藤堂高虎の肖像画

藤堂高虎/wikipediaより引用

豊臣家

藤堂高虎の生涯|豊臣兄弟の秀長や家康にも厚く信頼された戦国の転職王

2024/10/04

寛永7年(1630年)10月5日は藤堂高虎の命日です。

高虎といえば、このセリフでお馴染み。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」

生涯に七回も主君を変え、能力一本で渡り歩いた戦国武将として知られますが、単に気難しい性格とか目先の報酬に釣られて……といったタイプではありません。

特に、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』とは縁が深く、ドラマの主役・豊臣秀長には長きにわたって仕えていました。

結果的に主君が多くなったというだけで、能力の高さから常に信頼されていた勇将だったのです。

では藤堂高虎とは一体どんな武将だったのか。

藤堂高虎の肖像画

藤堂高虎/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

藤堂高虎8名の主君とは?

藤堂高虎は本当に7回も主君を変えたの?

実際のところ嘘だよね?

そう思われる方のため、最初に高虎の主君を数えておきましょう。

①浅井長政

②阿閉政家(あつじまさいえ)

③磯野員昌(いそのかずまさ)

④織田信澄(つだのぶずみ)

⑤豊臣秀長

⑥豊臣秀保(ひでやす)

⑦豊臣秀吉

⑧徳川家康(以降、秀忠→家光と続く)

最初の浅井長政から数えて計8人、きっちり7回変えていますね(親子の代替わりなどによって数え方は変わりますが)。

高虎公園(滋賀県)にある藤堂高虎像

高虎公園(滋賀県)にある藤堂高虎像

ただし、闇雲に「こんなところで働けんわ!」と転職を繰り返すムチャクチャな人物だったわけではなく、豊臣秀長のときは秀長が亡くなるまで長く仕え、さらにその養子・豊臣秀保が横死したときには責任を感じて高野山に入っているほどです。

忠誠心がうんたらかんたらの話ではない。

そもそも「一つの家に生涯尽くさねばならない」というのは、江戸時代からの話。

いつどこで誰が死ぬかわからない戦国時代においては、すぐに自分の能力を評価し、高い禄(給料)で召し抱えてくれる主人を探すほうが重要なのです。

高虎のように、そういう生き方を好んだ武将を「渡り奉公人」と呼びます。

高虎は、その中でも軍を抜いて成功した人物です。

一体どんな人物だったのか?

その誕生から見て参りましょう。

 


渡り歩いて秀吉弟・秀長のもとへ

藤堂高虎は弘治2年(1556年)に生まれました。

父は近江の地侍・藤堂虎高で、母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。

父の虎高もまた、若い頃は渡り奉公人だったようです。かの上杉謙信に仕えていたこともあったとか。

彼の人となりについては記録が乏しく、あまり詳しいことはわかりません。

成長してからの高虎や、その息子・高次がかなり恵まれた体躯の持ち主だったことからすると、虎高も平均以上の体格だった可能性がありますね。

高虎が最初に仕えたのは、地元近江の大名で、織田信長の義弟だった浅井長政です。

浅井長政の肖像画

浅井長政/wikipediaより引用

この頃の藤堂家は一応武士ではあったものの、ほとんど農民と同じような状態だったそうなので、一兵卒から成り上がっていったのですね。

初陣は、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍がぶつかった【姉川の戦い(1570年)】でした。

このとき15歳。

しかし若気の至りで刃傷事件を起こしてしまい、長政の下を離れることになります。

それから、阿閉政家や磯野員昌など浅井家臣の家を渡り歩きました。

そして浅井氏が滅びると、今度は信長の甥っ子・津田信澄(つだのぶずみ)のもとへ。

当時の織田家のうなぎ登りっぷりからすると、なかなか良い就職先に見えます。

……が、ここもウマが合わなかったらしく、天正九年(1576年)になってやっと、羽柴秀吉の弟・秀長のところに腰を落ち着けることになりました。

と、これが大正解。

なぜかというと、この後に津田信澄は、とんだ貧乏くじを引かされるからです。

彼は、信長を排除しようとして逆に殺された【弟・織田信勝(信行)の息子】という血縁だけでなく、あの【明智光秀の婿】でもありました。

そのため、本能寺の変後はその去就を疑われて、織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀に殺されてしまったのです。

もし高虎が、その場にいたら……かなり歴史が変わっていたかもしれませんね。

 

秀長の家臣として各戦場で大活躍!

豊臣秀長の下についたのは、別の意味でも大正解でした。

豊臣秀吉の弟として知られ、政治や戦だけでなく、個々の武将や吏僚たちの調整などを一手に引き受けていた秀長。

人が好いだけでなく豊臣軍団を束ねる中心的存在でもあり、その仕事は多岐に渡ります。

つまり、数え切れないほど活躍の場が用意されていたのです。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikipediaより引用

彼等の戦歴をざっと見てみますと

・三木城攻め

・但馬国一揆殲滅

・伊勢峯山攻略

・亀山城攻略

・賤ヶ岳の戦い

・小牧長久手の戦い

・四国征伐

・九州征伐

また、秀長が関わったと思われるさまざまな築城の現場で、技術を身につけていったと考えられます。

これは、高虎が学問的に築城を学んだという形跡がうかがえないためです。

秀長が紀伊を与えられた後、高虎は築城等に向けて材木を集める仕事を任されていたことがありました。少なくともそのあたりから、普請に関するさまざまな実務に携わっていたでしょう。

主君である秀長も、高虎を重用し、気前よく名馬を与えたり加増もしました。

天正15年(1587年)には、紀州粉河城2万石の城主になっています。

高虎は、ここでやっと「この方こそ!」と思えたでしょう。

彼が主家を重んじる体制でいたことは、とあるエピソードに現れています。

 

浮いてしまった仙丸を養子に迎えた

実は高虎の主人・豊臣秀長には、仙丸という養子がいました。

血縁的には、丹羽長秀の三男です。

本能寺の変の後、旧信長家臣団が柴田勝家につくか・羽柴秀吉につくかで割れていた頃に、長秀を懐柔する作の一つとして迎えた人でした。

丹羽長秀の肖像画

丹羽長秀/wikipediaより引用

しかし、天正十九年(1591年)に「秀長の跡を継ぐのは甥の豊臣秀保(秀次の弟)」と決まりました。

既に秀長が病身となっていたこと、秀長の娘・おみやとの結婚が条件だったことなどが理由と思われます。

年頃としては、仙丸のほうがおみやと釣り合うのですが……。

もしも仙丸を通して丹羽氏が羽柴氏に食い込んでくるようなことになっては、後々不都合が生じるおそれがあります。

秀吉と秀長は、その点を危惧したのでしょう。

こうして、仙丸の存在は浮いてしまいました。

実家に戻ろうとしても、長秀は天正十三年(1585年)に亡くなってしまっていますし、跡を継いだ異母兄の丹羽長重とは、おそらく面識がありません。

なにせ、この時点でも仙丸はたった9歳。秀長のもとへ来たのは4歳のときのことでしたから、本人としてはどうなるのか不安で仕方なかったと思われます。

高虎はここで、自ら「仙丸様を養子にお迎えしたいのですが」と申し出ました。

高虎にもこの時点では息子がいなかったため、これでどの方面も丸く収まりました。

 


秀保の死を悼み高野山で出家

少々時系列が前後しますが、仙丸は成長後「藤堂高吉」を名乗り、朝鮮の役や伏見城普請などで活躍しています。

……が、しばらく後になって高虎に実子・藤堂高次が生まれたため、高吉は分家扱いとなってしまいます。

なんとも運のないお方です。

とはいえ、仙丸や秀保には責任のないことです。

高虎は秀保にも忠実に仕え、秀長が亡くなった後は後見役として支えました。

朝鮮の役では高虎が渡海し、秀保は名護屋にとどまっています。

九州(佐賀県)にある名護屋城天守台

しかしその数年後、文禄4年(1595年)に秀保は17歳の若さで急死してしまいました。

秀保の死の真相は不明です。

秀吉は彼の死を悼むどころか、葬儀を密葬で済ませたともいわれており、怪しさ満点。

同年7月には、秀保の実兄・秀次が切腹していることもあり、

「秀保は秀次と共に、秀吉に謀反を起こそうとしている」

と疑われて殺された……なんて説もありますが、はてさて。

若い頃からほうぼうを渡り歩き、やっと落ち着いた先で秀長・秀保という二人の主人を失った高虎が、意気消沈するのも無理のない話です。

高野山に上って出家してしまいました。

 

秀吉の強引に呼び戻され宇和島入り

そんなところで横槍を入れたのが、ボケが始まったとされる太閤・豊臣秀吉。

「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない! 宇和島に領地をやるから帰って来い!!」として半ば強引に復帰させられてしまいます。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

このあたりの領主だった戸田勝隆という大名が朝鮮の役からの帰路で病死していたため、代役として選ばれたのです。

勝隆は、古くから秀吉に仕えてきた人でしたが、大名としての経験が浅く、地元民の心をつかむことができずにいました。

特に豊臣政権が行った検地については、どこの地方でも大不評であり、それを勝隆は何の交換条件も出さず強行してしまったため、大規模な一揆を起こされています。

高虎はそうした不信感漂う地域を、うまく治めていかなくてはなりませんでした。

農民が検地を嫌がるのは、平たく言えば収入が減るからです。

中世までの日本において、地方の政治は一言で言えば”テキトー”。

どこにどのくらいの広さの田畑があって、どの程度の収穫が見込めるか?など、中央政府は把握していませんでした。

農民たちはそれを逆手に取って、親から子へ、子から孫へと開墾を進め、密かに収入を増やしていたのです。

検地をされてしまえば、そうやって先祖代々努力してきたことがバレ、以前より多くの税を取られてしまいます。

ただでさえ天災や流行り病、戦の巻き添え等々で、いつ誰が死ぬかわからない時代。

生きている間に少しでも豊かな暮らしをしたいと思うのは当然のことです。

高虎は自分も流浪してきたことがあるだけに、農民のそうした感情を理解していたと思われます。

そこで、高虎は一つ条件を出しました。

領内の農民に対し「開墾を奨励する代わりに、一年間は税を取らない」と告げたのです。

こうしたやり方を”鍬下年季”といい、大名が農民を懐柔する策としてよく用いられました。

 


関ヶ原では大谷軍と相対

高虎は、他にも領内の神社を修繕したり、米を収めることによって、地域に溶け込もうと努力しています。

数年間こうして地元民の感情は徐々に軟化させたことにより、検地もスムーズに行うことができました。

とはいえ、難しい仕事を押し付けられたという点は変わりません。

しかもこれは、朝鮮の役と同時進行でやっています。高虎のような器量人でも、相当にストレスがかかったことでしょう。

それだけが理由というわけではない……と思われますが、高虎は秀吉が亡くなる直前から、徳川家康に接近します。

家康が慶長五年(1600年)の上杉征伐に出陣したときも従っていますし、関ヶ原の戦いでも東軍でした。

関ヶ原合戦図屏風

関ヶ原合戦図屏風/wikipediaより引用

関ヶ原当日は、最前線の大谷吉継隊と相対しています。

同時に、豊臣恩顧の大名のうち、

・脇坂安治
・赤座直保
・朽木元綱
・小川祐忠

たちに調略を仕掛け、合戦当日に寝返らせ、大谷隊へ攻撃させたのも高虎でした。

従来は「小早川秀秋が裏切って大谷隊を攻撃したため、東軍が勝った」とされていましたが、近年では「高虎の調略を受けた四人の隊が裏切ったから」という見方が強まっています。

高虎が大名に復帰せず、この場にいなかったら……なんて、”もしも”を考えてしまいますね。

ちなみに、大谷隊と藤堂隊に関するエピソードもあります。

 

吉継の代わりに五助の首を取る

大谷吉継は病(ハンセン病と推測されています)によって顔が崩れ、それを恥じていたといいます。

現代の大谷吉継像は「頭巾で顔を隠していた」イメージがありますが、これは江戸時代の説話で付け足された描写のようです。

ただし眼を病んでいたのは確実だったようですので、眼の異常を他人に晒したくなかった……という可能性はありますね。

それはともかく、武将であれば、より立派な武将以外には首を取られたくないものです。

しかしこのときの大谷隊は、裏切り者達に攻撃されている状態。

自分の首を裏切り者の踏み台にされるくらいなら、人知れず腹を切るほうがまだマシです。

吉継は数少ない家臣を連れ、山中でひっそりと腹を切り、その首を隠すよう言い残しました。

大谷吉継のイラスト

絵・富永商太

これに応じたのが、吉継の側近だった湯浅五助という人物です。

しかし、五助が吉継の首を隠したちょうどその時、高虎の家臣である藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。

高刑は高虎の甥で、当時24歳の若者。

五助は吉継の側近として知られていたため、願ってもない機会でした。

とはいえ藤堂の血が為せる技か、高刑は五助が何かを隠していたことに気づきます。

「何を隠したのか?」

そう尋ねると、五助は答えました。

「私の主人の首をここに埋めたのだ。私の首を渡す代わりに、このことを黙っていてくれないか」

自分の命と引き換えに主人の名誉を守る、という忠臣ぶりに高刑は感銘し、その約束を守ることを誓って、五助の首を持って帰りました。

当然、甥が武功を上げたことを高虎は大いに喜びました。

二人で家康の本陣に報告すると、家康は手柄を褒めた後、案の定、こう尋ねられます。

「五助ほどの者ならば、吉継の居場所か首のありかを知っているはず。討つ前に聞かなかったのか?」

難しい質問ですよね。

もし「尋ねなかった(その前に首をとってしまった)」と答えれば、粗忽者(うっかり者)・不心得者として功績が帳消しになるどころか、藤堂家への風当たりが強まったでしょう。

そこで高刑は、真正面からこう言い切ります。

「聞きましたが、言わないと約束する代わりに五助の首を貰い受けたので言えません。お気に召さないのなら、どうぞ私をご処分ください」

この高刑の律儀さに徳川家康は感心し、槍と刀を与えてこの件を不問にします。

まあ、家康からすれば「吉継が死んだかどうか」が重要ですからね。

もしも吉継の首を挙げていれば、そのぶんの褒賞もやらなければなりませんから、出費が浮いてラッキーぐらいに思ったかもしれません。

 


渡辺了との確執 ついには奉公構を出す

関ヶ原の戦いで家康が勝ち、平和な時代が徐々に訪れるようになると、高虎も徳川家に仕え続け、働き続けました。

2つほど例を挙げましょう。

◆宇和島(愛媛県宇和島市)に、海水を引き入れ五角形の堀を巡らせた「宇和島城」を築城

◆大坂夏の陣で大損害を受けながらも敢闘

ただし、後者については身内での確執も……。

当時の高虎の家臣に、渡辺了(さとる)という人がいます。

彼は若いころ高虎同様に渡り奉公人をしており、関が原までは西軍・増田長盛に仕えていました。

増田長盛の肖像画

増田長盛/wikipediaより引用

西軍が敗れた後は、長盛の居城・大和郡山城を東軍方に引き渡しています。

そのときの指揮ぶりが見事だったため、受け取りにきた高虎が惚れ込み、二万石で召し抱えたほどの人です。

しかしその了が、大坂夏の陣で高虎と仲違いすることになったのです。

理由は他愛のないもの。

徳川家の譜代たちを無視するような形を取ってまで、大坂城へ突撃してしまったのです。

家康や秀忠の心象を悪くする可能性や、他の大名からの心証を損ねることを避けるなら、ここは譜代たちに譲るべきところでした。

しかも、藤堂軍の被害もかなり出てしまっています。

確かに高虎は家康から信頼を得ていましたが、大坂夏の陣の時点では、まだ油断は禁物といったところ。

そういうデリケートな情勢の中で、主人の立場が危うくなるようなことをしたのですから、さとるへの印象が悪くなるのは当然のことです。

この働き自体は家康に認められ、高虎は従四位下への昇進と五万石の加増を受けていますが……高虎にとってさとるの振る舞いは許しがたいことでした。

さとるさとるで意地を張り続け、結局藤堂家から出奔。

しかも出ていった当日は、鉄砲の火縄に点火した状態だったというのですから、完全にケンカを売っています。

これにはさすがの高虎も腹に据えかね、さとるに対し【奉公構(ほうこうがまえ)】という扱いをしました。

奉公構とは、自分のもとを去った家臣について、他の大名に「あいつは不心得者なので、雇わないでください」と知らせて回ることです。

現代でいえば、辞めた社員が再就職できないように、他社へ根回しするというような感じでしょうか。

ここだけ聞くとひどい話のようにも見えますが、よほどまずいことをしないと奉公構にはならないので、世間的には受け入れられていたようです。

有名な例では、水野忠重が息子・水野勝成を、黒田長政が後藤基次(後藤又兵衛)を、細川忠興が稲富祐直をそれぞれ奉公構にしています。

 

外様でも高虎と政宗は例外的に厚遇した

家康は身内に厳しく、譜代を重用し、外様は冷遇という基本スタンスです。

が、藤堂高虎と伊達政宗の二人については、その力を大いに認めていたのでしょう。

外様ながら破格の扱いをしています。

伊達政宗の肖像画

伊達政宗/wikipediaより引用

高虎については関ヶ原での活躍や築城技術、大阪の陣では一族を犠牲にするほどの奮戦振りなどを評価されたのでしょうね。

また、高虎は機を見るに敏というだけでなく、周囲の人間への気遣いや公平さも人並みはずれていましたので、「こういうヤツは使える」と思っていたのかもしれません。

例を挙げてみますと……。

・藤堂家から出て行く家臣を快く見送り、「もし上手くいかなかったら同じ給料でまた雇ってやるから、いつでも来い」と言って本当に実行した

・加藤嘉明(小さい頃からの秀吉家臣・福島正則や加藤清正と同じ釜の飯を食った仲)と折り合いが悪かったものの、自分より高給の領地に「加藤殿が向いてますよ」と推した

・死の直前、家臣に「ワシが死んだら殉死しようと思っている者は、名前を書いて提出するように」と命じ、名乗った人々を家康に報告して「こいつらは本当の忠義者だから、いなくなられると困るので殉死しないように言ってやってください」と書状を書いてもらった

「本当に戦国時代の人間か?」と言いたくなるほどの公正振り。

現代に置き換えるとすれば

「七回の転職に成功し、上司に認められ部下にも思いやりがある敏腕部長」

といったところでしょうか。

こんな上司だらけだったら、しょーもない残業が亡くなり、育児休暇もきちんと取れる、理想の職場になりそうですね。

 

幕末に津藩が寝返ったのは事実でありますが……

その後、儒教が広まった江戸時代の人々には、こうした深イイ話がわからなかったのか。聞こえないフリをしていたのか。

「不忠義者」
「変節漢」
「浮気性」
「我ら忠犬を見習え」(by譜代大名)

などなど、高虎はヒドイ言われようをされるようになってしまいます。

これは、高虎の後半生における加増ぶりがすごかったことにもよると思われます。

◆関が原の軍功により12万石加増→伊予今治20万石

◆他家の移封等による関係で飛び地として、今治城周辺に2万石加増→合計22万石

高虎存命中はここまでですが、最終的な津藩の石高は32万石まで増えています。

これがどのくらいかというと、水戸藩より少し少なく、福井藩より少し多いというところです。

つまり、藤堂家は石高において、水戸徳川家(徳川頼房)や、越前松平家(結城秀康)と同等の扱いを受けていたことになるわけです。

徳川頼房の肖像画

徳川頼房/wikipediaより引用

もちろん、多くの徳川家譜代を凌駕しています。

これ以上の石高となると、前田家や島津家、伊達家、細川家、尾張・紀伊徳川家など、10ほどの藩・家しかありません。

しかも高虎の功績自体は、誰からも文句のつけようがないのです。

となると、嫉妬した人々は、高虎の経歴くらいしかケチを付けるところがない……となります。

それは幕末に至っても同じでした。

高虎の子孫である津藩は、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いのとき、当初は幕府軍についていました。

しかし情勢を見て後退し、新政府軍に寝返っています。

これが高虎のイメージと重なって、

「藩祖の教えがよく行き届いていることよw」

なんて皮肉られる始末。

とはいえ、藤堂家の人々は大して気にしなかったようです。

新政府軍が東へ進んでいき、江戸城が開城された後、幕府軍が日光に立てこもって戦おうとしたことがありました。

東照宮があり、”神君”家康がいる聖地で、天佑神助を得ようとしたのでしょう。

当然、新政府軍に日光攻撃を命じられましたが、津藩の人々は拒否したといいます。

その理由は「家康公には藩祖が大変お世話になったので、墓を荒らすようなことはできない」というものだったようです。

家康の恩に報いる理由はあるが、ダメになったその子孫にまで無理して忠節を尽くす必要はない、ということでしょうか。

 

締めるところは締め、その他はテキトー主義

高虎は、晩年、目を病んでいて、死去するときには既に失明していました。

そのせいか、辞世の句や遺言の類が伝わっていないようです。

代わりに(?)「藤堂高虎家訓200箇条」なんて、読むのも疲れる……もとい、ありがたい教えを残しています。

現代でいえば迷信に入るもの、細かすぎてよくわからない点も多いのですが、全体的に上に立つ者の心構えが記されています。

ぴったり200条でも言いたりなかったのか。

4条ほど付け足しているあたり心配性なのか、マメなのかわかりません。

この「締めるところは締め、その他はテキトーに」主義が彼の一番の強みだったのかもしれませんね。

他にも高虎には「身長六尺二寸(約190cm)体重三十貫(約110kg)の超巨漢だった」などなど、エピソードが多く、関連書籍を読んでいるとニヤニヤしてしまうことが多々あります。

確かに主君をコロコロ変えたのは事実ですが、単なる裏切り者ではありません。

どんな状況でも諦めず、独りよがりにならず、部下や子孫への思いやりを持った、とても魅力的な武将です。

近年は三英傑や前田利家・島津義弘のような大大名だけでなく、特色のある武将にもスポットが当たるようになってきました。

高虎も、今後さらに注目されるかもしれませんね。

※ちなみに、当時の大柄武将と言えば、他に前田利家なんかもよく知られておりますね

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

👨‍👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

 

追記(2025年10月5日)

10月5日の命日に合わせて本文修正、ならびに関連画像とGoogleマップを追加しました。

◆藤堂高虎公像(三重県)

◆藤堂高虎像(滋賀県)

◆藤堂高虎像(愛媛県)

▼更新履歴
・2025年10月5日:本文に写真を入れGoogleマップを追加

あわせて読みたい関連記事

豊臣秀長の肖像画
豊臣秀長の生涯|秀吉の天下統一を支えた偉大なるNO.2【豊臣兄弟主人公】

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る

続きを見る

浅井長政
浅井長政の生涯|信長を裏切り滅ぼされ その血脈は三姉妹から皇室へ続いた

続きを見る

姉川の戦い
姉川の戦い|織田徳川と浅井朝倉が激突!互いに引けなかった合戦の勝敗は?

続きを見る

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る


参考文献

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-豊臣家

目次