江戸時代は武士の世。そのころ公家は何をしていたのか?
そんな問いに対して、サックリと正解例を挙げられる方は少ないことでしょう。
歴史ファンだとしても「僅かな禄をもらい、大名家や将軍家に嫁を嫁がせて……」ぐらいの印象しかない気がしますし、実際に語るべき事項が少ないからこそ、教科書などにもほとんど登場しません。
しかし――。
長い間、冷遇されてきた彼らにも、ついにスポットライトが当たる時代がやってきます。
【幕末】です。
教科書的には、確かに孝明天皇と岩倉具視を押さえればOKでしょう。
※以下は孝明天皇と岩倉具視の考察記事となります
孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志
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岩倉具視・薩長ではない幕末の下級貴族がなぜ明治政府の主要メンバーに選ばれた?
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しかしそれだけでは惜しいほど、多種多様に富んだ歴史がそこにはあります。
政治に関わった者。
挙兵に担ぎ上げられた者。
中には暗殺された者や、朝敵(天皇の敵)とされた皇族。
等々、思いのほかアグレッシブな動きをしている方もおられるのです。
本稿では、幕末の皇族や公家についてみましょう!
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極貧だった生活だから幕末で利用され……
まず最初に確認しておきたいのは、当時の彼らが基本的に「極貧だった」ということです。
一応、幕府から宮中の経費は捻出されますが常にギリギリ。
物価の上昇等があまり反映されないため、天皇家といえども生活は苦しいものでした。
しかも厄介なことに
【無駄な出費だからと言って冠婚葬祭をケチったりできない】
という事情もあります。そこら辺の庶民とは異なりますからね。
実際、生活の苦しさのあまり「袖の下で買収されていた」と思われる公卿もおります。
それが幕末という情勢下では、非常にややこしいことになります。
当時は、
【誰もが孝明天皇を称え、尊皇を口にしてはいるものの、実際に天皇の意志と一致していたとは限らない】
という事情があります。
初期の幕末はわかりやすいのです。
孝明天皇は外国人を嫌っており、開国した幕府にも嫌悪感を抱いていました。そのため「尊皇攘夷」を掲げる者は、天皇と意見が一致しておりました。
しかし、公武合体策として和宮が将軍家に嫁いだあたりから、途端に状況が変わって参ります。
孝明天皇は、14代将軍・徳川家茂や、京都守護職である会津藩主・松平容保のことをとても気に入っていました。
彼らとともに力を合わせて、難局を乗りきろうと考えていた。
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一方、これに困る勢力もおりました。
尊皇攘夷派の筆頭である長州藩や、その影響を受けた者たちです。
彼らは倒幕に傾倒していきますから、天皇と幕府勢力が近づいてもらっては困るわけです。
次第に彼らは危険分子と化していきます。
「こんなにも天皇家を思う俺たちのほうが、天皇自身よりわかっているはず! 俺たちの意見が天皇の意見だ!」
とまぁ、ありえない暴走を始めるのですね。
結果、孝明天皇のまったく身に覚えのない勅書まで出回る状況になり、ゲンナリするばかり。
京都でテロが起こる状況にもウンザリしておりました。
勝者の歴史のせいで混乱する幕末史
幕末では、過激な尊王攘夷派が排除される事件が多々あり、それには朝廷の意志が強く絡んでいた場合もあります。
例えば、有馬新七ら、薩摩藩の精忠組過激派が粛清された文久2年(1862年)の【寺田屋事件】もそうです。
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一応は島津久光の意志で起こったとされていますが、このとき久光は朝廷から「あなたの藩の過激派を何とかしてくださいよ」と命令を受けていました。
長州藩が京都に押し入り、主に会津藩と薩摩藩に迎撃された元治元年(1864年)の【禁門の変】も、孝明天皇は長州藩の掃討を願っておりました。
というと「アレっ?」って思いません?
薩摩は、天皇の言うことを聞いてるからまだいいとして……。長州が思いっきり天皇に嫌われとるやん!
むしろ幕府や会津藩こそが孝明天皇サイドだったのに、明治維新後は、まるで朝敵のごとく扱われている印象が強い。
どういうこっちゃ?
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これが「勝者の歴史」というものでしょう。
長州藩と孝明天皇の関係のリアルは、天皇中心の明治政府にとって「不都合な真実」でしかありません。
要は、隠すしかない。
実際、明治維新後は、過激な尊皇攘夷派や長州藩の排除に回った者、つまり会津藩などは政治から遠ざけられ、意見を述べる機会がありませんでした。
いきおい真実の姿が見えにくくなる。
幕末史が、途中からワケわからんのは、こうした史実の歪曲が今にまで影響しているんですね。
逆に、そこを押さえておけばスッキリ気持ち良いのに、大河『西郷どん』でも『青天を衝け』でも政治史は放置でしたので、おそらく視聴者の皆さんはチンプンカンプンだったでしょう。
それともう一つ。
本題へ入る前に押さえておきたいことがあります。
ペリー来航以来、開国に向けてのすったもんだは小学生の授業でも習いますが、このときの皇族や公卿の意見は、ほとんど役に立たないばかりか、有害でしかありませんでした。
なんせ彼らは何も知らない。
江戸時代に置かれた状況を考えれば仕方のない話ですが、内陸部の京都を一度も出たことのないような面々に、海外情勢の知識を得る機会など無くて当たり前です。
そんな彼らの意見を尊重したらどうなるか、答えは火を見るより明らかでしょう。
結果、開国と開化への道のりが遠回りになってしまった部分もある――そう考えた方が自然です。
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事前の説明が少し長くなってしまい申し訳ありません。
これより本題の皇族・公家を見てまいりましょう。
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