秀吉のスカウト術

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

数正も引き抜いた秀吉のスカウト術は何が凄いのか?武士の忠義とは?

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秀吉の持つ「裏切らせ力」

秀吉には人を裏切らせる力があった。

しかも、その力は本質的に源頼朝とは異なるものです。

頼朝は父の源義朝が関東では英雄的な存在であり、坂東武者たちに「あの父の子ならば、ついていってみよう!」と思わせる有利な条件があった。

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いわば源氏のブランド力を頼りとしたものです。

ひるがえって秀吉はどうか?

彼の身分は諸説ありますが、低い出自だったことは確かで、当時から「物売りをしていた卑しい者」という認識がありました。

当然ながら教養や礼儀作法はなく、頼朝のような口説き方もできません。

では、それを上回る人間的魅力があったのか?

というと、武士にとっては一族の生死がかかった場面で、そう単純な話でもないでしょう。

おそらくとびきりの好条件を提示するとか。このまま敵であることの不利益を恐怖を交えながら説明するとか。ときには、エゲツない脅迫手段にでも出るとか。

武士の損得勘定を刺激するキレ者だったことは間違いなく、当時から「油断がならぬ」と認識されていました。

秀吉の合戦というと、鳥取城や三木城、あるいは備中高松城などの徹底した兵糧攻めがおなじみですが、

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戦術プランが練られるとき、その主軸に置かれたのが「調略」や「スカウト戦術」であったとしても不思議ではありません。

自軍に限らず戦死者が減り、戦場が狭まれば、それだけ合戦コストは軽減されます。

徳川家康が最も恐れた男は何人いるのか?」という戦国時代定番のネタがありますが、さしずめ秀吉ならこんなところでしょう。

豊臣秀吉がスカウトを仕掛けた名臣は何人いるのか」

手強い相手と真正面から戦うより、仲間に引き込んじまったほうが早い――秀吉は、自分の弁舌・調略術に自信を持ち、かつ、それが最上の手だと理解していたのでしょう。

スカウト術は、彼が天下人になる上で絶対に欠かせないものでもありました。

 

スカウト術に靡かぬ忠臣もいた

なぜ秀吉は頻繁にスカウトを繰り返したのか?

いちいち敵を仲間にしていては、分捕った領地の取り分も減ってしまうのではないか?

そこに影響してくるのが、やはり彼の出自です。

父祖の代から仕える家臣がおらず、新たに育てるにしても時間がかかる。ならば他家から引き抜いた方がはるかに効率的だ。

秀吉躍進の元にいた二兵衛こと竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高も、元は他家に仕えていました。

西の戦国無双として讃えられる立花宗茂も、その力量を見込んだ秀吉が大友氏から引き立てて大名にしました。

もちろん、失敗例だってあります。

上杉家の直江兼続と、伊達家の片倉小十郎景綱で、この二人には共通点があります。

元々名門武家の出身でなかった彼らは、上杉景勝伊達政宗という主君に大抜擢され、重要なポジションに就いていました。

となれば、周囲からの嫉妬も激しく、秀吉としても、そんな心の隙間をつくようにして言い寄ったことでしょう。

いくら上杉と伊達が伝統のある名門大名でも、天下人の直臣になったほうが実入りはデカく、社会的なポジションも上です。

『忠義か? さらなる出世か?』

スカウトされてそう悩んでしまう時点で、もはや人は弱くなってしまう。

それを堂々と跳ね除けた直江兼続と片倉小十郎景綱は、堅忍不抜の精神を持ち合わせていたに違いありません。

特に、片倉景綱の主君である伊達政宗は気難しい性格ですから、その下で働くのはそうそう楽ではないはず。

実際、伊達家一門の伊達成実すら出奔したことがありましたし、景綱の姉で政宗の乳母であった片倉喜多ですら政宗から勘気を蒙り、遠ざけられたことがあります。

そうした状況を鑑みれば、景綱の忠誠心というものは「忠」が重んじられる時代においては素晴らしいもの。

現在に至るまで兼続と景綱が人気を有しているのは、秀吉のスカウト術になびかなかった一面も大きいはずです。

一方で微妙な評価となってしまっている石川数正

彼は結局、天下人の誘惑に負けてしまいました。

徳川家康だって相当な権力者だったのに、なぜ数正は秀吉のもとへ走ってしまったのでしょう……。

 

石川数正という不都合な史実

時は天正13年(1585年)――石川数正が家康のもとを去り、秀吉に寝返ったのは最悪のタイミングでした。

前年に【小牧・長久手の戦い】があり、徳川としては合戦に敗北はしてないけれど、政治外交面から大きく遅れを取ることになった。

豊臣政権が盤石となるにせよ、徳川としては相応の勢力を保持しなければならない――そんな場面です。

しかも石川数正の場合、兼続や景綱とは異なり、父祖の代から松平家に仕え、数正自身も家康が幼い頃から近侍として仕える、徳川家にとっては無くてはならない存在でした。

当然、数正だってそれを理解していたでしょう。

だからこそ秀吉も誘ったわけですが、それにしてもなぜ豊臣へ走ったのか?

実は、その理由が今なおハッキリとしないため、

・秀吉に惚れた

・豊臣へ内通していると噂が広まってしまった

松平信康の扱いに不満があった

・豊臣へ出奔したのは表向きの姿であり実は家康のスパイだった

などなど、後世さまざまな理由が推察されていて、以下の記事にその考察が詳しいですが

石川数正
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正しい理由が一つだけとは限らず、複合的な要因で秀吉傘下となった可能性も十分に考えられるでしょう。

そこをどう描くか?

というのはフィクションならではの見どころでもあり、例えば大河ドラマ『おんな城主 直虎』での石川数正は、築山殿が自ら罪を被り悪女として処断される様に憤る姿が見てとれます。

劇中で数正の裏切りは描かれませんでしたが、伏線としてうまく描かれていた。あの数正の表情を見ていると、寝返ることもやむなしと思えたものです。

では、今年の『どうする家康』はどうか?

今年の家康は、第一話からいきなり「戦はいやなんじゃあ!」と戦場から逃げ出す情けない総大将でした。

武勇を誇るはずの総大将が「怖いから逃げる」なんてのは言語道断。

武士は、もしも背中に傷が残ると、敵に背を向けた(=逃げたところを斬られた)と見なされ、当人は酷い恥辱と感じたものです。

そうした武士の大前提が呆気なく崩れていて、石川数正の出奔という一大事件でも『あの家康なら逃げられて当然だよね……』と思われかねません。

とにかく史実における数正の出奔は、徳川や家康にとって、悪夢のようなものでした。

というのも戦国大名の根幹を成す武力、徳川の軍学は石川数正が組み立てたものであり、いわば軍事機密が漏洩したに等しかったからです。

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