幕末・維新

原田左之助(新選組・十番隊組長)は幕末をひたむきに生きた青年剣士

漫画『るろうに剣心』で、主人公・緋村剣心と共に戦う人物がいます。

相楽左之助――。

明るく漢気にあふれた彼の名前、幕末に生きて散った二人の人物から取られていました。

相楽総三赤報隊長)

原田左之助新選組・十番隊組長)

近藤勇土方歳三沖田総司などの幹部でもなく、永倉新八斎藤一のように明治を生き抜いたわけでもない。

それでも「馬賊になった」という伝説があるほど人気者だった快男児・原田左之助。

本稿では、この原田左之助に注目してみたいと思います。

 

左之助は苦み走ったいい男

原田左之助といえば、トレードマークがあります。

それは腹部に走る横一文字の傷痕(きずあと)。

要は、切腹未遂による痕でした。

現代人からすれば、一体何なのかと不思議に思えるかもしれません。

しかし、時代は江戸です。

梅毒が「花柳病(=遊郭で罹る遊び人の病気)」とされるような価値観があり、切腹の痕も、こんな風に褒められるものでした。

「すげえじゃねえか! あいつァ、生きるか死ぬかの喧嘩をするほど鉄火肌ってことでぇ」

江戸っ子の鉄火肌。人情。オラつき。

火事と喧嘩が華であり、火消しに喝采を送る庶民にとっては、むしろ大絶賛する傷跡だったのです。

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腹部の傷がアピールできるのは、当時の服飾事情も影響しております。

ご存知の通り、江戸は高温多湿です。

露出が高く、過ごしやすさを求めた江戸っ子の知恵でした。

例えば当時の写真をご覧いただくと、次のような様子が見てとれます。

・幕臣や旗本、武家の奥方であっても、着付けはかなりゆるい

・乳房がいやらしいという意識が希薄であることもあり、女性だろうとギリギリ限界まで胸元をはだける

・飛脚、職人、足軽ともなれば、夏場や労働時は褌一丁でも問題なし!

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現代人にとって、夏場の無駄毛処理といえば女性の手足や脇の下のものというイメージがあります。

江戸時代はそうではありません。

モテを気にする男性は、尻の割れ目周辺の無駄毛処理に気を使っていました。

当時の下着は褌(ふんどし)。

裾をはだけるにせよ、褌だけで歩くにせよ、無駄毛があればこうなります。

「キモっ! 褌で歩く江戸っ子なのに、無駄毛ボーボーとかありえなくない?」

イケてる男は尻まで気遣う必要があったんですねー。

はい、江戸っ子の無駄毛処理事情はこのへんまでとしまして、原田の傷痕。

腹部まであらわにした足軽中間で、腹部にうっすらと切腹のあと……これがどんだけイケてるか!

「マジで? マジでやばくない? 見た目だけでなくて漢気まであふれているとかすごくね!!」

江戸の娘がうっとりする。男だってお友達になりたい。

そんな無茶苦茶かっこいい存在――それが原田左之助でした。

原田左之助は、容貌についてこう言われております。

「苦み走ったいい男でねえ……」

今となっては「小股の切れ上がったいい女」と並ぶ謎めいた表現ですが、ともかく以下のような評判でした。

・シブい、凛々しい、美形である

・無口でとっつきにくいようで、慣れてくると人情味がある

・なんか頼りがいがありそう

映像表現ですと、東映仁侠もの、ヤクザ路線でしょうか。

鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さんあたりが典型例とされております。

 

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そんな二人とはタイプが違い、シブくてイケてる男。

本稿では原田左之助の生涯を見ていきます。

 

松山藩の足軽

原田左之助は天保11年(1840年)、松山藩の城下・矢矧町(現・松山市緑町)で生まれました。

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身分は中間――武家の身分でも最下層の足軽でした。

大名行列で槍を捧げ持ち、挟み箱(長柄つきの箱)を運んでいる姿をご想像ください。

 

左之助は安政2年(1855年)、江戸三田藩屋敷で小使として働くこととなりました。

帰国して若党をつとめたこともありますが、気が荒かったのか、その3年後の安政5年前後には出奔。このとき、止めようとした相手の武士と揉めております。

どうやら相手は、こういう挑発をしたようです。

「腹の切り方も知らぬ下劣な輩めが」

そこで原田は「切腹の作法くらい知っている」とばかりに、腹を切ってアピールしたのでした。

腹部をかっさばいて死ぬとなるとなかなか難易度が高く、そのため介錯人がいるわけですが、だからといっていきなりやらかすのは相当のものです。

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前述の通り、これが切腹の痕として残り、カッコいいアピールポイントになったのですから、当時の感性は興味深いものがあります。

「俺の腹は金物の味ってもんを知ってんのよ。“死に損ね左之助”たぁ俺のことよ」

「マジパネエな……左之助はよぉ!」

と、こうなったわけですね。

 

槍の名手

その後、大阪へ向かった左之助は、谷万太郎から槍術を学びました。

種田流とも、宝蔵院流ともされており、免許皆伝を受けると槍の名手として知られるようになります。

そんな原田が、どうして試衛館に出入りし、新選組に入るのか?

このあたりは不明瞭です。

永倉新八のように生存し、かつ語り残すこともなく、ハッキリとしていない。

ともかく試衛館には血気盛んな若者で盛り上がっており、その熱気や近藤勇の人徳にあこがれて、原田もやってきたのでしょう。

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文久年間になったばかりのころ、試衛館は得体の知れない連中がやたらと出入りするようになっておりました。

「なんでえ、あいつら、べえべえべえべえ……田舎くせえ連中だな」

道場近隣の江戸っ子たちはそう陰口を叩き、“肥溜め道場”というありがたくないあだ名すら付けられています。近藤らの訛りをからかっていたんですね。

そんな中で、原田はさぞやいきいきとしていたのだろうと想像したくもなりますが、そうでもなかったようでして。

得意の槍をとるわけでもない。

かといって、木剣や竹刀を手にするわけでもない。

道場に続く畳敷きでゴロゴロ寝てばかりだったとか。

土方歳三は、ふらりとそんな試衛館によく立ち寄りました。

家伝の石田散薬を入れた箱を置き、そのまま吉原の遊郭に行き、朝帰り。すると、原田や永倉といった連中が朝食をとっているわけです。

「ったく、近藤さんも人がいいもんだな……」

土方は挨拶するわけでもなく、横目で彼らをチラッと見るだけで立ち去っていたとか。

近藤勇は、わけのわからん原田を追い出すことはありません。むしろ寝場所と食事を提供したのでした。

関羽に憧れていたという近藤には、義を重んじる美風がありました。試衛館とは、さながら幕末梁山泊であったのです。

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のちに永倉や原田は「近藤の態度が変わった」と不満を募らせるようになります。

彼らの脳裏には、人徳に溢れ、器の大きい近藤の姿があったのでしょう。
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