関ヶ原の戦い

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

徳川家

関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ】

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近畿方面

さらに続いて、近畿の情勢を見てみましょう。

少々トリッキーな動きをしたのが、大津城(大津市)の京極高次です。

京極高次/wikipediaより引用

彼は当初、西軍に従って北陸へ向かおうとしていましたが、裏でひっそり家康と連絡を取り、9月4日に大津へ戻りました。

当然西軍にバレ、三成は大津攻略に立花宗茂や毛利元康などを差し向けました。

三成としては大軍を送ってさっさとカタをつけたかったのかもしれませんが、結果としてかなりの兵力が釘付けにされてしまいます。

高次は9月12日から15日の朝まで粘り、関ヶ原の戦い当日の西軍を大きく削ることに成功しました。

この功績により、戦後家康からかなりの恩賞を与えられています。

前述した田辺城も、幽斎が粘っていました。驚くべき意地です。

自分では説得しきれないと悟った八条宮は、ついに兄の後陽成天皇へ勅命講和を願い出ます。

結果、勅使が立ち、9月12日に講和が成立。関ヶ原本戦の直前でした。

ちなみに、大津城と田辺城を攻めていた西軍を合計すると、おおよそ3万になります。

本戦当日の兵数については諸説ありますが、仮に西軍が8万ほどだった場合、大津城と田辺城に向かった兵力を本番で使えていれば、単純計算で11万もの大軍になっていたわけです。

東軍の兵力は8万~11万という推測値があります。

西軍に3万増えていたらどうなっていたか?

こうなると本当に結果がわからなくなってきますが、そもそも城へ向かわせた兵力の配分が間違っていたとしたら、それも三成の力量というわけです。

家康と比してあまりにも少ない実戦経験の差が如実に出ているようにも見えます。

大津城や田辺城を攻略するのではなく、高次や幽斎を城から出さないことを目的とすれば、これほど多くの兵は必要なかったのでは?というのは後世ならではの見方ですかね。

 


本戦直前

家康や三成の動きに視点を戻しましょう。

まず家康は、福島正則池田輝政などの東軍先鋒の戦果を見極めた後、9月1日に江戸を出発しました。

池田輝政/wikipediaより引用

そして9日に岡崎、10日に熱田、11日に清須へ到着。

清須はかつて信長と家康が同盟を組んだ場所とされていますから、家康の胸中には感慨深いものがあったでしょうか。

一方、三成は、いよいよ家康との決戦が見えてきたということで、景気付けの一戦を試みます。

9月14日に三成の腹心・島左近清興らが杭瀬川沿いに駐屯していた中村一栄・有馬豊氏らに挑み、中村家の家老・野一色助義を討ち取るのです。

家康との対戦前に士気は上々といったところでしょう。

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実は西軍の勝利だった関ヶ原前哨戦「杭瀬川の戦い」家康も三成もガクブルの連続だ

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その後、西軍は「家康が三成の本拠・佐和山城を攻めようとしている」という情報を入手。

三成は大垣城にごく一部の兵力を残し、雨の中、佐和山への中間にある関ヶ原を目指して急ぎました。

家康はこの報告を受けて、東軍諸将に同じく関ヶ原を目指すよう命じます。

ちなみに佐和山城までは現在の道路で約29kmほど。三成からすれば、ここで食い止めなければ自分の本拠が危ういわけです。

一応、父や兄、親族を留守居に残していましたが……。

 


関ヶ原の戦い本戦

さて、いよいよ関ヶ原の戦い本戦です。

布陣の様子や戦闘の経過については諸説あり、今後、新たな説がメジャーになる可能性もありますが、おおまかに把握するということで。

まず現地の地理的条件は、山の間に線状の狭い平地が点在し、中央付近に少し平野が広がっているという感じです。

そこへ、慶長5年(1600年)9月15日、東軍の先鋒が明け方に到着。

家康も続き、関ヶ原の東南にある桃配山に本陣を置きました。

徳川家康/wikipediaより引用

対する西軍は?

関ヶ原の西側に布陣していた人々を北から挙げていくとこうなります。

【北】

笹尾山:石田三成

島津義弘西行

天満山:宇喜多秀家

大谷吉継・戸田重政・木下頼継・平塚為広

脇坂安治朽木元綱・小川祐忠・赤座直保

松尾山:小早川秀秋

【南】

この他に、東軍の東側にあった南宮山に毛利秀元吉川広家が布陣していました。

次に角度を変えて西軍・東軍の配置を東西から見てみましょう。

←西 東→

三成たち>東軍諸将・家康本陣<毛利秀元たち

高所の多くを西軍が確保しておりますが、布陣の時点で有利とまで断言できたかどうかは不明です。

戦闘が始まったのは午前7時過ぎ。

まず家康の四男・松平忠吉と、その舅で後見役の井伊直政が口火を切りました。

家康から正式に先陣を命じられていたのは福島正則だったのですが、この戦が初陣だった忠吉が功を焦ったものと思われます。

しかし相手が家康の息子となると、強く苦情を言うこともできなかったでしょう。

忠吉隊は宇喜多秀家の部隊に攻めかかり、近隣に布陣していた福島正則隊も宇喜多隊へ鉄砲を撃ちかけました。

これを受けて、藤堂高虎・京極高知・寺沢広高らが大谷吉継を攻め、忠吉・直政らは本多忠勝隊と共に小西行長との戦闘を開始。

石田三成隊には、黒田長政細川忠興加藤嘉明・田中吉政・金森長近らの部隊が襲いかかりました。

しかし三成隊の士気も高く、そう簡単には抜けません。

他にも、

福島隊vs宇喜多隊

藤堂隊・京極隊らvs大谷隊

といった戦線で、激しい激闘が繰り広げられていました。

三成はここで、主戦場から離れている松尾山の小早川秀秋、そして南宮山の毛利秀元・吉川広家に進軍の合図を送ります。

いずれも兵数の多い部隊でしたので、東軍に攻めかかることができれば戦況を変えることも不可能ではありません。

しかし、小早川隊も毛利・吉川隊も動きません。

ご存知、両者とも事前に家康と通じていたのです。

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