船倉にいた日本人奴隷の娘。
性的搾取されると悟ったミゲルは怒り、水夫と争いになります。
これを見て、
「水夫ってゲスだなあ」
で終わりだと思いますか?
彼女を捕まえて、海外へと売り払ったのは誰でしょうか。
日本人です。
「金銭欲しさに売り飛ばす日本人に罪がある」
「見て見ぬ振りをするのか!」
そう、ハッキリ言い切る。
そしてここで、売る日本人も、見逃す宣教師も悪いということを描くのです。
本作は、西洋人だけが悪いということも、日本人だけが悪いということもありません。
「日本人をバカにして、悪く描くつもりか!」
「西洋人をこんなふうに描いて、抗議されるんじゃないの?」
とお思いの方。
そんな心配は、世界では無用のことです(これについては後述)。
怒るミゲルに対して、マルティノは冷たい。
逆らっても水夫には勝てない、この程度で動揺してどうするのかと言い切ります。
マルティノは冷たくて、何かスッキリしない。
そう思いますか?
自分はマルティノではないと断言できますか?
想像してみてください。
あなたは大学入試のため、会場へ向かう電車に友人と一緒に乗っているとします。
そんな目の前で、受験生らしき女子高生が痴漢に遭っていた。
「許せない、あいつを警察に突き出してやる!」
そう友人が言い出したとして、あなたはスンナリ賛同できますか?
「やめとけよ。痴漢なんてよくあることだろ。そんなことをしたら試験に間に合わないじゃないか」
そうなったとして、それは仕方のないことではない……マルティノは、そういう現実感のある言動でもあるのです。
ミゲルのような熱血漢が、若い娘を救い出す。
そんなファンタジックな勧善懲悪と本作は無縁。
カッコイイヒーローがバタバタと倒して爽快感がある!なんてドラマは時代遅れです。
ミゲルは、マカオで売り飛ばされる奴隷少女を見て心を痛め、肩を落とすしかありません。
この時代は、今とはちがう。
不正義、差別、虐待がまだまだ残されていた。
日本だけではなく、世界中がそうでした。そこを避けずに描いてこそ、歴史ドラマの意義があるのです。
ミゲルはもうここから先は旅を続けられないと、漏らします。
奴隷となった彼女がミゲルに向ける目。それに対する答えは、船を下りることだ。そう考え始めたのです。
彼女はどうなるのか?
歴史から想像はつきます。
性的に搾取された挙げ句、殺されてしまうか。
運良く生き延びたとしても、加齢と共に路上に放り出されるか。
彼女のような日本人奴隷がいたこと。そのことを忘れてはなりません。
お好きな項目に飛べる目次
あの娘は積み荷なのか? 答えろ!
マンショはミゲルの決意を、ヴァリニャーノに伝えます。
あの人間はただの積み荷に過ぎないのか?と、問いかけるのです。
「ミゲルの問いに答えろ!」
ヴァリニャーノは、何も言えない。ただ悩むしかない。
メスキータは、ヴァリニャーノの試みは失敗する、日本人を買いかぶっていると言い出しました。
盲目的についてくる連中じゃありませんね、と意地悪く言うわけです。
ちなみにここで、”blindly”(盲目的な)という単語が出てきます。
はい、これが海外ドラマの世界です。
日本ですと、この言い回しは自主規制にひっかかる可能性がありますね。
世界基準と日本はちがう。この点は大変重要です。
宣教師側の生々しい本音。
日本人なんてホイホイ布教できるだろうとなめてかかったところも見えました。
でも、そうじゃなかった。
そういった表現も、実はなかなかホットなところなんです。
昨今は、宣教師書簡の「日本人スゴーイ!」という部分ばかりが出回っておりますが……。
それらの賞賛、実は、
「ホイホイ布教できるいいカモがいた!」
って意味と表裏一体なんです。
その証拠に、彼等は、布教に抵抗が見え始めると、一転して貶し始めておりますからね。
「あいつらは野蛮だし、暴力的だし、性的にだらしがないし、恥知らずだし、とんだ見込み違いだった……」
と失望していたりします。
そういう都合の悪い部分は、今の日本ではあまり周知されません。
されたとしてもスルーされるのが現実でしょう。
だって、ちょっと考えてみてくださいよ。
命を賭して船に乗り込み、わざわざ「日本スゴーイデスネ!」とだけ言うために来ますか?
飛行機数時間で来れる現代じゃあるまいし。
時代は宗教改革の最中だった
世界地図が表示され、地球が東西に分断されました。
西がスペイン、東がポルトガル。
世界を植民地にすべく両国が支配地域を二分したと説明されるのですね。
トルデシリャス条約、サラゴサ条約です。
しかし、宗教改革の頃から、実は、このイベリア半島の両国は下火に向かっています。
プロテスタントのヤバイ奴らが反撃に出るからです。
イギリス「どうも〜、地球の裏側から来ましたァん、海賊で〜す!!」
他国「や、や、やめてください!」
英国紳士どころか、本当に海賊ですからタチが悪い。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』あたりでは、ファンタジックなお宝を奪い合ってますけどね。
その実態は
「スペイン船を襲って奴隷だの銀塊だの奪うと、最高に儲かるぜーッ!」
という無法者でした。
例えば、イギリス人のウィリアム・アダムスを日本で見た宣教師たちも、うろたえまくって徳川家康に訴えております。
「あいつは海賊ですよ! とんでもない極悪人ですって!」
このようにカトリックがプロテスタント(&海賊)に追い詰められていること。
とても大事な要素ですので、世界史の苦手な方は頭の隅にでも入れおいてください。
なお、実は斜陽のスペインで、奮闘した剣客を描いた映画があります。
『アラトリステ』です。
邦訳小説もありますので、当時のスペインに興味が湧いたら見てくださいね。
この作品は、滅び行く栄華を描いた傑作です。
ドラードという通訳
一行はインドのゴアに立ち寄ります。
そこはポルトガルの植民地。
この後、またアイツらがやらかします。
イギリス「どうも〜、西から来ましたァん! 植民地にしますね〜!」
インド「やめてください!」
まぁ、ドラマでは、まだそうなるだいぶ前の話。
イギリスの前はポルトガルに支配されていたんですね。
それにしても、この海外ロケがすごい……燭台ひとつとっても美麗で、ため息しかでない……。
日本の歴史ドラマでは、もうこの水準はどう頑張ったって無理でしょう。
画面の中の精緻なセット。
視聴者が一つ一つに目を奪われていると、そこへコンスタンティノ・ドラードが登場します。
彼は、先へ進みたがらない少年の説得を頼まれていたのでした。
しかし、ここでメスキータが前へ。
少年たちに向かい、「おまえらは三賢人に仕立てられるのだ」ともくろみを暴露してしまいます。
四人だということは、つまり一人の死人も計算されている。
ヴァリニャーノは金目当て・名声目当で、少年たちは単なる操り人形だ――と、色々と吹き込まれるんですね。
ドラードもミゲルから真意を問われました。
「すごいことだ」とドラードが言うわけですが、これも考えようによっては実に切ないのです。
ミゲルは、日本語を話すことができて、見た目は東洋人であるドラードに「あなたは日本人なのか?」と尋ねます。
と、ここで彼の出自が明らかになりました。
父はポルトガル人、母は日本人。
辛い設定ですね……。もしかしたら彼の母は、あの日本人少女のような境遇であったのかもしれません。
白人でないからには、よくて妾、悪ければ性奴隷です。
そしてその間に生まれた子は、生まれながらの奴隷扱いとされるのです。
通訳であるドラードは、扱いはよいものの身分としては奴隷です。
純血ではない、日本生まれでもないドラードには、そんな名誉はない。生まれたときから、彼は奴隷でしかないのです。
東と西を繋ぐもの
このあと、ゴアの恵みであるという晩餐がスタート。
いきなり給仕に失敗してしまった奴隷が、宣教師から怒鳴りつけられます。
そこにあるのは、露骨な差別です。正義感の強いミゲルには耐えがたい光景。
ヴァリニャーノの熱意あふれる説教も、ミゲルの耳には届きません。
イエスは、人間の苦しみや哀しさを分かち合おうとしたとセミナリオで習った。
それなのに、鎖に繋がれた奴隷に慈愛を示せないのか?
肌のちがう人間は、奴隷となるために生まれてきたのか?
そう問いかけるミゲル。同じ日本人なのに、かたや奴隷、かたやローマに向かう。その違いは何か?
答えがないのであれば、自分も降りるとマンショは立ち上がります。
言葉に詰まるヴァリニャーノに、メスキータが知らせを持って来ます。
インド管区長に任命――つまり彼は、ここから先の同行ができなくなってしまうのです。
メスキータとカブラルの計略なのか?
激怒するヴァリニャーノは、自分の情熱を語り始めました。
すべてはイエズス会のため。しかし私の行動は過剰で、「イエズス会を牛耳ろうとしている」と誤解する者もいる。
そういうことじゃない。
自分はただ、少年を法皇に会わせて東西を繋ぎたかったのだ。
二人の少年はこれ以上進めないと言い始め、ヴァリニャーノもインドに留まるしかない。
情熱が頓挫してしまったのは、デウスの諫めたこと、そう語り、倒れてしまいます。
インドの気候と病原菌は、植民地にやって来た人を苦しめたものでした。
海に風が戻りました。こうなればスグにでも出立しなければなりません。
ヴァリニャーノは、「聡明で、疑問を抱く人間にこそ、西洋を見て欲しい」と頼みます。
そういう人間こそが、ふたつの文化を繋ぐことが出来る――これは本作の目指すところを突いたセリフだと思います。
ドラードは、マンショに生い立ちを語り始めました。
ポルトガル人との子を宿した母は、ドラードを出産したあと、日本で村からつまはじきにされてしまったのです。
こういうことが、戦国時代にはよくありました。
村はずれで何の助けもないまま生きてゆけと放り出されてしまうのです。
『おんな城主 直虎』にも出てきた、解死人(のちの瀬戸方久・ムロツヨシさん)がそうでしたね。
そこには、彼らなりの生きるための知恵、ひどい言い方をすれば「使い途」もあるのですが、だからといってそれがよいというものでもありません。
こうした中世の冷酷さが改善されていったのが江戸時代です。
もっとも根絶できたわけではありませんが……。
ドラードの母は、宣教師の助けを得てインドに渡りました。
そして東西の間にあるインドで、両方の良いところと悪いところを見てきたと語ります。
それはヴァリニャーノも同じであると、ドラードは語るのです。
答えの出ない問いを抱くこと――ヴァリニャーノ、信長、マンショに通じることかもしれない。
本作の人物は、疑問を抱き続けます。
だからこそ、マンショは船に乗るとミゲルに告げます。ミゲルには「信長からの問いかけを知りたい」と語りますが、ミゲルには理解できない話なのです。
やっぱりこの三人は、精神の世界にいる。そう思えてきます。
凪、静かな恐怖
メスキータの引率で、インド洋を渡る一行。
しかし、ここで恐ろしい事態に陥ります。
嵐よりも怖い凪(なぎ)――。
大海のど真ん中で船はまったく動かなくなってしまいました。
水は減り、水夫も苦しむばかり。最も恐ろしい事態です。
恐ろしいのは、その映像でしょう。
大海原のど真ん中に帆船がいる! ああ、潤沢な制作資金がそこにはある、ハァ……。
いや、船の苦しみに目を向けましょう。
水不足で錯乱のあまり、海水を飲もうとする水夫も現れました。
が、塩分の含まれた海水を飲んでも渇きが悪化して、余計に苦しむだけ。蒸留装置があればいいんですけどね。
こういう船の残酷さって、身分によって致死率が変わります。
当時でしたら、当然ながら有色人種の水夫から先に死んでゆく。
三賢人になぞらえた使節よりも、苦しんでいる人がいるのです。
これ以上無風だと、もう死んでしまう――そう怯えるジュリアンに、幽霊船のうんちくを語るマルティノ。
あー、いますよね、非常時でもトリビアを言いたい奴!
こういう生々しい苦しみって、海賊映画では見られませんが、実際に当時あったことです。
弱気になる一行を、怒鳴りたしなめるマンショ。
何がなんでも生き延びるのだと、彼は誓っています。
ちなみに壊血病も、罹患する者は水夫ばかりでした。
食事に野菜や肉を加えることのできた身分ある人は、罹患率が低かった。
これをヒントに、イギリス海軍はライム果汁の支給を思いつきます。イギリス人の蔑称である「ライム野郎」(Limey)の由来ですね。
イギリス海軍由来のカクテルであるグロッグも、現在はレモン果汁を使いますが、もともとはライム果汁でした。
ちなみに明代・鄭和による大航海の場合、船内で野菜栽培ができたために壊血病にはならなかったとか。
これもスゴイ話なんですよ。
東の王は、もうこの世にいない
風が吹き、船が動き出し始めました。
海を眺めるマンショに、ドラードはあの事件を告げます。
「本能寺の変」です。
ヴァリニャーノは、マンショが旅をやめることを警戒し、口止めしていたのでした。
夜、リュートの調べを聞きながら、考えこむマンショ。
って、リュートか!
こういうの、大河じゃなかなか出せないだろうなあ。ワンシーンのために、これを準備するのは大変だもの。
その脳裏に浮かぶ、信長の姿です。
いやぁ、コレっすわ!
コレが正しい「本能寺の変」処理な!
『真田丸』につけられた難癖として、
「本能寺の変」と「関ヶ原の戦い」本戦があっけない
というものがありました。
『ネタですよね? 本気じゃないよね?』
と思ったものですが、事件の重要性を決めるのは、当事者との関連度合い、そして制作側の姿勢です。
「視聴者はあの大事件がやっぱり見たいんだよ!」
というような声におもねっては、ブレるだけです。
この潔い処理こそ、世界基準です。
「本能寺の変」に不思議少女・江ちゃんが登場するような悲劇は、もうエエから!
続きは次ページへ