幕末・維新

「明治の紫式部」と呼ばれた税所敦子~激動の京都&薩摩で才能開花

西郷隆盛を筆頭に大久保利通小松帯刀島津久光島津斉彬など。

幕末維新で数多の英傑を輩出した豪傑・薩摩藩では、女性が活躍する場など皆無だろうなぁ……なんて考えてしまいがちです。

しかし、そんな薩摩において、京都から移り住み、歌人として名を成した女性がいます。

税所敦子(さいしょ あつこ)――。

篤姫らと同じ幕末を生き抜き才能を開花させ、「明治の紫式部」と讃えられた女性。

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知られざる才媛の生涯を追ってみましょう。

 

父は歌人 自らも幼き頃より歌を習い、見初められ

税所敦子は、文政8年(1825年)、京都の公家侍・林篤国の娘として生まれました。

父・敦国は歌人として名高く、自宅で歌会が開催されるような家庭環境。敦子もまた、歌人・千種有功(ちぐさ ありこと)に歌を習うようになりました。

才能を開花させた敦子を、見初めたのは薩摩藩士・税所篤之。

篤之は妻と別れ、子を国元に預け京都で暮らしておりました。

和歌だけではなく絵画も得意とする、文化的な男性であり、彼もまた、千種有功の元で歌を学んでいたのです。

縁あって、二十歳の敦子は篤之に嫁ぎます。弘化元年(1844年)のことでした。

 

残された娘と共に薩摩へ

文化人肌とはいえ、篤之は薩摩隼人でもあります。

女を人として扱うことは、薩摩隼人にとっては恥に他なりません。

敦子はそんな薩摩隼人のことは知らないため「私に問題があるのだ」と忍従しました。今の女性ならキレそう、と思う人もいるとは思いますが、当時の女性でもキレる人は多いと思います……。

この結婚生活は長続きしませんでした。

離婚したのではありません。

篤之が肺を煩い、28才という若さで死去したのです。彼との間にさずかった男児も夭折してしまいました。

ならば実家に戻ってもよいところですが、敦子はそうはしません。残された幼い娘とともに、姑に孝養を尽くすため薩摩へと向かったのでした。

 

【鬼婆などと人はいうなり】に上の句をつけてみよ!

見ず知らずの土地に向かった敦子。そこには、姑と、篤之と前妻の間にできた女子二人が待っていました。

この姑が、メロドラマに出てくるような、意地の悪い女性でして。周囲の人も、ひそかに「あの鬼婆」と陰口を叩いていたとか。

姑は三人の娘を懸命に育てる敦子に、きつく当たります。

それでも敦子は「私がまだまだ足りないのだ」と堪え忍び、孝養を尽くします。

そんな姑はある日、虫の居所が悪かったのでしょう。こんなことを言ってきました。

「お前は歌を作るのが得意と聞いた。ではこの歌に上の句をつけてみなさい」

そう言って姑が差しだしてきたのは、こんな下の句でした。

【鬼婆などと人はいうなり】

なんとも難題を吹っかけてくる婆ぁめ!
と、並の読み手なら詰まって逃げ出したくなるでしょうが、敦子はジッと考えこんだあと、こう上の句をつけました。
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