お城野郎! 織田家

坂本城は琵琶湖ネットワークの要所 そして可成は見事な戦死を遂げた 【シリーズ信長の城vol.7】

更新日:

11月末になり寒くなってきた頃、朝倉家が天皇の仲介による和議を受け入れ、両軍撤退となりました。

朝倉、浅井にとっては絶好のチャンスを逸したのですが、朝倉家は雪が降る前に帰国したい一心で、その自覚が全くなかったようです。

信長と義昭が依頼して実現した天皇の勅命による和議は、特に織田家と浅井家に関わることが主な内容でした。両家の城について、何を残し、何を破却するか、つまりお互いの境界を明確に定めました。詳しい城名については記録が残っていません。

1970年(元亀元年)12月に和議がなり、元亀2年の1月、佐和山城の磯野員昌が包囲する織田家にあっさり降伏、佐和山城が織田家のものになっています。

ここで疑問ですが、境界を定めて和議がなったにも関わらず、織田家が引き続き佐和山城を包囲し続けることができるでしょうか。必ず停戦と同時に軍を撤退させるはずです。

しかし佐和山城の立ち退きが和議の条件に含まれていたと考えるとしっくりきます。

磯野員昌が織田家に寝返った理由についても信長公記の記述を追うと納得できます。佐和山城を開城して磯野員昌が小谷城に戻ろうとすると、浅井長政は員昌が織田家に通じていると思いこみ、員昌の母を殺してしまい、行き場を無くした員昌を信長が高島の領地を与えて家臣に引き立てたと書いてあります。

 

磯野員昌ほどの猛将かつ信頼厚い武将が簡単に織田家に降りたたのはちょっと考えられません。志賀の陣も朝倉・浅井が優勢のうちに終えていますので織田家に鞍替えするメリットもないでしょう。

織田家出仕後の磯野員昌のやる気の無さ(いい仕事しない)っぷりを考えると、織田家による離反の計があったようにも考えられます。もしくは敵地で孤立しながらも命がけで守ってきた佐和山城を、和議の紙切れ一枚で簡単に織田家に与えてしまった長政の失策に員昌が怒り、突発的に仲違いしたのかもしれません。

真相は不明ですが、いずれにしろ信長と義昭は、佐和山城の重要性など全くわからない公家に働きかけて和議の条件に盛り込み、信長最大の懸念事項だった佐和山城をまんまと手に入れたことは間違いありません。

佐和山城が手に入り、岐阜城から南近江へ至るルートが繋がりました。近江の一向一揆も制圧し、堅田の湖族に対しては当初、湖上の権利の剥奪を狙っていましたが、坂井政尚が反撃にあって戦死するなどしたので、逆に権利を認めることで支配下に置きます。

従う者には案外ゆる~いのも信長の統治の特徴でもあります。

 

延暦寺さん、お仕置きの時間ですよ(フリーザ様風)

しかし、従わない者には容赦しないのも信長の統治。

1571年(元亀2年)になって織田軍は急遽比叡山延暦寺を攻めます。泣かぬなら殺してしまえの典型例のような仏敵信長のイメージを作ってしまった出来事ですが、当時の畿内の寺院は城郭化していて、度々焼き討ちに遭っており、比叡山自体も歴史上、何度も焼き討ちに遭っています。

信長は前年に「朝倉、浅井に味方するな」という勧告を受け入れなかった延暦寺に相当な恨みを持っていたと考えられてはいます。が、天下布武を公に掲げるような統治者が恨みつらみだけで行動を起こすようなことはしません。

前回の洛外の城郭について少し紹介しましたが、近江方面からの京の防衛については時の統治者たちにとっては長年の懸案事項でした。それは比叡山の延暦寺によって京へ至る重要な進軍ルートの一つが押さえられているからです。将軍は城を造らないという洛中の非現実的な感覚のままでいた時は、何度も近江方面から京への軍の侵入を許しました。

三好長慶の時代になって将軍山城が築城されたり、第12代将軍・足利義晴の時代には銀閣寺の裏山に中尾城などが築城されました。これすべて比叡山方面の押さえとして城が造られています。

しかしより高所で、しかも軍の駐留が可能な場所は延暦寺が押さえており、洛外の諸城も所詮、自領内を固めるための城であって「攻めの城」ではないため、これらの城を持ってして延暦寺や近江方面の侵入者を脅かすものではありませんでした。

 

信長も、上洛後はこの難題がずっと懸案事項で、織田方は京へ至る複数の道路を封鎖して、道路を架け替え宇佐山城の下を通過する道しか通行を許可しないという方法を取りました。宇佐山城は山城で、おそらく岐阜城のイージスシステムをこの地に導入しようとしたのでしょう。

戦には負けましたが、朝倉・浅井の坂本侵入をいち早く察知し待ち構えることができました。また、宇佐山城自体の防御能力も坂本の戦い後にやって来た朝倉・浅井連合軍を撤退させ、有効性を証明しました。しかし宇佐山城より標高が高い比叡山に対しては、坂本から比叡山に登り、そこから直接、上洛できるので宇佐山城のイージスシステムが機能しません。

実際、比叡山に陣取った朝倉・浅井に対して信長は手も足も出ませんでした。こうなると比叡山から延暦寺を追い出さなければ京の安全は今後も保障できないと考えるのは当然でしょう。

ここで普通の人であれば、「しかし相手は何百年も続く宗教施設・・・」と考えてしまいますが、何事も合理的に考える信長にとっては「出て行かないなら排除!俺様の指示無視したし!」となります。
かくして延暦寺攻めは始まりますが、信長の目的はあくまで京都の安全保障の強化だったことを念頭に置くと、延暦寺焼き討ちから坂本城完成までの流れが、京都100年の懸念事項を一気に払拭した信長さんグッジョブ!な諸行だったことが分かります。

 

延暦寺焼き討ち後、門前町だった坂本の町は完全に信長の支配下に入りました。

年初に信長は佐和山城を手に入れていますので、佐和山城―宇佐山城間の湖上の後詰ルートを確保。これで遠く敦賀から琵琶湖北岸経由で京に入ってくる物資や人の流れを掌握することが可能になりますし、岐阜城から湖上ルートで上洛することも可能です。

何より複数の進軍ルートを確保することは軍事上必須です。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20151208-9

©2015Google,ZENRIN

そこで信長は坂本の地に新たに「坂本城」を築城します。

この坂本城は延暦寺攻めで功績のあった明智光秀の居城として有名ですね。当時では珍しく琵琶湖に突き出た水城だったといわれています。また天守も備えた現代でもおなじみのお城の形をしていたものと考えられています。しかし坂本城の能力はこんなものではありません。

坂本城は坂本から比叡山へ入る道も管理することが可能で、さらに大津方面にも陸路、水路ともに素早い出撃を可能にします。同時に坂本の商業利権も支配下に置くことができます。広大な琵琶湖には遮るものがないので、宇佐山城のような山の上に行かなくとも湖のほとりに天守を建造し、湖上の支城ネットワークで哨戒網を形成すれば十分にイージスシステムが機能するのです。

これでようやく京都防衛の100年の悩みであった近江方面からの防衛力強化を達成しました。長年に渡って様々な支配者による様々な防衛の試みがなされてきましたが、正解は延暦寺制圧と坂本の地に築城することだったのです。

 

この地域への築城は秀吉、家康の時代になっても踏襲されます。秀吉は坂本城を廃城にして大津に「大津城」を築城します。

坂本城は琵琶湖対岸への素早い出撃も念頭に置いた「攻めの城」でした。敵対勢力を坂本城ではなく琵琶湖の対岸で迎え撃つためにより出撃しやすい湖上のほとりに位置しています。
秀吉の時代は全国統一されていますので、攻めの城としての要素より、琵琶湖の水運と大津の大商業地を取り込むための城として重きを置かれます。関ヶ原の戦いでは西軍に攻められてあっさり落城してしまったように、軍事的には要害の地ではなかったことが分かります。

家康の時代になると江戸と京を結ぶ東海道の強化が重要となりますので、陸路の東海道により近く、古来より要衝の瀬田の防衛も念頭に置いた場所に築城されます。これが「膳所城(ぜぜじょう)」です。

このようにこの地の築城は時代や統治者の築城思想を反映していますが、同地域への築城が近江の商業利権を押さえるだけでなく、京都の防衛に最重要な場所だったことは、いつの時代も共通認識としてあったことが分かります。

坂本城築城以後、京の町が戦乱に巻き込まれるという戦国時代の風物詩がピッタリやんだことが何よりの証明です。

坂本城築城をもって宇佐山城は無用となり廃城になりました。

森可成の死が悔やまれますが、信長は彼の死をもってこの地の重要性をあらためて認識したのではないでしょうか。

安土城がなぜあの地に築城された?

それもこれも信長の城の集大成がこの琵琶湖を取り巻く支城ネットワークであり、琵琶湖そのものを巨大な水堀として安土城に取り込んだ超時空要塞だったことがみえてきましたね!

続きは次回で!

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 



-お城野郎!, 織田家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.