禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

幕末・維新

禁門の変(蛤御門の変)御所に発砲した長州と天皇の意を汲んだ会津の因縁が

元治元年(1864年)6月。
応仁の乱」以来の戦火が、京都に燃え広がりました。

幕末を描く上では欠かせない禁門の変(蛤御門の変)です。

畿内地方を見渡してみても大坂夏の陣以来となるこの戦乱は、

【長州藩】
vs
【会津&薩摩藩】

という構図で行われたもの。

京都は荒廃し、明治維新の後に天皇家が関東へ移される一因になったともされています。

一体何が原因でこんなことが起こったのか?

その背後には、孝明天皇をめぐる激しい争い。

そして、あまり語られることのない【孝明天皇ご自身の意志】と【会津藩への思い】がありました。

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「禁門の変」概略

はじめに「禁門の変」の概略だけマトメておきます。

本編は概略の後に続きますので、ここは飛ばして読まれても問題ございません(あるいは本編の後に確認されるとスッキリ整理できるかも)。

5W1H

Who:会津藩&薩摩藩他 vs 長州藩尊皇攘夷過激化・尊王攘夷派派諸藩士

When:元治元年7月19日(1864年8月20日)

Where:京都郊外および市街広域

Why:「八月十八日の政変」で朝廷を追放された長州藩進発派が、政治復帰を狙い進軍

How:久坂玄瑞は嘆願のみが目的であったものの、来島又兵衛が「君側の奸(会津・薩摩)」討伐を主張し、武力衝突に発展した

What:会津藩・薩摩藩らの勝利。久坂玄瑞、入江九一、来島又兵衛、真木和泉らが敗死

影響1:六角獄に捕らわれていた足利三代木像梟首事件、池田屋事件関係者は、このあと処刑される

影響2:長州藩は朝敵認定され、孝明天皇の強い希望で討伐対象となる

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犠牲者数(諸説あり)

長州:265
会津:60
越前:15
彦根:9
薩摩:8
桑名:3
淀:2

「どんどん焼け」の被害

どんどん焼けとは、同変に伴い京都市街を焼失した大火災であり、その被害は甚大なものとなりました。

鎮圧までの日数:3

焼失した公卿の邸宅:鷹司邸付の数十家

焼失した武家屋敷:51

焼失した民家等:約28,000

※以下、本編へ

 

本編「八月十八日の政変」から確認

「禁門の変」については、最初に【八月十八日の政変】まで遡っておいた方がよいでしょう。

いずれも

【京都】
【孝明天皇】
【長州藩】

がキーワードになっていて、歴史の流れが続いています。

それは文久3年(1863年)のこと。孝明天皇はあることに深く悩まされていました。

出した覚えのない勅令が勝手にくだされているのです。

とはいえ心当たりはありました。

長州藩尊王攘夷派と息の合う公卿です。彼らが長州藩に利となる勅を勝手に出しておりました。

孝明天皇に我慢の限界が訪れたのは「大和行幸」計画を知った辺りです。

天皇自ら

・神武天皇陵
・春日社(春日大社)
伊勢神宮

に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げる――そんな計画でした。

要は、天皇の権威で、幕府に攘夷への強いプレッシャーをかけようというわけですね。

孝明天皇は、そんなコト、微塵も望んでおりません。

ご自身は、むしろ公武合体策を支持しており、長州藩の無茶振りで幕府と仲が悪くのは心外だったのです。

天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。

「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」

思いは、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職の会津藩に伝わりました。

かくして文久3年(1863年)8月18日深夜。薩摩と会津の兵に警護された「御所」から、以下の勅旨が出されるのです。

・大和行幸の延期

・国事参事、国事寄人の廃止

三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止

長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありません。

おまけに孝明天皇は、この事件の後に、こう断言しました。

「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」
【18日以後に出されたものこそ、自分の本当の意見である】ということですね。

これは尊王攘夷過激派との決別宣言ともとれるものでした。

※同政変についても5W1Hを整理しておきました(すぐに本編へ続きます)

「八月十八日の政変」マトメ

Who:会津藩・薩摩藩他※孝明天皇サイド vs 長州藩尊皇攘夷過激派および彼らと親しい公卿(七卿)

When:文久3年8月18日(1863年9月30日)

Where:京都

Why:「大和行幸」計画で我慢の限界に達した孝明天皇が、長州藩過激派と彼らに近い公卿の追放を求めた

How:孝明天皇による勅旨

What:勅旨による対象者追放が決定(他は後述)

影響:「禁門の変」に連動

 

リベンジへの炎を燃やす長州藩

天皇の勅旨にもかかわらず、追い出された長州藩や尊皇攘夷過激派は、まったく納得できません。

彼らはこう考えていました。

「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いのは、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」

長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子が先祖とされており、どの大名よりも皇室朝廷に近い、別格の藩だというプライドがありました。

それなのに、薩摩と会津はそこへ割り込んできたわけです。

薩摩藩は、生麦事件からの薩英戦争を行ったことで、長州藩がリードしていた攘夷派として台頭。

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会津藩主・松平容保は、長州藩をさしおいて、孝明天皇の信頼を勝ち取っていました。

松平容保/wikipediaより引用

そんな目障りな薩摩と会津によって【八月十八日の政変】を起こされたのですから、怒りがつのって仕方ないわけです。

憎しみが極限に達するあまり、長州藩士の中には「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。

その程度で気持ちがおさまらない者もいます。

彼らはさらに過激な行動に出ました。

薩英戦争での和睦後、イギリスと密貿易を行っていた薩摩船を砲撃&撃沈したり、「国父」島津久光殺害予告を大坂にバラ撒いたり。

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むろん薩摩藩としても、はらわた煮えくり返っていましたが、密貿易が絡んでいたこともあり表沙汰にはできず、耐え忍ぶほかありません。

 

巻き返しの機は熟したのか?

一方、長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。

確かに、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)は始まりました。

が、参加者たちの主張がぶつかり、まとまりを欠いてしまったのです。

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こうした状況を受け、

「今こそわしらの出番じゃないか!」
「いや、それは無謀、時期尚早じゃ!」

長州藩内から、巻き返しの声(進発派)とそれに対する反対論(慎重派)が噴出してきます。

慎重派:高杉晋作、周布政之介

進発派:久坂玄瑞

結果、高杉と周布が失脚して、進発派が主導権を掌握。

しかし彼らが京都へ向かう直前に、衝撃的な事件が起こります。

【池田屋事件】です。

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事件のあらましを説明しますと、

【京都市街を放火して、長州へ孝明天皇をお連れしよう】

と考えていた主に長州の者たちが約30名、池田屋に潜んでおり、その情報を聞きつけた新選組が7名を斬殺、23名を捕縛したというものです。

近藤勇沖田総司永倉新八などのスターが揃っており、事件としては有名ですね。

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なお、幕末は【◯◯屋事件】がややこしくなるので、一応、以下に補足しておきますと……。

寺田屋事件(1862年)……薩摩藩内での内輪揉め
◆池田屋事件(1864年)……主に長州 vs 新選組←今日のテーマ
◆寺田屋事件(1866年)……伏見奉行が坂本龍馬を襲撃・龍馬逃げる
◆近江屋事件(1867年)……坂本龍馬が暗殺される

池田屋事件の影響は小さくありませんでした。

「池田屋事件」が「禁門の変」の引き金になったとする解釈もあり、その結果、明治維新を早めたとも言われています。

◆八月十八日の政変

◆禁門の変

というより

◆八月十八日の政変

◆池田屋事件

◆禁門の変

こんな流れですね。

しかし、長州藩が計画していたという【天皇誘拐説】については、本当に存在したのか?ということを巡って諸説あり、現代の感覚を差し引いたとしても、無謀なプランに見えます。

さすがに本気で考えるワケがない。

そう思ってしまいますが、なにぶんこの時期、久坂玄瑞が主導した長州藩の尊皇攘夷は、過激の一言に尽きます。

長州藩進発派の上洛前夜に事件は起きており、無関係とは考えにくいのです。

【長州藩進発派が京都で何か物騒な準備をしている】ということを新選組に察知された可能性は十分に考えられるでしょう。

さすがにその【何か】が【天皇の誘拐計画】とまでは気付かなかったかもしれませんが。

いずれにせよ、同事件で長州藩士は「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、多くの犠牲者が出ました。

吉田稔麿/Wikipediaより引用

この池田屋事件が起きたために、長州藩の進発計画は弔い合戦の様相も帯びてきたわけです。

「おのれ壬生狼め、この仇はきっと取っちゃるけぇな!」

そうヒートアップし、引き返せなくなった可能性は、十分に考えられます。
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