊久などもいました。
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討手となった東軍もタダでは済みません。
兵卒はもちろんのこと、井伊直政は、この追撃戦で負った傷がもととなって翌々年に亡くなったとされています。
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三成の本拠地・佐和山城攻めがエグい
家康は、三成はじめ、西軍諸将の生き残りを探し出すよう厳命します。
と、その一環で東軍は9月17日、三成の本拠である佐和山城を攻め落としました。
このとき小早川秀秋などの寝返り組を先鋒に立たせて、三成の親族を攻撃させたのですから、仕方ないこととはいえ家康もやることがエグい。
三成の父・石田正継、兄・石田正澄は逃げ延びた後、自刃したといわれています。
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その後、家康は大坂城にいた毛利輝元を退去させ、秀頼に事の次第を報告。
戦闘でも政治的にも、家康が勝利を収めたのでした。
戦後処理
慶長5年(1600年)9月21日、逃亡していた石田三成が捕縛されました。
前後して小西行長・安国寺恵瓊も捕らえられ、同年10月1日、京都・六条河原で三人とも処刑されています。
他に、宇喜多家や毛利家、そして遠方で西軍の立場だった上杉家・佐竹家などに対しても大減封を行いました。
西軍サイドから召し上げた領地は、そのまま徳川家臣や東軍大名たちへ恩賞として分配しています。
ただし、恩賞を得られた人々もただ単に加増されたわけではなく、転封を強いられた者も多くいました。
わかりやすいところでいうと、細川忠興(細川藤孝の嫡男)が丹後12万石から豊前中津・約33万石になっています。
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栄転とも取れますが、これは家康が外様大名を警戒していたからのこと。
武家の人々は、同じ土地に長くいればいるほど団結力は増すものです。謀反を起こされるリスクも高まります。
むろん単に引っ越しさせるわけにもいきませんので、加増と同時に行い、バランスを取ったのでしょう。
家が大きくなれば新たな家臣を召し抱える必要が出てきますし、それによる雑務やトラブル処理に時間がかかれば、家中統制に足を取られます。
その間は江戸や徳川家は安泰になる可能性が高いわけです。
豊臣家に近い者たちも、一枚岩になるどころではない。
このあたりは家康が鎌倉~室町あたりの歴史から学び、想定しうるトラブルをできるだけ回避しようとした故の処置かと思われます。
家康もこの時点で還暦が見えてきた年齢ですから、自分が死んだ直後に徳川政権が最も揺らぐであろうことを見越していたはずですしね。
政治的にも戦略的にも、関が原の戦いは家康のこれまでの経験と学習が遺憾なく発揮された戦でした。
家康の能力や性格が最も出ていると言っても過言ではないでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 岐阜県 滋賀県 福井県』(→amazon)
ほか