豊臣秀次/Wikipediaより引用

豊臣家

豊臣秀次(秀吉の甥)はなぜ自害へ追い込まれたのか? 28年の生涯まとめ

文禄四年(1595年)7月15日は、豊臣秀次切腹した日です。

豊臣秀吉の後継者になるはずだった人で、当時の秀吉血縁者(甥)、かつ唯一成人していた男性です。

そのため関白というポジションも与えられていたのですが、それがどうして切腹なんて悲劇の最期を迎えてしまうことになったのか?

直接的な原因が未だハッキリせず、新説なども提唱されたりしておりますが、彼の生涯を辿ることでヒントが見えてくるかもしれません。

ここは通説に従いつつ、疑問も交えつつ、その歴史を振り返ってみましょう。

※秀次はアッチコッチへ養子に出されて名前が幾度も変わっておりますので、記事内では「豊臣秀次」で統一させていただきます。

 

豊臣秀次は秀吉の従兄弟だった

豊臣秀次は永禄十一年(1568年)、秀吉の姉・ともの長男として生まれました。

同世代の戦国武将としては真田幸村伊達政宗立花宗茂黒田長政などがいます。

信玄(1521年)や信長(1534年)から見ると若い世代ですね。

当時、秀吉には男の子がおらず、秀次は物心つくかどうかといった歳の頃から、実子の代わりとして利用されました。

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敵方の大名・宮部家を安心させるための人質だったり。

三好家を調略するための養子入りだったり。

秀次の最期を知っていると、もうこの時点から哀れに思えてきます。

養子先で田中吉政(関ヶ原の戦い後に三成を捕まえた人)と出会ったのは、幸運のうちに入れていいんですかね。

ちなみに、三好家の人々がすったもんだで出て行ってしまったため、残った秀次が三好家を率いることになるというアベコベな事態も起きました。

さすがにこのときは「ダメだこの家……俺がなんとかしないと……」と思ったことでしょう。

14歳のときには、池田恒興の娘と婚約し、あの森長可とも義兄弟の仲になります。

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この縁で、小牧・長久手の戦いでは一軍の将となり、舅・恒興と義兄・長可が討ち取られるという大失態を犯して、秀吉にこっぴどく怒られます。

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秀次を跡継ぎにする案は以前からあったものの、「このままヘマし続けたら手討ちな^^」(超訳)とまで言われてしまいました。

ただし、この時点での秀吉は「ちょっと釘を差した」くらいの感覚だったようです。

 

八幡山城を本拠とした43万石の大名

四国征伐後には、近江周辺で43万石を与えられ、八幡山城(現・滋賀県近江八幡市)を本拠とした立派な大名になっています。

実務経験がないこともあり、縄張りなどはほとんど秀吉が指図していますけれども。

ただし内政の才はあったようで、吉政らに補佐されながら頑張っていた記録がちょくちょく残っています。

まぁ、このときまだ17歳ですし、由緒正しい大名家に生まれて、幼少期から教育を受けたというわけでもないので、十分に及第点でしょう。

秀吉からすれば、物足りなかったかもしれませんが。

18歳になると、豊臣姓や正式な官位をもらい、名実ともに政権の中枢として嘱望されている雰囲気が出てきます。

九州征伐では前田利家と共に京都留守居を任されました。内政の経験を積むという意味もあったんでしょうかね。

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小田原征伐】(当時22歳)では、秀吉の弟・豊臣秀長が病気になっていたため、副将を務めました。

「家康のもとで」という条件はありましたが、家老の一人を失いつつも、小田原城の支城の一つ・山中城を落としています。

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小田原征伐後は上方に戻らず、そのまま奥州平定に向かいました。

最上義光の愛娘・駒姫を所望したのはこの頃です。

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駒姫は当時9歳。いくら結婚が早い時代とはいえ……ねぇ?

 

女遊びや鷹狩り、茶の湯にうつつを抜かすな

一方、中央では信長の次男・織田信雄が改易にされ、その分の領地は秀次に与えられました。

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そして、秀吉の弟・秀長と、長男・鶴松が相次いで亡くなると、いよいよ秀次が豊臣家の後継者と目されるようになって参ります。

ただし、この頃はまだ若い秀次に対して秀吉にはかなりの懸念があったらしく、訓戒状を書いていたりします。

「ワシのように女遊びや鷹狩り、茶の湯にうつつを抜かしてはいかんぞ」(超訳)

秀吉も自分の悪癖ぶりは自覚していたようですね。

かくして秀吉の(表向きの)引退に伴い、秀次は関白に就任。

まだ20代半ばの若さでありながら、聚楽第で秀吉の決めた法度などに準じて、政務を執っていたといわれています。

秀吉が唐入り(朝鮮出兵)に専念する一方で、秀次は真面目に国政を行いました。

秀次にとっては祖母にあたる大政所(なか)の葬儀の実務を行ったのも、実は秀次です。喪主は秀吉ですが。

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しかし、です。

少しずつ秀吉の後継者としての経験を積みはじめたところで、彼の将来に突如暗雲がたちこめます。

淀殿が豊臣秀頼を産んだのです。
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