小早川秀秋

小早川秀秋/wikipediaより引用

豊臣家

関ヶ原の裏切り者・小早川秀秋はなぜ東軍に?儚い21年の生涯まとめ

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秀吉に裏切られ むしろ家康こそ恩人

帰国後はそれまでの筑前(現・福岡県)から越前(現・福井県)へ転封。

京・大阪に近くなったものの、石高で見ると約半分という大減封でもありました。

そのため家臣の召し放ち(クビ)をしなくてはならず、幼い頃から支えてくれていた家老も側を離れてしまい、頼りにできる人がほとんどいなくなってしまいます。

秀吉が亡くなった後に筑前に戻っているので、石高とメンツだけは元通りになったのですけども、そのために動いたのが徳川家康でした。

徳川家康/wikipediaより引用

そして関ヶ原当日へ。

そもそも早くから東軍だと思われ、だからこ石田三成の盟友・大谷吉継が、小早川秀秋の陣取る松尾山の麓に構えていたと言います。

警戒されていたんですね。

とろが、当日になってさらに西軍に裏切り者が出ます。

・赤座直保
・朽木元綱
・脇坂安治
・小川祐忠

こちらの4名が秀秋軍に加担して西軍を攻撃し始めたため、大谷軍は崩壊した――そんな見方が自然ではないでしょうか。

なんせ関ヶ原後については(脇坂安治以外は)、小川と赤座が改易、朽木が減封処分にされています。東軍の勝利に最大級の貢献したにもかかわらず、です。

まぁ、それだけ土壇場での裏切りが汚い行為だとされたのでしょう。

 

戦後わずか2年で亡くなり御家も潰され

関ヶ原後の小早川秀秋は、功績として宇喜多秀家の旧領・岡山50万石を貰いました。

しかし、秀秋自身がそれからわずか2年で亡くなった上に子供がいなかったので、小早川家は無嗣断絶&改易という最悪の末路をたどります。

もし毛利本家を継いでいたら……ゴクリ……って、さすがに別の跡継ぎがいたでしょうか。

死因についてはよくわかっておらず、

「秀秋の裏切りのせいで自害するハメになった大谷吉継に呪われた」

なんて話もありますね。

岡山に移って以降、家臣の出奔や家臣同士の刃傷沙汰など、よろしくないことが立て続けに起きた上で当主が亡くなったのですから、いかにもという話ではあります。

大谷吉継に恐れる小早川秀秋を描いた「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」月岡芳年/wikipediaより引用

現実的に考えれば、

「自らの行動を悔いてノイローゼ状態になり、自殺した」

辺りが妥当でしょうか。

どうにも「根っからの大悪人」というより「周囲に振り回され続けた哀れな人」というほうがしっくりくるんですよね。

決して不真面目とかバカ殿というわけではなかったらしく、地元では農民保護のため内政を重んじたりと、そこそこ良い領主だったようなので余計残念です。

もし秀秋が、秀頼の後見人だったら?

毛利本家を継いでいたら?

最初から東軍につくことを明言していたら?

「歴史にIFは厳禁である」というのがお馴染みながら、この振り回されっぷりを見るとどうしてもそう考えたくなってしまいます。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
小早川秀秋/wikipedia

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